言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

ひと月とフェルメールとプルースト

コロナ禍に見舞われた2020年前半は、カミュの『ペスト』やデフォーの『ペストの記録』を読んでいた。それが3月くらいまでの出来事、当分の間、本屋にも図書館にも行けなくなりそうな不安からとにかく長い物を、時間をかけて読もうと思ってマルセル・プルースト失われた時を求めて』の再読を始めたのが5月だった。2年ほど前に集英社版、鈴木道彦訳のものを読んでいた記録がこのブログの過去記事にある。

今回は吉川一義訳の岩波文庫版14冊をあいだに違う本も交えながら9月までかけて読むことができた。再読だったため、細かなところに目を向けて読むことができ、おかげでフェルメールという画家を知りたくなって今度は9月から、ひと月かけてフェルメールの絵画をみることとなった。興味関心がうねるように繋がっていく幸福は今年の初めにはなかった、それだけコロナ禍にも慣れてきたのだろうか。新型コロナウィルスに隠喩を与えるなら「沈黙」こそが相応しい、とかつて書いた私は、あの頃とは別種の沈黙に潜っていったのだと思う。

 

 

さて、今回はフェルメールの話。

ヨハネス・フェルメールは1632年、オランダのデルフトに生まれた画家である。デルフトは醸造業、織物業、陶器産業で栄えた町だったが、フェルメールの生まれた頃にはその盛りは終息に向かいつつあったそう(経済の衰えが絵画市場を直撃したこともあって、晩年のフェルメール作品の様式変化は著しい)。現在まで残る作品はわずか三十数点と少なく、ひと月かければ好事家としてじっくり鑑賞できるように思う。

鑑賞、と言っても実際のフェルメール作品をみることができたわけではなく(三十数点しかないが、世界のあちこちに散らばっているのでコロナ禍でみにいくのは不可能)、青幻舎から2009年に出ていた絵葉書のセットやインターネット上の画像、2012年1月フェルメール・センター銀座を皮切りに全国で開催された「フェルメール光の王国展」のリ・クリエイト作品37点を収めた展覧会図録や、フェルメール関連書籍のカラー図版など、様々なに印刷されたフェルメール作品をみていた。それで思ったことがひとつ、展覧会の図録も書籍のカラー図版も絵葉書も、みんなみんなオリジナルの「翻訳」みたいなものなんだな、と。同じ絵でも図版によって全然違っていて、それはオリジナルを撮影した時やその画像を調整した時に光のコントラストをどうするか、という思考の結果の反映であり、印刷した紙の質の違いであったりするのだろう。こういう差が出るのは当たり前のことなんだけれど、一見当たり前に思えるこんなことでも自分の目で体感するとずいぶん感動する。ここまで違えば「じゃあオリジナルでも観に行くか!」と世界を旅する人がいてもおかしくないと思う(自分はお金が無いので無理なんですが汗)。

 

福岡伸一氏監修の「リ・クリエイト(Re-Create)」は複製なんだけど、ただたんにそっくりに作り直すということではなくて「再創造」と定義される。あるいは「翻訳」とも。福永伸一氏は、こんなふうに書いている。

 

「Re-Create」とは、複製でもなく、模倣でもない。あるいは洗浄や修復でもない。

「Re-Create」とは、文字通り、再・創造である。作家の世界観・生命観を最新のデジタル画像技術によって翻訳した新たな創作物である。

(「光の王国展」展覧会図録より)

 

訳350年前にフェルメールが描いたであろう色とコントラスト、細部の表現、光の意図を解釈しなおす。美術出版の奥深さを覗き見た気がした。

 

