言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

何ぞかくとゞまるや―大江健三郎『懐かしい年への手紙』

大切な本の一節を、くりかえし読み返し続けている時に感じられる「永遠」というものが確かにある、と感じられる。今回紹介する『懐かしい年への手紙』という作品の中に、私はそういう「永遠」を見る思いがした。

ギー兄さんがダンテの『神曲』のある部分を説明する声が、この一冊の本にこだまするように響く。――煉獄の島の岸辺でね、ダンテとウェルギリウスを迎える老人がいます。このカトーもね、やはり自殺した人間です。煉獄の低い地域の、威厳をそなえた管理人で、かれは自殺者だけれどもそのような魂としてのありようを認められているわけね。

 

大江健三郎『懐かしい年への手紙』(大江健三郎小説9、新潮社、1997年)

 

 

前回ブログに感想を書いた『燃えあがる緑の木』で、何度も思い返されていた「さきのギー兄さん」という人のことが気になったら、たぶんこの本を手に取ることになるのだと思う。先に『燃えあがる緑の木』を読んだ読者には、本作のギー兄さんがダンテの『神曲』を読む人で、自分の土地と資力を実験台にこの土地全体の森林、農業経営を改革する根拠地の運動をおこなったこと、女優の殺害とその償いのために長い入獄を経験したこと、そしてテン窪に人造湖をつくろうとするも、臭くて黒い水に死体となって浮いていたことは既にわかっている。私も知ったうえで読んだけれど、それでもこの作品は読んで良かった。実際に自分で読んでみないと経験できない「永遠」があったのだから。

本作は『燃えあがる緑の木』と同じ四国の森の中の集落を舞台にした物語であり、時間的には『燃えあがる緑の木』よりいくらか前の出来事が作家のKという人物によって語られる。

語り手「僕」(K)に谷間の村で暮らしている妹から電話があった。それによるとギー兄さんが大がかりな事業を始めてしまいその進み行く先に不安がある、というところから話は始まる。その連絡を受けて「僕」は家族とともに四国の森の集落に向かう。しばらくはそのように「家族を軸として、そのいま現在時にそくして語って」いくのだが、あるところから語り手は「自分の生の別の景観のなかで、ギー兄さんと僕、それに妻との関わり方を書いておきたい」とことわった上で、子供の頃「僕」がギー兄さんに出会ったことからの出来事が語られていく。語り手の人生にとってギー兄さんの存在は非常に大きくて、ギー兄さんが言おうとしていること、それを正しいと自分が感じとっていることを「自分のこれからの時をすべて投入して理解して行くというのが、つまり生きてゆくことではないかと考えたようにも思う」(17頁)ほどである。

 

そのギー兄さんが「永遠の夢の時」ということを言う。

ギー兄さんにとってそれは四国の森の中の歴史や伝承の中にある。彼が最後にやろうとする人造湖の建設はまるで土地を過去に押し戻そうとするかのようであり(建設に反対する人々が恐ろしいと感じるのは、かつてこの土地で起こったことや森の中の創建神話が思い出されるからだ)、その過去の中にギー兄さんが全身で飛び込んで行こうとするようでもある。ギー兄さんは現実の感覚として「森」を舞台に見る「夢」の「時」を確信している。かれは、こんなふうに説明する。

 

はるかな昔の「永遠の夢の時」に、大切ななにもかもが起こった。いま現在の「時」のなかに生き死にする者らは、それを繰りかえしているにすぎない、という考え方。(81頁)

 

語り手の「僕」がメキシコ・シティーに滞在している時に「無限につづく循環のなかにいる」という感情を抱いたことがあった。その「僕」がギー兄さんの「永遠の夢の時」について考えると、確かに四国の森の中の土地には昔の出来事の痕跡のようなものがあって、その土地の形状からかつてあったことを読み取れてしまうという自分の実感に気がつく。

 

自分の足が苔の生えた緑の岩角を踏みしめている森の、その全体が、また部分がね、ある角度から見ると、そうだ、ここであの語り伝えの物語のひとつが行われた、と納得できる気がしたよ。それも自分らの生き死にの規範の行為として行われた、と……谷間と「在」の地形を気をつけてみると、むしろね、人が歩くことで道が踏みかためられるように、語り伝えられている出来事がそこで行われたことによって、この地形が出来あがった、というように感じたのさ。

