言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

重層的時間旅行―カルペンティエル『失われた足跡』

久しぶりにラテンアメリカ文学の作品を読んだ。

カルペンティエルの『失われた足跡』である。今回はこの本についての感想を書いていきたいと思う。

アレホ・カルペンティエルは1904年キューバの首都ハバナに生まれた作家で、グァテマラのノーベル賞作家であるアストゥリアスと並んで〈魔術的レアリスム〉の創始者と言われる。今回読んだ『失われた足跡』は1953年の作品で、語り手「わたし」の記憶、「わたし」を取り巻く世界の歴史、文学作品というフィクション世界の風景を取り込んだ重層的で濃密な、時間を遡る旅の本だった。

 

カルペンティエル 作、牛島信明 訳『失われた足跡』(岩波文庫、2014年)

 

 

 時間というものが単線でも、直線でもないということは文学の世界ではすでに当たり前のようなことになっているけれど、その発見を現実の風景に見出してしまったのがラテンアメリカ文学なのかもしれない。それを、

アメリカ大陸の驚異的な現実〉

と呼んだりする。

そこにはニューヨークみたいな大都市が存在する一方で、石器時代や中世、ロマン主義時代、さらには『旧約聖書』の創世記の時間までが同時に流れている。それも視覚的に見えるという存在の仕方で。

『失われた足跡』はどこかの大都市で音楽家として生計を立てていた語り手の「わたし」が〈器官学博物館長〉の依頼で南米のジャングルへ赴き、そこの民族楽器を探すというのがおおまかなあらすじであろう。その六週間の旅の経過が日記の体裁で書かれている。

旅のはじめのほうで立ち寄る場所に流れる時間は「わたし」の出発点である大都市に近い。たとえば語り手はホテルに滞在したりもする。けれど、そのホテルのある場所の日常には常に「革命」が隣り合っていて、しばしば戦闘が勃発(読んでいて本当にいきなり銃撃が始まって驚いた)、語り手たちもホテルから一時動けなくなってしまう。この時すでに流れる時間に異質なものを感じながら読者は語り手「わたし」とその同行者たちとともに、そこからさらにジャングルの奥深くへ旅を続けるのである。

 

ナイトテーブルの上にのこしておいた一びんのシロップは、長い列をなすアカアリを呼び寄せていた。絨毯の下には害虫がはびこり、かぎ穴からは蜘蛛が覗いていた。熱帯のこの都市では、数時間混乱が続き、造りあげたものに対して人が数時間注意をおこたれば、それだけで、腐植土の動物たちが、干あがった送水管を伝って、包囲された要塞をおとしいれるには十分だったのだ。

(前掲書、88頁より引用)

 

語り手たちが閉じ込められたホテルの描写であるが、この時点でもう密林が滲み出してきている。密林の描写の、この得体のしれないものが蠢いている感じさえする濃密さはこの作品の魅力のひとつだと思う。

 

ラジオから流れてくる第九を聞いて思い出されるホルン奏者の父の横顔、幼少期の甘い記憶、理想の世界、それを破る現実、戦争……という「わたし」の回想や、ある台地の村が有していたカスティーリャ的な佇まい、そこにロバがいななくと思い出されるエル・トボーソの風景……そこからさらに推し進められる回想、子供時代に教室で暗誦させられていた文学作品。「それほど昔のことでもない、その名は思いだせないが、ラ・マンチャ地方のある村に、槍掛けに槍をかけ、古びた盾を飾り、やせ馬と足の速い猟犬をそろえた型どおりの郷士が住んでいた。……」(前掲書、127頁)おわかりいただけるだろう、『ドン・キホーテ』の世界だ。

こんなふうに、「わたし」の個人的な回想がたびたび導かれつつ、同時に歴史が描かれつつ、さらに時々文学作品というフィクション世界までが導かれていく旅。実は南米にルーツのあった「わたし」の記憶(内面)をさかのぼる旅であると同時に、密林に流れる河(風景)を遡ることで現代から、中世や石器時代、創世記の世界へと時間をさかのぼる旅でもあるのだ。なんて、スケールの大きな旅だろうか。

 

わたしは、旅行しながらさまざまな時代をとおりぬけた。そして、さまざまな人々とその人々の時間をめぐったのだが、このうえなく広大な入口の、秘められた狭さにさえぎられていたことには気づいていなかった。しかし、驚異に満ちた生活も、市(まち)の創建も、エノクの土地で〈天職を見出した人々〉が享受している自由もすべて、ひまさえあればあくせくと、音符の配列のなかに死に対する勝利を求める、卑小な対位法作曲家であるわたしには不相応な、スケールの大きな現実だったのである。

(前掲書、445頁より引用)

 

この時空を遡ったかに思えた旅も、実は飛行機で直行すればわずか三時間の距離でしかないことも驚きだ。飛行機で過ぎてきた空の下には、驚くほど多様な時間が流れていた。そのあり様に唖然としながら、われわれが〈現在〉だと思っている中には様々な時代の風景が同時存在し、また個人の内面というか価値基準というものを定めている要素も、この風景のあり様に似ているのかもしれない、などと考えてしまうのだった。