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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

読書日記

時間を引きずっている―エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』

いつか自分も、自分の中にあるもので充足して同時に自分の作り上げた作品にも満足できる日というのが来るのだろうか、たとえば……晩年、とかに。でも、それがいつなのかということは主体が生きている間、明確に意識されることはきっとなくて、と、いうことは…

フィクションという菌糸が結ぶ人菌関係―『FUNGI 菌類小説選集 第Ⅰコロニー』

ある日、ニコニコして家に帰ってきた彼女が鞄からおもむろに取り出したものがそれだった。一体どこで採って来たのやら、妙な構造をしたキノコらしきものが描かれた本だ。彼女はそれをテーブルに置くと「そこらへんの本屋に普通に生えていたの」と言った。そ…

憑依? いつもと違う文体でお送りします、だって作者が否応なしにノリウツッテ来るんだもの。

気になっていた小説家の作品を、4月5月と縁がありようやく読む事ができた。 その小説家というのは笙野頼子という人で、名前くらいはうっすら聞いたことがあったが、実際にはなかなか読む事ができないでいた。で、どうして今年になって急に読み始めたかという…

砂が書く、うつろい / たゆたい ―坂口恭平『現実宿り』

砂漠には行ったことがないけれど、よく海辺に行ってはどこから打ち上げられてきたのかさっぱりわからない倒木や、海藻やゴミの絡まり合ってできた山、それに人間が作った波除ブロックなんかに登って砂浜を眺めることがある。海辺の砂は、風に飛ばされていく…

あみ子の暗い穴―今村夏子『こちらあみ子』

この本には「こちらあみ子」「ピクニック」の二編の小説が収められているが、今回ブログの記事では「こちらあみ子」を取り上げたいと思う。 ふだんはあまりこういうことは気にしないのだけれど、たくさんの人がこの小説に関心をもって読んでいるらしいので、…

又聞きの人生―滝口悠生「高架線」(『群像』2017年3月号掲載)

今回は『群像』2017年3月号に掲載されていた、滝口悠生「高架線」という小説の感想を書いていきたいと思う。地上より高いところを電車が走る「高架線」。そこから風景を眺める瞬間を彷彿とさせるような、きゅうに目の前にパーッと小説全体が開けて見える瞬間…

人物の秘匿性 / 可能性の選択と抹消―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

二段組みで1000頁もある大長編小説『テラ・ノストラ』。この作品にはものすごく膨大な時間が流れている。時系列(直線的な時間理解)で整理して読めば、アステカ文明やイエス・キリストが活動していた頃のローマ帝国、15~16世紀のスペインの「新大陸」発見…

二重の円 / 唯一と多様―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

前回に引き続き、今回もカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んだ感想を書いていきたいと思う。 カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年) 前回記事↓↓ mihiromer.hatenablog.com ■二重の円構造 この作品の構造が「…

悪夢と数珠つなぎの呪い―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んで

この小説は「悪夢」に似ている。それをみている間、確かに私を支配していた秩序が、目覚めとともに支離滅裂になって霧散する。嘘くさいとか、あり得ないとか、そういう言葉で割り切ることができない確かに存在した「悪夢」であったはずなのに、そこにあった…

たとえパパが平凡な茄子に見えても好きなんだからそれでいい―東宏治『トーベ・ヤンソンとムーミンの世界』

私はムーミンパパのことが大好きだ。 何故かといえば、自分の好きな人に「似ている」と言われたからだ。どうやら、傍から見ていると、私とムーミンパパは似ているらしい(体型は全然似ていないと主張しておきたい笑)。そう言われてみてから、ムーミン物語を…

島暮らしに必要な「冒険」への愛情―トーベ・ヤンソン『島暮らしの記録』

日本ではムーミン物語の作者としてすっかり有名なトーベ・ヤンソンにとって、「島暮らし」というのは幼い頃からの習慣であり、人生にとって欠かすことのできない期間であったらしい。訳者の解説によると、母親の腕に抱かれた赤ん坊の頃に滞在したブリデー島…

丸っこい滑稽さ―ムーミン・コミックスを読んだはなし

ある時はカバに間違われて動物園の檻に収容されそうになったり(ムーミン・コミックス第3巻「ジャングルになったムーミン谷」)、 また別の時には動物愛護の名目で「かわいそうな」サーカスの動物たちを脱走させ、ムーミン屋敷で世話をするはめになったり、 …

