言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

気配と手触り―小山田浩子『パイプの中のかえる』『かえるはかえる パイプの中のかえる2』

久しぶりに小山田浩子さんの短篇小説「広い庭」(『庭』新潮社、2018年所収)を読み返した。やっぱりいいな~この作品好きだな~と思った。文芸誌に掲載されたときに初めて読んで、その時もなんだかひとりで盛り上がって「これはちょっとすごいんでないか」とずっと言っていた記憶がある。あるようなないような、「気配」とでも言いたくなるものをそうとは書かないで、あくまでも具体的な存在としてはっきりくっきり書いたらちゃんと池のある庭の形になっている、みたいな面白さ。もちろん具体的に書かれているから「ない」ものの手触りすら「ある」という不思議。広い庭の形と池の形(どちらも楕円形)など、あちこちに見えてくる遠近や相似形、それらが広がっている風景の見え方。「黒い大きな魚が泳いでいる。カポ、と口の形の波紋が浮かび上がって消える。アメンボの脚が作る小さな丸い水のくぼみが、沈んだ魚の鱗に光って映り六弁の花模様になっていた」(「広い庭」より引用)確かにある、この手触りときらめき、気配。

 

実は今回のブログの記事をずっとどうやって書き出そうか悩んでいた。小山田浩子さんのエッセイ本を紹介しようと思っていたのだった。

 

小山田浩子『パイプの中のかえる』(twililight、2022年)

小山田浩子『かえるはかえる パイプの中のかえる2』(twililight、2023年)

下のリンクよりtwililightさんのサイト→ONLINE SHOPで購入することができます。

(ちなみに私は事前予約でサイン本をゲットしたのでした~)

twililight.com

 

『パイプの中のかえる』は著者にとっての初エッセイ集で2020年7月から12月の半年間、日経新聞夕刊に毎週連載していたコラムをまとめたもの。そして今年出版されたエッセイ集第二弾『かえるはかえる パイプの中のかえる2』は2023年4月~9月に「twililight web magazine」に連載されていたものに書きおろしを加えた一冊。もとが新聞のコラムだったせいか、一回に読む分量が休憩時間にちょうどいい感じで、私は職場のお昼休みのおともにしていた。エッセイをひとつ読んで、むう……と考えていたら休憩時間が終わる。読みながら、ああこんなことあったな、あんなことあったな、という著者と同じ時間を共有できる社会的な出来事から、著者しか知らない日常の些細な、けれど重要なこと(キャビネット埋蔵金の発見)まで、真剣に考えたり笑ったり。

 

井の中の蛙」じゃなくて「パイプの中のかえる」なのがなんだか親しみやすい。井の中の蛙と言われても、ちょっとそこいらに井戸なんかないからその中のかえる?って、どんな感じなんだろう、わからない。パイプなら、なんかありそうだと思える。どういう仕組みでかえるに住みよい場所になっているのかわからないけれど、住んでいても別に変じゃない、なんなら見たことあるような気さえしてくるのは、たぶん小山田さんの短篇小説「広い庭」に出てくるからなのだ。一見何の変哲もない「普通」(なんてほんとはないけど)の光景だって書き方によっては異様なものに見えてくる、そういう小山田作品の面白さがエッセイでも読める。

 

『かえるはかえる パイプの中のかえる2』の前書きで小山田さんは「普通」なんて本当はなくて、何が普通で普通じゃないかと人と確かめ合ったりせずに過ごすなかで「自分の普通や普通でなさを書き留めておく機会は本当にありがたかった」と書いている。そんな小山田さんの日常の見方、手触りや立ち込めてくる気配が書き言葉になって本になって私の手元にある、というありがたさを昼休みに味わっていた。

 

 

