アイヌ語を勉強し始めて、だいたい1年が経った。
テキストを二冊通読したところで、次に手に取るテキストがなく、ここから先どうやって勉強をしたらいいのか?と自分で考えていかないといけなかったりするのが英語やドイツ語とは違うところで、なかなか苦労している。そこで以前から岩波文庫版で親しんできた(ただし日本語の訳文のほう)知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』をアイヌ語で精読しようと思い立って手に取ったのが、この記事で紹介したい本だ。
石村博子『ピリカチカッポ(美しい鳥) 知里幸恵とアイヌ神謡集』(岩波書店、2022年)
一冊の本を読むときにいつも思う。この一冊を出すために、どれほど多くの思索が重ねられ、どれほど多くの言葉が書きつけられ消されてきたのだろうかと。
知里幸恵さんのことを書いたこの本を読んで、そんな気持ちを再確認した。心臓に持病を持っていた知里幸恵さんが誰よりも熱い思いでアイヌの文学に向き合っていたことを知れば知るほど、胸が熱くなる。
知里幸恵(1903-1922)のことは、あまりにも有名だからこのブログに書くまでもないと思う。一応、簡単に書いておくとローマ字によるアイヌ語と日本語訳を併記した『アイヌ神謡集』という書物を遺した豊かな文才を持ったアイヌの女性である。わずか19年という短い生涯は多くの人に惜しまれており、もっと長生きしていれば素晴らしい越境文学を書いただろうと言われる。
本書は道南の室蘭で高校まで過ごしたというノンフィクション作家の著者が知里幸恵という人の生い立ちからアイヌ神謡集の成立までの経緯、そしてその後、知里幸恵が残したテキストがどのように人々に受容され影響を与えてきたかが書かれていた。
どうして幸恵は消えなかったのだろう?
珠玉の一冊だけを遺し、一九歳で天に還ったことにどんな意味があったのだろうか。
生涯のなかで見たものは何だったのだろう。いちばんいいたかったことは何だったろう。
今も生きる幸恵の魂は何かを訴えている。それを聞き取る努力をしなければならないと思った。
(本書序章、8頁より引用)
著者が知里幸恵の名前を知ったのは1974年頃、神田の古本屋で『炉辺詞曲 アイヌ神謡集』を偶然見つけて購入したことがきっかけだったという。北海道という場所は「アイヌを意識せずにはいられない環境」であり「アイヌの人たちから大地を奪ったという後ろめたさは、北海道人の根っこのどこかに潜んでいる。本当はちゃんと向き合わなくてはならない歴史があることを、濃淡はあれ、多くの人が感じていると思う」としつつも、実際に何かを書くのはやっぱり難しい。「“幸恵さん”に向かって恐る恐る実際に歩き始めたのは、二〇一五年頃からだ。今も自分にはその資格があるのか、困惑と怖れは続いている。」とある。北海道の人がアイヌのことを書こうと思う時に抱く困惑と怖れは私にも覚えがある。自分なんかが書いて本当にいいのか? 日々自問自答しながら向き合い続けなければならない。どんなに書いても、自分とアイヌの距離が縮まらない。そしてこの感覚は編集者には伝わらなかったりする。
著者が1974 年に初めてその名を知った知里幸恵について2015年にようやく一歩近づこうと踏み出すということ……ここに、書かれずともこれほど長い時を著者の中に在り続けた知里幸恵という存在がどれほど大きく深い影響を人に与えるものであるかがうかがえる。
知里幸恵の『アイヌ神謡集』執筆への情熱は生半可なものではなかった。本書に引かれている日記の文章からどれほど重い仕事であったかと思う。「私の為、私の同族祖先の為、それから……アコロイタクの研究とそれに連る尊い大事業をなしつつある先生に少しばかりの参考の資に供す為、学術の為、日本の国の為、世界万国の為」と知里幸恵は日記に記している。
私が勉強を始めたアイヌ語の表記では、自分のパソコンでは出せない小さな文字が入っている。ローマ字にすると「yukar」となり子音終わりの語ということだが、この表記を初めてきちんと書き分けたのはおそらく『アイヌ神謡集』だろうということを、本書で知ることができた。アイヌは「yukara」と発音せず「yukar」と発音する、表記もそうすべきではないかという幸恵からの提言に金田一は驚いたという。ネイティブによるネイティブの表記法の誕生だった。また知里幸恵は金田一との共同作業で文法との出会いがいちばんの収穫だったかもしれないともあった。志賀雪湖さんの指摘によると「ノートから神謡集に映すとき、“書き残す”という意識が急速に強くなったのではないでしょうか。意識の変化のなかで、語りと書くことの違いに幸恵は非常に悩んだのではないか」という。口承文芸を書き言葉にして固定すること、それによって守られるものと壊されるものがあると思う、そのことに気がついていて、それでも自分が書かねばならぬと己を奮い立たせる知里幸恵の姿を想像すると、悲愴なものさえ感じてしまう。