風景の生まれる瞬間―磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』

さて、どういうわけなのか、2月は磯﨑憲一郎強化月間(?)になっており、ブログの更新もこの著者の作品についてばかりになってしまっているのだが、今回も懲りずに書いてみようと思う笑。今回は、磯﨑憲一郎のデビュー作(文藝賞受賞作)である「肝心の子供…

キャプション以前の―磯﨑憲一郎『世紀の発見』

この小説は私にとって、どういうわけだかひどく思い出深いものなのだ。本当に大好きな本であるにも関わらず長い間所有することはなく、そうであるにも関わらず何故か何度も読み返しており、どこで読み返したのかと考えていると実にいろいろな町の図書館の閲…

パースペクティヴ――磯﨑憲一郎『往古来今』

今回ご紹介する本はこちら。 磯﨑憲一郎『往古来今』(文春文庫、2015年) 往古来今 (文春文庫 い 94-1) 作者: 磯?憲一郎 出版社/メーカー: 文藝春秋 発売日: 2015/10/09 メディア: 文庫 この商品を含むブログを見る この本をはじめて目にした時、なにかが違…

あこがれのまなざし、そのゆくえ―津島佑子『狩りの時代』

「差別ってよくない」「差別をやめよう」 なんていう言葉はもう何十年も(いや、もしかしたら自分の人生を超えているから実感が沸かないだけで実はもう何百年も)言われているのかもしれない。 しかし、何が差別で何が差別ではないのか? あまり考えられるこ…

ちいさな文芸誌たちのこと

最近、「ちいさな文芸誌」に注目している。 ここで「ちいさな」という言葉を使ったのは、単にいわゆる「五大文芸誌」と区別するためで否定的な意味はない。大手出版社が刊行しているのとは別の文芸誌、という程度の意味である。誌面はとても充実していて、作…

三人のアルテミオ・クルス、未来が過去を予言する??―カルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』

2017年もまだ始まったばかりだというのに、さっそく素晴らしい長篇小説に出会うことができた。今回はカルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』(新潮社、1985年)という本を紹介したい。 ちなみに以前カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』について…

スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い』を読んで考えたこと

昨年末から年始にかけて、しばらくスーザン・ソンタグの著作を読んできたわけだが、今回の更新で一旦終わりにしたいと思う。今回は『隠喩としての病い』を読んで考えたことをまとめておきたい。 スーザン・ソンタグ 著、富山太佳夫 訳『隠喩としての病い』(…

たとえ新しい感情がわきあがっても―スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』

今回はスーザン・ソンタグの『ハノイで考えたこと』という本を取り上げたい。 スーザン・ソンタグ 著、邦高忠二 訳『ハノイで考えたこと』(晶文社、1969年) ハノイで考えたこと (晶文選書) 作者: スーザン・ソンタグ,邦高忠二 出版社/メーカー: 晶文社 発…

写真ってなんだ?―スーザン・ソンタグ『写真論』

今回はスーザン・ソンタグの『写真論』を読んで考えたことを書いてみようと思う。この本を読むまで、そもそも写真とは何か? どういう性質のものであるか? などと考えたことはなかった。考える暇もなく、現代の我々はスマホで気軽に写真を撮るのである。こ…

<既知>なるものからにじみ出る<変>―コルタサル『海に投げこまれた瓶』

久しぶりにフリオ・コルタサルの短篇集を読んだ。やっぱり好きである。今回読んだのは、『海に投げこまれた瓶』という短篇集で、収録されている作品は以下の八作品である。 ・「海に投げこまれた瓶」 ・「局面の終わり」 ・「二度目の遠征」 ・「サタルサ」 …

弔いのかたち―杉本裕孝「弔い」

人は二度死ぬ。一度目は生物として死んだ時、二度目は人に忘れ去られた時だ、なとどいうのは一体どこで聞いた言葉だったかあやふやだが、馴染のある感覚である。 杉本裕孝「弔い」という作品では、人は二度生きる。一度目は死ぬ前の生、つまりふつうに生きて…

読書はひとを連れてくる、そうしてひとを連れ去っていく―稲垣足穂について

今回は稲垣足穂(1900-1977)を紹介しようと思う。 稲垣足穂『現代詩文庫1037 稲垣足穂』(思潮社、1989年) 稲垣足穂『ちくま日本文学全集 稲垣足穂』(筑摩書房、1991年) 稲垣足穂 [ちくま日本文学016] 作者: 稲垣足穂 出版社/メーカー: 筑摩書房 発売日:…

「声」は「祈り」だった―スベトラーナ・アレクシエーヴィッチ『チェルノブイリの祈り』

今更、私のブログで話題にする必要があるのだろうか? そう思ってブログの更新をためらってしまうほどに有名な本、『チェルノブイリの祈り』。作者スベトラーナ・アレクシエーヴィッチは昨年(2015年)ノーベル文学賞を受賞したベラルーシのノンフィクション…