私は小説を書いていて、具体、固有をどんどん書きつけて深くしていくと、何故か普遍というか、全然ちがう他人の感覚に近づいていくというか、他人に「あ、この感じわかるかも」と経験を喚起させる力が宿ると感じることがあるけれど、小山田さんのこのエッセイ集はまさにそんな力の塊だった。とても不思議なのだけど、エッセイに書かれた言葉を読んでそれを書いたひと(著者)の経験や感覚を私(読者)の中に再生させていると、何故かどんどん自分自身の別の記憶を呼び起こしたりして、こういう読み方が正しいのかどうかはわからないけれど、とにかく楽しかった。子供の登校時の交通安全見守り活動について書かれたエッセイを読んで、私は自分が新型コロナワクチン接種が始まったばかりの頃に会場運営の仕事をした時のことを思い出したし(コンニチハー、ゴクロウサマデース、コチラニドーゾー)、Eテレさんで朝の時間を計って行動している様子を描いたエッセイを読めば、自分も子供時代に親と「忍たま乱太郎が終わったらお風呂に入ること」なんて約束していたなと思い出した。

考えさせられたことは、子供が触れるものの(本書ではEテレの番組)倫理観のこと、広島の平和教育のこと、配偶者をどう呼ぶかということ。このあたりは昼休みに「むう……」と唸って全然休めなかった話だった。

他人の「夫」のことはやはりどうしてか「旦那さん」「旦那ちゃん」(?)と呼んでしまっていることに気がついた。この場合の私の心理を少し深堀りしていくと、そこにはたぶんその「夫妻」の主従みたいな意識はなくて、単に人様の配偶者を重んじるニュアンスで使っているんじゃないかと思った。男性に配偶者のことを尋ねる時はたいてい「奥様お元気ですか?」となる。独身の自分にしてみれば、結婚している人たちはなんかすごく偉いと思う。あくまで感覚の話だけれど、じっくり考えたことがこれまでなかったから興味深い。

 

書かなければすっかり忘れてなかったことになってしまう小さな憤り、世間への違和感、私って一体何が好きで、どうしてそれが好きなんだろうという些細なこと。世の中はどんなふうに移り変わっていて、その中にいる私の感覚とどこが似ていてどこが違うのか。日常は毎日ほとんど変わらないように見えて、それはパイプの中みたいな狭い場所かもしれないけれど、でも本当は変わらないということはなくて些細なことであっても変化をまぬがれない。だから、どうしたら自分の大切なことを守って生きていけるんだろうかと考える。

 

「社会の、身の回りの、さまざまなものについてそのあり方決められ方消され方忘れられ方について意識して選び続けること、その継続の先にしか平和なんてない。ちゃんと選んだほうがいい」

(『かえるはかえる パイプの中のかえる2』より引用)

 

社会は動いて変化して、でもそれはどうしてなんだろう? 気がつけばそこはパイプの外側の流れのただ中で、これから何がどうなっていくのか、注視したほうがよさそうだし、ちゃんと選んだほうがいいってことだ。選挙にも行った方がいいってことだ。小山田さんのX(旧Twitter)アカウントによく書かれている「戦争反対、絶対反対」というような意思表示をもっとしたほうがいいってことだ。そういうことがとても大事に書かれたエッセイだと思っている。

 

2023年も残りわずかとなりました。

当ブログをお読みいただきありがとうございます。

今年は、私の新人賞受賞第一作というのをやっと出すことができたり、去年書いたエッセイが『ベスト・エッセイ2023』に収録されたり、岡田敦さんの『エピタフ 幻の島、ユルリの光跡』の書評を書いたり、『LOCKET』第六号にエッセイを書いたりと充実した一年を過ごすごとができました。いつもお読みくださっている読者の皆様には心よりお礼申し上げます。ありがとうございます!

来年は何か出せるかはわかりませんが(一応進行している原稿はあります、半年以上放置されているのもあります汗)、己の人生の全部を文学に込めて、できれば長生きしたいと思っているので、応援よろしくお願いします。

よいお年をお迎えください。

(久栖)