ちなみに私が特に好きなフェルメール作品は「兵士と笑う女」(1658年)、「デルフト眺望」(1660-61年)、「天秤を持つ女」(1662-64年)である。

専門家ではないので、なんとなく思っているだけだけど、「赤い帽子の女」と「フルートを持つ女」は後世の模作ではないだろうか。確かに女の肖像の唇の白い光、ライオンの装飾のある椅子の背もたれ、布地に落ちる白い光の点という表現などは他のフェルメール作品にもみられるが、この有名な「フェルメール風」というやつをだれかが真似しようとして描き込んだ可能性を感じてしまう。フェルメールは空間と人物や物との関係(合理的な空間、合理的な光の表現)を追究した画家であるが、そう考えた時「赤い帽子の女」と「フルートを持つ女」の背景が異様なことにはすぐ目がいってしまう。描かれた人物が空間に対してどのように存在しているのか、よくわからない。机に手を置いているのか、けれどもなぜ、机の前に椅子の背もたれがあるのか?? トロ―二―であるなら背景を黒く塗りつぶすのではないか? など考えてしまう(そしてあれこれ考えている時間がけっこう楽しい)。

 

「デルフト眺望」に関して言えば、プルーストの『失われた時を求めて』に大きく二度登場している。一度目は『失われた時を求めて7 ゲルマントのほうⅢ』(岩波文庫、2014年)に出てくる「私」とゲルマント氏の会話である。ゲルマント氏は気位が高いわりに教養がないので「私」に「デルフト眺望」をご覧になりましたかと問われた際、展示されて話題になっている作品を憶えていないときに決まってそうするようにさも得意げに「見るべきものなら見ております!」と答えたという滑稽な挿話として。二度目は(こっちのほうが有名)『失われた時を求めて10 囚われの女Ⅰ』(岩波文庫、2016年)作家ベルゴットが死の直前に「デルフト眺望」の小さな黄色い壁面をみて、こんなふうに書けば良かったと思ったという挿話。

ちなみに、岩波文庫版完訳時に最終巻帯を送るともらえた美装箱にも「デルフト眺望」が採用されている(現在は14巻美装箱付きセットでまとめ買いすると手に入れることができる)。主要登場人物であるシャルル・スワンも確かフェルメールの研究をしようとしていたはずだし、プルースト自身が1902年10月18日にデン・ハーグで「デルフト眺望」を鑑賞、後に「世界で最もすばらしい画を見た」と書簡に書いているほどだ(よっぽど好きだったのだろうなぁ)。

「デルフト眺望」の中景の街並みはかなり計算されて描き込まれている。画面の左右の端から端まで広がる街を画面上下と平行の線で結ぶことができる。このすっきりとして明快な構図が朝7時10分の光をよりすがすがしくみせているように思う。実際の風景はたぶんこんなふうにはみえないはずで、それは絵画が単に現実を写し取っているものではないことを思わせる(小説もそうなんだけどね。絵画も小説も、とにかくなんらかの「表現」は単なる現実の後追いではない)。

 

……など、くどくど書いている10月。コロナ禍の中で失いたくないものがあるとすれば、たぶんこういう沈黙、黙って芸術作品をみている沈黙なのだと思う。

なお、フェルメールほど人気のある画家の場合、関連書籍も山のようにあるが、私が特におすすめしたいのはこちら。

 

小林賴子『フェルメール 作品と生涯』(角川ソフィア文庫、平成30年)

 

フェルメール 作品と生涯 (角川ソフィア文庫)

フェルメール 作品と生涯 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:小林 頼子
  • 発売日: 2018/10/24
  • メディア: 文庫
 

 

 この本はフェルメールという画家を様式面から把握することを狙いとしている。「様式とは、線・色・形態・構図・筆遣いなどの描画上の特徴を指す言葉で、絵画を他の芸術や歴史史料から分かち、一つの時代、一つの国、一人の画家の特性を端的に示すとともに、その時代、国、画家を他の時代、国、画家から差異化するものだ。」(前掲書、3頁より引用)

フェルメール作品ってどんなもの? という疑問に対してその絵画の意味内容よりも様式面から的確に解説した一冊、こういう本ってなかなか見つけるのが大変なのだ。文庫であることも手を出しやすくて大変ありがたいと思った。