言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

どこにもなくて、遍くある―絲山秋子『神と黒蟹県』

〈蟹という字が書けるだろうか。〉

 

黒蟹営業所への異動が決まって、北森県から黒蟹県紫苑市へ赴任することになった三ヶ日凡。彼女が最初に思ったこんなことからこの小説は始まる。書き慣れない文字のある住所に移り住むこの感覚は転勤族の家庭で育った私には馴染みのある感覚だ。不思議なことに一年も経たずに、書き慣れないと思っていた字も書けるようになるし、なんなら書き慣れないと思っていたことさえ忘れてしまう。その頃には新しい土地にすっかり馴染んだ気になっている(本当に地元民になる、ということはないと私は思っているけれど)。ちなみに本書を繰り返し読んで日々生活をともにしていると書けるようになるものなんだな、「蟹」という字が。

 

絲山秋子『神と黒蟹県』(文藝春秋、2023年)

 

 

本書は「黒蟹営業所」「忸怩たる神」「花辻と大日向」「神とお弁当」「なんだかわからん木」「キビタキ街道」「赤い髪の男」「神と提灯行列」の八篇から成る連作短篇小説だ。自分の経験を重ねて「あるある!」と頷きながら読んだ、たのしい読書の時間だった。単行本になったことで、文芸誌に掲載されていたものをバラバラに読んでいた時にはわからない黒蟹県という場所の雰囲気がより浮かび上がってきて、ウヒョー!単行本ありがとー!と叫んでいるのは私だけではないはずだ。その「雰囲気」というやつを明瞭に説明できたらいいのだけど、それはちょっと難しくて、だからこそこの本を読んでほしいと思う(そもそも短篇集を紹介する文章を書くのが苦手なのだ)。

 

私はこの一冊を「どこにもなくて、遍くあるもの」を書いた本だと思った。物語の舞台である黒蟹県という県が実在しないことはすぐにわかる。けれどそれぞれの市や町の名付けようのない特色や関係性は、実在する日本全国津々浦々の「地方」と呼ばれる場所をぎゅっと濃縮したような存在感がある。生活していて、日頃当たり前に尊敬する山があって、あの町とこの町は歴史的な経緯もあって現在も不仲らしく、菓子ひとつとっても〇〇派VS〇〇派という強いこだわりがあり、ご当地テレビ番組の情報がゆるやかに共有されている(私が学生時代住んでいた青森県を思い出した、あの頃「笑っていいとも」は夕方に放送されていたんだよ、「いいでば英語塾」という津軽弁で英会話の勉強をする番組があったんだよ)。同じ苗字の人が多い地域、方言、新しく作られた道路と「旧道」と呼ばれるようになる道がある。

 

ある土地にずっと地元にいる人もいれば、他所から移ってくる人もいる。よそ者が排斥されるわけでもないけれど、よそ者というのは、そこがどんな場所なのか、どこが他所と違うのかと自分の周りをやたら情報で埋めたがるという特徴がある。それ故に土地に対して無頓着に暮らしている地元民とはたぶん長い間、なんか違う存在ということになってしまう。

生活にとって本当に大切なことは情報ではなくて、「見えないランドマーク」のほうなのだ。新しく赴任してきた三ヶ日凡は雉倉豪という前任者からの引継ぎのため、営業場所を車で回るのだが、廃業して今はもう跡地すらわからない百貨店をランドマークとする「デパート通り」や「ダイエー南交差点」、ガソリンスタンドがあったとされる「モービルの角」(実は我が家の近くにもある)なんていう呼び名に出くわす。「狐」を先頭に1キロの渋滞が起こったりもする。地図やカーナビには無いけれど「それらは現実の住所よりもずっと緻密で、正確に共有されている」、ああ、生活だなあと読みながら思った。

 

生活、生活と散々書いてきてふと立ち止まって振り返っても、きっと後ろにはこれといって特筆すべきものは何も見えない。おかしなことを言うようだけど、もしかしたら人間の生活は人間には見えないのかもしれない。それで本作には人間の「生活」や「関係性」を眺めるという重要な役割を担う「神」が登場する。全知全能の神ではない「半知半能」の神だ。「本物のよそ者」だと私は思った、それが少し寂しく思われることもあった。