(83頁)

 

 

『懐かしい年への手紙』において語られているのは、語り手「僕」にとっての(つまり『燃えあがる緑の木』に登場するK伯父さんにとっての)、「永遠の夢の時」なのではないか。「僕」はダンテの『神曲』に出てくる煉獄の島の、岸辺近くの情景を思う。カトーのみちびきにより、地獄で汚れた顔を洗い、抜きとった藺草を腰につけて、二重に汚穢をおとしたダンテとウェルギリウスは、天使の船で浜についた魂たちと出会い、ダンテの旧友カゼルラの、恋歌を聴く。《我等すべてとゞまりて心を歌にとめゐたるに、見よ、かのけだかき翁さけびていふ。何事ぞ遲き魂等よ/何等の怠慢(おこたり)ぞ、何ぞかくとゞまるや、走りて山にゆきて穢れを去れ、さらずば神汝等にあらはれたまはじ》

 

本書の終わりのほうでギー兄さんの死が語られる。黒い水に浮かぶギー兄さんの遺体を、

ギー兄さんの妻オセッチャンと語り手の妹アサのふたりがボートに乗ってテン窪大檜の島に運び上げる。この事実が語り手であるKの中で「永遠の夢の時」となって、ひたすら繰りかえされてこの作品は終わる。

ギー兄さんは草原に横たわり、いくらか離れてオセッチャンと妹アサは草を採んでいる。そこへいつのまにか僕もまたギー兄さんの脇に寝そべって、息子のヒカリや妻オユーサンも草採みに加わる。「陽はうららかに楊の新芽の淡い緑を輝かせ、大檜の濃い緑も夜来の雨に新しく洗われて、対岸の山桜の白い花房が揺れている。時はゆっくりとたつ」(308頁)

――煉獄の島の岸辺でね、ダンテとウェルギリウスを迎える老人がいます。このカトーもね、やはり自殺した人間です。煉獄の低い地域の、威厳をそなえた管理人で、かれは自殺者だけれどもそのような魂としてのありようを認められているわけね。

 

そこへ威厳ある老人があらわれて、何ぞかくとゞまるや、走りて山にゆきて穢れを去れ、さらずば神汝等にあらはれたまはじ、と叱りつけるので急いで大檜の根方に向けて走り登るのだが……時は循環するようにたち、あらためてギー兄さんと僕は草原に横たり、オセッチャンと妹は青草を採み……

「陽はうららかに楊の新芽の淡い緑を輝やかせ、大檜の濃い緑はさらに色濃く、対岸の山桜の白い花房はたえまなく揺れている」(308頁)

 

この時へ向けて、語り手は幾通も幾通も手紙を書く、そしてそれらが作家である語り手が生の終わりまで書きつづけてゆくはずの、これからの仕事になろう、そう結ばれる。

 

ところで本作の「永遠の夢の時」と「一瞬よりはいくらか長く続く間」(『燃えあがる緑の木』より)というのは、なんとなく響き合いはしないだろうか? 〈のちのギー兄さん〉の言うところによると「一瞬よりはいくらか長く続く間」というものは、自分が死んだあとも続くだろうほとんど永遠にちかいほどの永い時に対して限られた生命の我らが対抗しうる瞬間のことだ。命は有限だから、決まった長さの時以上には経験のしようがない。しかし有限であるにも関わらず「永遠」という無限を感覚してしまうことがある。

その「永遠」に向けて、きっと私は何かを表現しようとし続けているのだと思う。永遠の夢の時と一瞬よりはいくらか長く続く間、有限の私にもかろうじて感覚できる無限というものについて考えているうちに、2019年8月2日に書いた日記の記述を思い出した。それは暑い日が珍しく連日続いた日のことで、

「西日のきつい車窓から目を細めてみた風のない景色、そよともゆれない街路樹の緑が重たいここは、静止した夏でした。」

私はそんなふうに書いていた。