自分で自分をなげるように―エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』

この社会に生きていると、嫌な思いをすることが多々ある。困難が降りかかってくることもしょっちゅうだ。そういう諸々の面倒事を、こんなふうにさらっとかわして生きていけたら、どんなに幸せなことだろう、と思ってしまう。 彼らと争ってみても全然歯が立た…

人は語り、そして生きる―奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体験」

今朝、午前六時二分、気象庁は東北地方太平洋沿岸に津波警報・注意報を発表した。同5時59分頃福島県沖で発生したマグニチュード7.3、最大震度5弱の地震の影響だ。 ちょうどこの時私は月刊新潮に三回にわたって掲載された奥野修司「死者と生きる―被災地の霊体…

名づけられた様々な魔法に放り込まれた遍歴の騎士―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想④

今回の更新で『ドン・キホーテ』後篇に関する一連の更新は終りになります。前篇も合わせれば随分とこの機知に富んだ郷士に振り回されていたような(汗) ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫) 作者: セルバンテス,Miguel De Cervantes,牛島信明 出版社/メーカ…

演じるということ―「ドン・キホーテ」に含まれる素朴な芝居観について/セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想③

『ドン・キホーテ』後篇についての記事がこれで3本目になる。今回は基本的なことだけれど、『ドン・キホーテ』という作品全体に含まれるごく素朴な芝居観について書いてみたい。引用頁などは岩波文庫版の『ドン・キホーテ』後篇に拠る。 セルバンテス作、牛…

本を読むこと、本で読まれること―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想②

今回の更新は前回に引き続き、『ドン・キホーテ』後篇の感想を書いていく。前回の更新で今後書いていくことについて箇条書きにしておいたが、今回はひとつめ、「本」というものをめぐる諸々の話について書いていきたい。我々にとって「本」というものはごく…

著者が約束した後篇―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇の感想①

近代小説のはじまりと言われているセルバンテスの『ドン・キホーテ』を今年に入ってから読んでいたのだが、つい先日後篇を読み終えた。長いような気がしていた物語も、読み始めればあっという間に終わってしまった。今回からしばらくの間『ドン・キホーテ』…

ムーミンがいる、ということ―トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』

今回でムーミンシリーズの原作小説についての感想は終わりにしようと思う。最後はシリーズ最終巻である『ムーミン谷の十一月』(1970年)を取り上げたい。今月はひとりで黙々とムーミンシリーズの小説を読んでいたが、本当に出会えてよかったと思う。とても…

ままならないことを、ままならないままに―トーベ・ヤンソン『ムーミンパパ海へ行く』

「だけど、それじゃ海は生きものにちがいないな。海は考えることができる。したいほうだいのことをする……。あいつを理解することは不可能だ……。もし森が海をおそれるのなら、それは海が生きているということになる。そうじゃないか」 「じゃあ、わしは理解す…

天井からながめるべきだよ―トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』

「わしは、よく思うんだがね。たまには、じぶんの家を、下のゆかからじゃなく、天井からながめるべきだよ」 『ムーミン谷の夏まつり』より引用、ムーミンパパの台詞 今回は『ムーミン谷の夏まつり』についての感想を書いていく。この作品は、物語が面白いの…

魔法をめぐる物語―トーベ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』

今回はムーミンシリーズの原作小説のひとつ、『たのしいムーミン一家』の感想を書いていこうと思う。過去記事にも書いたが、私はアプリゲームからムーミンの世界観を知り、原作が気になって読み始めたという経緯がある。そういう視点で読んでみると、この『…

幽玄の中へ認識を押し広げるという言葉の可能性―泉鏡花「高野聖」を読んで

(まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたらどうしましょう、川下へ流れ出でましたら、村里の者が何といって見ましょうね。) (白桃の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。 すると、さも嬉しそうに莞爾(にっ…

何故かムーミンシリーズの小説を読み始めたこと

最近、職場の人に誘われて、今更という感じではあったのだけれどムーミンのアプリゲームを始めた。こういうものに、どうしてもお金をかけたくないと思ってしまうので課金はせずにのんびり時間にまかせてプレイしているのだけど、結構面白い。キャラクターや…

化かされて、愉快いな―泉鏡花「化鳥」

化ける、というのはどういうことなのだろうとふと考えた。辞書的な意味を引いておくと「本来の姿・形を変えて別のものになる」ということ。私達は「化ける」ことよりも、たぶん「化かされる」ことのほうが身近に感じられるのではないだろうか? 自分が化けて…

