言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

空、だからこそー八木詠美「空芯手帳」

空の描写がところどころに印象的で、それは時間や季節のうつろいを描き、その空を読みながら私は一人の読者として「空人くん」を育んでしまったような(育む、は言い過ぎかもしれない、せいぜい成長を見守る?)不思議な読書体験をした。バレたらどうするのさ?!と、語り手に語りかけたくなったり、とにかく何故か説得力はある語り手の行動にハラハラしながら読み終えた。

紙管製造会社(ラップやトイレットペーパーの芯やもっと大型の工業用の芯などを作っている)に勤務する語り手「私」の妊娠の記録。人事課に出産予定日を聞かれたので適当に来年5月中旬と答えた、その予定日から逆算してはじき出された「妊娠5週目」から、八木詠美「空芯手帳」は始まる。

 


八木詠美「空芯手帳」(第36回太宰治賞受賞作) 筑摩書房太宰治賞2020』収録)

 

太宰治賞2020 (単行本)

太宰治賞2020 (単行本)

  • 発売日: 2020/06/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 


妊娠を機に定時退社ができるようになったことで余裕の生まれた生活、たとえば夕方のスーパーや入浴剤、アマゾンプライム。妊婦として出産準備もばっちり?な情報収集活動、スマホの「母子手帳アプリ」、それからメルカリで「お腹に赤ちゃんがいます」キーホルダーを二つ買ってメインで使っているトートと、荷物が多い日用のリュックの両方にぶらさげてみる。「結婚してなくても、出産祝い金ってもらえますかね」(54頁)、社割でマタニティ・エアロビにも通うし、産休ももちろんとる。当たり前。だけれど読者は早くから知っている、あなたのお腹に何も入っていないよね? 作品ではその状態を「空芯」に喩えている(語り手の会社がそれを作ってもいる)。鉄棒に原紙を巻きつけて、最後にその棒を抜けば空芯ができる。空(くう)でも、いや空だからこそ、そこに物語を詰めればいいという「私」の言葉に力強さを感じる。と、同時に読者である私が超小粒な小説書きだから思ってしまったことがあって、それは「書く」ということで「他人」を作り出してしまうことの罪悪感というか、本当にこんなふうに書いて存在させてしまって良いのだろうか?という不安、作中では「代償」と書かれているが、語り手は妊娠36週目に猛烈な痛みを味わうのだ。

 


「だから私は嘘を持つことにしたの」

「ねえ、細野さん、自分だけの場所を嘘でもいいから持っておくの。人が一人入れるくらいの、ちょっとした大きさの嘘でいいから。でもね、その嘘も呪文のように唱えて育てていくうちに、案外別のどこかに連れ出してくれるかもしれないよ。その間に、自分も世界も少しくらい変わっているかもしれないし」

(『太宰治賞2020』「空芯手帳」103頁より引用)

 


面白いことに語り手の体調は「母子手帳アプリ」に連動するかのように変化する。案外「ちゃんと妊婦」なのだ。だからこそ読みながら「バレたらどうすんのさ?!」と語り手に語りかけたくもなる。

架空の存在と架空の場を言葉によって作り出して、その言葉を読者に差し出すという営みを私はこの作品に感じた。

 

「そうね、私も産みたいと思う。できれば二人目は、37歳くらいまでに。」(前掲書109頁)


2作目、楽しみですね。あ、それから私、トイレットペーパーの芯、好きですよ。