言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

逃げると生きるは背中合わせ―絲山秋子『逃亡くそたわけ』

亜麻布二十エレは上衣一着に値する。

意味はわからない。だけどこれが本の文字の中に見えると、なんだか不安になってくるのだ。

亜麻布二十エレは上衣一着に値する。そしてこれは、この本の中に何回も出てくる。語り手である花ちゃんこと「あたし」にきこえる幻聴だからだ。

実はマルクスの『資本論』に出てくる一節らしいのだけど、亜麻布二十エレは上衣一着に値する、そんなことがわかったところで「あたし」が抱えるつらさはきっとわからない。「あたし」は、躁うつ病(現在では双極性障害と呼ばれる)を患っており、こんな幻聴亜麻布二十エレは上衣一着に値するがきこえてくると調子が悪くなって、あるとき軽い気持ちで死のうとして精神病院に入院することになってしまった。

だが、21歳の夏は一度しか来ないのだ。

どうしようどうしよう、と焦燥はつのり……「だけん逃げんばいかん!」

病院の中庭で悲しそうな顔をしてしゃがんで野良猫をかまっていた「なごやん」と一緒に、「あたし」は病院から逃げ出した。そうして二人の、福岡から鹿児島までおんぼろ車(名古屋ナンバー)で九州を縦断するめちゃくちゃな旅が始まったのだ。亜麻布二十エレは上衣一着に値する。

逃げることは、生きることだ。そのくらい「あたし」は切実だったのだ。もしもそのまま病院に入院していたら強い薬によって朦朧とさせられ「廃人」にされてしまう。だから生きるために逃げなければならない、と本気で思っているのだ。逃げなければならない、道がなくなるまで、高速道路では見つかって病院に連れ戻されるかもしれないから国道を、時に「酷道」をひたすら南へ向かって逃げる。

 

絲山秋子『逃亡くそたわけ』(講談社、2007年)

 

 

『逃亡くそたわけ』はこんな物語で、道中の実に様々な「とんでも逸脱行為」がコミカルに、そして時々シリアス?に(だって野菜泥棒をするならハサミは持っていた方が便利だし、なごやんにばっかり車の運転を任せていたら申し訳ないから無免許だって「あたし」は運転するのだ)描かれている。精神の病を題材にした小説だなんていうと、暗くて死にたいつらいの溜息ばかりと思われそうだが、本書はそうではなくて、ひたすら車で九州を南下して逃げる愉快な逃亡劇だ。この物語の語り手は強いと思う。「逃げる」は「生きる」に直結する強い意思だから。死にたいつらいの溜息語りで物語は進まない、だけれど、本当はすごくしんどいのだ。亜麻布二十エレは上衣一着に値する。たびたびの幻聴に、それから幻覚に脅かされる。

 

今回再読をして「ねえなごやん、悲しかね、頭のおかしかちうことは」(112頁)という語り手のセリフが心に突き刺さった。精神の病はやはり悲しいのだ。亜麻布二十エレは上衣一着に値する。自分が自分の肉体から逃げ出してしまいそうになりながら(もしかしたら、自死にはそういう感覚があるかもしれない)亜麻布二十エレは上衣一着に値する、幻聴や幻覚に対抗するために、薬だって必要なのだ。でもこの「逃亡劇」はあまりにも無謀で、そして間違えているかもしれないと心のどこかでは思い続けてもいる。それでも逃げなければならなかった。

 

「ボラ、みたいなもん?」

樋井川の河口に、でっかい身体で水の中から飛び上がってはぼちゃっと落ちるボラの姿が浮かんだ。飛び込みの経験から言うとあれは相当痛いはずだ。でもボラは鈍いから感じないのかもしれない。痛くても飛ばずにはいられないのかもしれない。理由はボラに聞いてみなければわからない。

(135頁より引用)

 

 

本書のもうひとつ重要なテーマは「土地」だと思う。「あたし」と一緒に精神病院から逃げ出した「なごやん」(蓬田司)は名古屋出身で、だけど名古屋にとても複雑な感情を抱いている。東京の大学を出て就職し、その後転勤で福岡にやって来たが、ひたすら「東京かぶれ」なのだ。「俺は方言は絶対に喋らない」というなごやんによると、「人間の精神は言語によって規定される」のがウィトゲンシュタイン以降の常識らしく、名古屋に規定されたくない彼は名古屋弁を喋らない。「あたしには九州の血の流れとってから、それば誇りに思いようけんね。だけん自分の言葉も好いとうと」(55頁)という花ちゃんとは正反対なのだ。

なごやんの気持ちが私にはわかるような気がする。私は北海道で生まれ育ったけれど、北海道に複雑な気持ちを持っている。好きか嫌いかという線をすっぱり引くことはできないけれど、「嫌い」だと思って振るまっている時、他人にその「嫌い」を共感されると途端に反論したくなるし、「好き」だと思って振るまっている時には、どうしても土地に滲み込んでいる歴史的な暗い事実の気配を感じてしまう。方言はあまり喋らない。

物語の最後に花ちゃんとなごやん、二人が辿りついた場所から、小さな湾の向こうに開聞岳(薩摩富士)が姿を現す。

「なんだれあれ、富士山のレプリカかよ」と黄色い声で怒鳴ったのはなごやんだった。「地の果てまで来てこんなもん見せられるとは思わなかったよ」と言うなごやんの表情から「俺の富士山をバカにしやがって」と思っているのが「あたし」にはよくわかった。

 

そういえば、北海道生まれの私が大学時代の数年間移り住んでいた青森県には「津軽富士」とも呼ばれるお山がある。「くそたわけっ」と、なごやんは叫ぶに違いないが、たぶん探せば日本全国あちこち「ご当地富士山」みたいに「〇〇富士」というのがあるのではないか。なごやんにとっては、結構な数の「くそたわけ案件」かもしれない。

 

ゆたーというのは、世界をまるごと抱きしめたくなるような気持だ。そして世界があたしを抱きしめ返してくれて、全身の力が抜けていく。自分が「いる」ということがたまらなく気持ちいい。(176頁より引用)

 

 

 

 

亜麻布二十エレは

この旅は鹿児島で終わりを迎える。ゆたーとした感覚、世界に自分が「いる」ことを肯定されている気持ちになれたら、それは幸福なのだと思う。

なおこの物語から十数年後の物語が『まっとうな人生』(河出書房新社)だ。そこでなごやんは名古屋との和解の第一歩を踏み出す。花ちゃんは結婚して、なんと富山県で頑張って暮らしていた。で、花ちゃんのお相手は年上の甘党のおじさんだった。え?! 「赤パンのよかにせ」じゃないんですかっ!? みたいなアホ発言はブログだから書ける。

 

 

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今月発売の「文學界」8月号に、本書の続編である『まっとうな人生』(河出書房新社)の書評を書きました。題は「人が引いた線なんて」。どうぞよろしくお願いします。ちなみに『まっとうな人生』から読んでも、充分にたのしめます。書店で私の書評を立ち読み後『まっとうな人生』を買って帰るのがおすすめです。(久栖)