連想から生まれる幻を追う―泉鏡花「照葉狂言」

今回は泉鏡花「照葉狂言」という作品について書いていく。 照葉狂言 作者: 泉鏡花 発売日: 2013/10/21 メディア: Kindle版 この商品を含むブログを見る この小説は1896年読売新聞に掲載されたもので作品内には、「鞠唄」「仙冠者」「野衾」「狂言」「夜の辻…

極端のはしっこ―泉鏡花「夜行巡査」を読んで

今年に入って、少しずつだったが、数か月間かけて泉鏡花の作品を読んでいた。先日ひと段落したので、作品をいくつか紹介しておこうと思う。 泉鏡花は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した作家で近代における幻想文学の先駆けとしても評価されているそうだ…

日本語の時空間をめぐる旅―池澤夏樹=個人編集日本文学全集30『日本語のために』

かつてこの国では、文学全集という形式が流行った。そしてやがて廃れた。今、かつて出版された文学全集たちは、多くの町の図書館にある閉架書庫で埃をかぶって眠っている。時々その中の1冊、2冊がマニアックな読書家に発見されて借りられていくのだろう。1冊…

モノと文化、人と歴史と認識と―関根達人『モノから見たアイヌ文化史』

もう1年以上前になるが、私は以前こんな記事を書いた。 交流、混淆、変容 ―『アイヌ学入門』という本から再確認した文化観 - Danse Macabre! 生まれも育ちも北海道なのに、北海道の歴史が、はっきり言ってよくわからない。 小中高時代で習ったことによれば、…

僕たちが立つ場所―いしいしんじ『海と山のピアノ』

今回はいしいしんじ『海と山のピアノ』(新潮社、2016年)という本について書いていこうと思う。発売された時、表紙が可愛いということで話題になっていたのは記憶に新しい。書店へ行ったところ、新刊本コーナーにあったこの本の可愛さには抗えず……買ってし…

人生が凪ぐ時―ル・クレジオ『偶然――帆船アザールの冒険 アンゴリ・マーラ』

今回紹介する書籍にはふたつの小説が収録されている。「偶然――帆船アザールの冒険」と中篇小説の「アンゴリ・マーラ」だ。当ブログでは今回「偶然――帆船アザールの冒険」についての感想を書いていきたいと思う。 ル・クレジオ、菅野昭正 訳『偶然――帆船アザ…

束の間の越境―ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』

今回は前回に引き続きル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』より「童児神の山」と「水ぐるま」という短篇作品を2本紹介したいと思う。 ル・クレジオ 著 豊崎光一、佐藤領時 訳、『海を見たことがなかった少年』(集英社文庫、1995) 海を見たことがな…

夢想としてまるで絵のような風景をみる―ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』

いつの頃からか、毎年に夏になると必ず読み返す本がある。 ル・クレジオ(豊崎光一、佐藤領時 訳)『海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』(集英社文庫、1995年)という本だ。 海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英…

素材と表現の立場、自覚的に鑑賞すること―伊福部昭『音楽入門』について

伊福部昭、という人の名前を聞いてもそれが何者なのかいまいちピンとこない、という人であっても映画「ゴジラ」の音楽を作曲した人だよ、と言ってあげるとわかってくれたりする。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないが、ひとまず私はよく伊福…

言葉を使ってるから―仙田学「愛と愛と愛」感想その2

「言葉」というものは、人と人の間において障害にもなるし、架け橋にもなり得る。 人と人の間にあるかもしれない「空虚」を埋めることさえできるかもしれないし、人が隠そうと決めた心の弱い部分を暴力的にえぐり出し、攪乱してしまうかもしれない。 mihirom…

すっきりした文で、コミカルで、怖い―村田沙耶香「コンビニ人間」

今回は、村田沙耶香「コンビニ人間」について。この作品は第155回芥川賞受賞作ということで色々な人が手に取り、Twitterなどで感想を述べている。色々な人がひとつの作品について様々な感想を語る、今のこの状況、私はとても楽しい。 コンビニ人間 作者: 村…

騎士も城も恋人も、信じることが大事なのだ―セルバンテス『ドン・キホーテ』

今回の更新で『ドン・キホーテ』前篇に関する一連の更新は終わりにしようと思う。第一回目の更新で触れていた通り、今回は【絶対に本物の騎士になれないドン・キホーテ】、【重要な舞台装置、「魔法にかかっている宿屋」について】の二本立てで書いていく。…