言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

遭難、比喩にて―プルースト『失われた時を求めて』

ねむれない夜に、ベッドの上で『失われた時を求めて』についてとりとめなく考えていると、いつもひとりの旅人の姿が思い浮かぶ。ひとりの旅人が、道の真ん中にぽつねんと立っている。この長い小説に、私はこんな印象を抱いているのだ。

それはまるで、本書の語り手「私」が子供の頃、母親に読んでもらった『フランソワ・ル・シャンピ』という本に内容以上の印象を含み込ませていたのに似ている。例えばシャンピ、という名前の主人公の少年が「鮮やかで、真っ赤な、魅力的な色合いを帯びる」(106頁)と考えていたことに似ているかもしれない。自分が手に取った本には内容とは別に独特の手触りみたいなものが残ると思う。例えば私の思い浮かべる旅人の、カーキ色のコートみたいな。

 

マルセル・プルースト作、吉川一義訳『失われた時を求めて1 スワン家のほうへⅠ』(岩波書店、2010年)

 

※今回のブログ記事では、この岩波文庫版第一巻に絞って感想を書いています。

 

ねむれない夜に〈ねむれない夜について書いてあるこの本〉から連想される、ひとりの旅人、彼の前には反対方向の二つの道があって、ああこれはメゼグリーズのほう(スワン家のほう)とゲルマントのほうという二つの散歩道だな、と私にはわかる。わかるが、旅人はいつまで経っても歩き出さず、物語らしきものは動かない。やがて雨が降ってくると、庭に駆け出してバラの茂みを毟るおばあさんが現れ、ツバメが暗い空に飛び立った。風が吹くと、ちぎれた雨雲が流れて空が晴れた、そう思うと旅人の鼻の上にぽったりと水滴が落ちる……、

 

失われた時を求めて』を思い出そうとすれば、こんな風景が見えてくる。今年は四度目の再読をしようと思って、最近少しずつ読み返している。夏に読みたいと思うのは、この本のせいだ。

 

 

 

上に書いた風景は、第一巻でかつて読んだことの断片を私の頭が組み立て直したものらしい。ねむれない夜には次から次へと言葉とイメージが出てきて無理やり繋がろうとしてくる。今回の再読で気がついた。別に「旅」を描いた作品でもないのに、旅人を生み出してしまうのは長い時間をかけて読む小説の文字を旅するようだからだろうか。そしてこの大長編を旅すると、けっこう「遭難」してしまう。第一巻は作品の入口としてたくさんの人が手に取ると思う。でも最後まで読み通す人は少ないのだと思う。

どうしてだろう。それはこの作品の言葉とそこから派生するイメージの豊かさに阻まれてしまうからではないだろうか。とても長い比喩が語り手の日常に差しはさまれるものだから、登場人物がその時どこにいて、何をしていたものか、時々わからなくなる。とても長い比喩は読み手をまどわす。だが旅慣れてくると、まどわされるのが愉しくなる。盛大な誤読が壮大な旅のはじまりになることもあるかもしれないから、それもまた一つの面白がり方だと開き直って読みだすのがいい。

 

 

おはようを言うために、叔母の寝室の手前の部屋で待たされた時、炉のレンガのあいだにはすでに火が焚かれているのを見た語り手「私」は、こんなふうに思う。

 

すると火が、まるでパイ生地を焼くように、食欲をそそる匂いをこんがりと焼きあげる。その匂いが部屋の空気を練り粉にし、朝の、陽光をあびた湿った冷気で発酵させて「膨らませる」と、火はその匂いを幾重にも折り重ね、皺をつけ、膨らませたうえ、こんがりと焼きあげ、目には見えないが感知できる田舎のパイ、巨大な「ショーソン」をつくりあげる。(前掲書123頁より引用)

 

 

 

あれ? ダイニングにいたんだっけ? それとも台所?

いやいや違う、叔母の部屋におはようを言いにきたんだった。何度も読んだおかげで、美味しそうな朝だなと思えるが、案外この箇所は「朝の遭難ポイント」になり得る。

「場」がすり替わったり、あちこちに飛んで見える長い比喩の例として、他にはこういうのがあるけれど、どうだろう?

 

その花が土手のあちこちを飾りつけるさまはタピスリーの縁を思わせ、そこにまばらに現れた鄙びた田舎のモチーフはやがてタピスリーの全面に拡がってゆくのだ。それらはいまだ数も少なく、間隔もあいているが、ぽつんぽつんと現れる一軒家がすでに村の近いのを告げるのにも似て、麦の波が砕け散り、雲がもくもくと湧く広大な拡がりを予告してくれる。そして一本のヒナゲシが、網具のロープの先に高々と赤い三角旗をかかげて風にはためかせ、その下方に油じみた黒いブイが浮かんでいるのを見ると、私の胸は高鳴った。旅人が、低地で座礁した小舟を大工が修理しているのを見かけただけで、まだあらわれてないうちから「海だ」と大声をあげるのと同じである。

(前掲書304-305頁より引用)

 

 

もちろんタピスリーの話ではないし、語り手の前に海はない。

 

こういう長い文章の断片だけを記憶にとどめておいて、ようやくねむれない夜も終わるかと明け方うつらうつら舟を漕ぐと、自分だけの『失われた時を求めて』に辿りついてしまう。長い小説を読む魅力はこういうところにあるのではないか、と思う。読み手である「私」だけが再構築できる作品の形がある。読み返したり思い返したりするたびに生じる形の、ひとつひとつが大切な思い出になる。

 

語り手「私」が紅茶にマドレーヌを浸して食べた時に経験する「無意志的記憶」の風景の蘇りが有名だが、第一巻において、それは幼少期に過ごしたコンブレ―の叔母の家を中心とした風景である。だが、はじめに思い出す母親がおやすみを言いにきてくれないことへの恐れに関するエピソードでは、「コンブレ―とは狭い階段でつながれたふたつの階だけで出来ていて、そこには夜の七時しか存在しなかったかのようである」(109頁)。それが少しずつ思い出される空間を増やしていって、やがて「二つの散歩道」にまで広がっていくという、歳とった「私」のねむれない夜のコンブレ―回想の手順は、あたかも読者が文字を追って、自分自身の作品イメージを開拓しながら小説を読んでいくことに重なっていく。

雨の描写で好きなところが二か所もあって、クロード・モネの睡蓮を連想させる描写があって、多面的な人間の性格についてのシニカルな考察があって……と思い出し続けると想起がずっと終わらない気がするので、最後に一つだけ書いておくと、

 

こうしてすばやく反りかえったために押し戻されたのが、筋肉が猛り狂うように波打つルグランダンのお尻で、私はそれがこれほどむっちりしているとは思わなかった。そしてなぜかわからないが、このようにうねる純粋な物質、波打つ肉になんら精神の発露がなく、下劣きわまりない熱意に嵐のように揺れうごくだけなのを見て、突然、私の心に、ルグランダンは私たちが知っているのとは別人かもしれないという疑念が芽生えた。(前掲書276頁)

 

 

 

失われた時を求めて』の語り手「私」の人間観察はだいぶ容赦なしなので、あまり友達になりたくないタイプだなぁなんて、考えてみたりもする。

 

 

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今月発売の「群像」7月号に「船乗りに吹く風」という題で随筆を寄稿しています。

よろしくお願いします。