それでも、今日まで残っていることに私は深く感謝する。アイヌ語を研究するために多くの和人研究者が北海道でフィールドワークを行ってきた。研究者の中にはひどいのもいて、アイヌ語話者たちに研究者というやつは嫌われがちなんだと中川裕さんのエッセイで読んだ記憶がある。問題のある「研究」も確かにあったのだろう、しかし、私のような何にも知らない不勉強な和人がいきなりアイヌ語を勉強しようと思い立って手に取ることのできるテキストが存在するのは、アイヌ語を遺したいと思って一生懸命に語ってくれたアイヌ語話者たちと、それを真剣に書き留めた研究者たちの時間の蓄積のおかげでもある。
2015年頃から「“幸恵さん”に向かって恐る恐る実際に歩き始めた」著者はこう語りかける。
アイヌ語には祖先から伝えられた「イタク カシカムイ(言葉の霊)」を宿し、日本語には技巧をこめ、『アイヌ神謡集』は創作された。まだ電気の通っていない近文で、あなたは一日中机に向かって、アイヌ語と日本語を生きたかたちで結び付けていった。
そしてそれは言葉を圧殺しようとするものに対する言葉による闘いでもあった。
大きな力、大きな言葉の侵攻は、“小さな言葉”の否認と放棄を生み出す。アイヌは自らの母語を恥とし、自ら放棄せざるを得ないところに追いやられていった。それを乗り越える道は、自らの母語と“大きな言葉”の対等な立場での融合であり、対立でもあることをあなたは自覚していた。
(前掲書、208-209頁)
私はデビュー作となった小説「彫刻の感想」で初めて北方文学と呼べそうな、真正面から北海道という土地を探求する作品を書こうと思った(実はその前年に最終選考に残った作品は今の私とは全然違うものである)。書いていくうちに自然と出て来てしまった「ウィルタ」、こう、書きつけた時に腹をくくった。マジョリティである自分が少数民族のことを書くというのは、かなり勇気のいることなのだ。間違えたらどうしようとか、そんな気が無くとも誰かを傷つけたらどうしよう……とか。どう書いたとしても必ず誰かに批判されるのだ。でも書きたい。この土地から忘れ去られてなかったことにされてしまいそうなもののことを書く。その過程で自分が知らないでいた歴史的事実や感情に出会っていきたい。私の文学と生き方は、たぶん繋がりあっている。
どうやら小説を書き続けることとアイヌ語を勉強することは、私のライフワークになりそうだ。きっと長く時間がかかるに違いない。
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おまけ:私のアイヌ語学習の状況
冒頭の続き、そう、アイヌ語を勉強し始めて一年が経った。
「irankarapute」という今ではすっかり有名になった基本的な挨拶や「wakka」「yuk」「humpe」「pukusa」「korkoni」と言った自分の日常に身近な動植物を指す単語(しかも食糧ばっかり!)はもともと知っていたけれど、アイヌ語の文法を体系的に学んだのはこれが初めての経験で、今では「Kuzu Hiroki sekor ku=rehe an」とか、ちょっとした自己紹介もできるようになってきた。日々ちょっとずつ勉強をしていくと言葉を巡る自分の世界が広がっていくようで楽しい。今は文法の勉強や単語の暗記と平行して、短いkamuy yukarをうたう練習をしている。実際に歌うことで「名手」と呼ばれる人々がどんなにすごいかわかってきたし、確かにノリノリになってくるとサケヘと呼ばれる掛け声のようなものが移動したり増えたり減ったり(時に次のフレーズを思い出せずいたずらに増やすこともあるのが未熟者の私)、いやここらでもう一回大波がざっぱーんみたいになってだな……とフレーズが反復したりとヴァリエーションが生まれてくる感覚、これが口承文芸かと体で理解することができてきた。ひとまずはテキストが手に入りやすい沙流方言、千歳方言あたりから勉強を始め、もう少し基本的なことがわかったら十勝や釧路方言にも目を向けてみたいなと思っている。