神はある時は「おっさん」である。また別の時には六十代無職の存在として、さらに別の時にはホームセンターで働く「おばさん」の一人でもある。登場人物の思い出の中にいる人物になっていたり……実に遍く存在する。この神にとって「人類は永遠の興味の対象である」らしい。神として人間の願いごとを聞き届けているわけではないし、目の前にいないとき、人々が神を思い出すことはないけれど、神はちょうどいいタイミングで現れてちょっとした頼みごとをきいてくれたりする。

普段の生活で、人間はいちいちこんなことを問わない。けれど神には純粋に不思議がって問えることがある。

 

「弁当とはいったい何か」

神は人類に問うた。

(前掲書97頁)

 

 

ささやかに見せかけて、なんて壮大な問いなのだろう。

私が毎日職場に持っていく弁当はおにぎり一個である、ここにあるこだわりについて考えたことなんてそういえばなかった。作中では、介護職の樋口夏実が考えるお弁当観が印象に残った。樋口によるとお弁当は「二度寝の布団みたい」であり、それは「公私の狭間にある」存在なのだ。「こだわり」である以上、それは人それぞれで、そんなひとつひとつの些細なことが神には興味深いものに見えるのだ。そして神は思う、「人類とはなんと愛らしく、そしていじましいのだろう」と。

 

こういう「神」のまなざしを私は勝手に「絲的神の視点」と呼んでいる。作品論みたいな言い方になってあまり好きじゃないけれど、「神」という「装置」があるからこそ、名付けようのない関係性が見えてくるのだろう。ある土地に新しくやってきた「よそ者」が当初はこの神の視点に近い物の見方をするのかもしれないが、しかし「よそ者」はいずれ土地に馴染む。神は絶対に人間の土地には馴染まない。どんなに姿形を人間に似せても、永遠のよそ者なのだ。

 

「どこにもなくて、遍くあるもの」という私にとってのこの本の印象の出どころは、たぶん、地方の「あるある」を煮詰めたような架空の土地である「黒蟹県」や「神」の在り方、見つからない「大日向氏」であり(県庁文化推進部の大日向さん、『昼飯ワンダフル』の大日向忠太さん、というふうに同じ姓の人が多い地域では職業などで呼び分けられる、それがないただの「大日向氏」はいつまでも見つからない、けれどたぶんどこかにはいるのだし、そうやって互いを認識し合う人間って面白い)、行方不明の「コーキ」である。「ムッカやべえ道」にある「異世界ファミレス」だって、ないはずだけどあるような気がする。著者が作り出した架空の方言はどこにもないが、この作品世界からは当たり前のように聞こえてくる。現実から離陸しきった隙の無い虚構、作品が提示する世界観が「どこにもなくて、遍くある」を体現している。全国各地の読者は夢うつつの心地で作品世界に引き込まれればいい。ひとつの世界を夢にみている気分になればいい(そうしていたら、ひつじくんの言葉も意味深に思い出されるのだ、「一人一人がそもそも違う世界に隔離されていて、別のものを見てるんじゃないかって思うんだ」というあの言葉。本を読み始めて没入して、その世界の夢を見ている、永遠に覚めないということはない。ふと「じゃんがじょうに寝てくわる」という声が聞こえてくる。

「どこにも行けなくて、どこからも見えなくなってしまう線路なんだ」という中辻えみりの言葉が最後まで物語を読み終えてから余韻を持って響いてきた。どこにも行けなくてどこからも見えなくても、それはある。だから「神」と「妻である者」のあの生活も確かにあって、それはあまりになつかしくかけがえのない、いとおしき日々だったのだと思いたくなる。

 

「もちろん町に対しての好き嫌いというものはある。でも、好き嫌いの原因の殆どはその土地ではなく、自分自身の故郷との接し方や、恥の感情からくるものだと凡は考えている。」

(28頁より引用)

 

 

ここから先は本の感想には関係ないので、興味が無い人は回れ右!

私自身、自分が住んでいる土地に屈折した感情を抱いている。どうしても好きになれない。そうでありながら、私は北海道という土地についてこれからも書いていきたいと思っている。なぜなら知りたいからだ。この土地とそこに流れてきた時間のことを知りたい。住んでいるくせに一番よくわからない場所のことを知りたい。そして、それらと自分の距離を見定めてみたい。自分の感情が描き出す場所とそこからのフィードバックで私に生じる感情がすごく知りたい。