おーい。
読み終えて、こう言いたくなった。おーい。これは誰の声なんだろうと言ったら、いやお前だろ、と返ってきたりして、でもそのお前って誰だと思うって、私は誰に聞いているんだろう?インターネット上の言葉はどこか漂流物めいている。
小説を読んだり書いたりしている時、私は時々、この語りはどこから誰に向けられているのだろう?と考えてしまうのだけれど、そもそも言葉というものはその辺りが厳密である必要もないのだし、当たり前だが、あて先不明であっても言葉はある。言葉を単なる道具にしないために、そういう言葉の存在を時々思い出す。
滝口悠生『水平線』(新潮社、2022年)
本書は「新潮」2019年8月号から連載されていたものだ。連載中にコロナ禍があった、それで東京オリンピックが延期になった。私はこの連載が書籍化された時に、待ってました!とすぐに地元の書店で購入したことを確かに覚えている。でもその後時間がとれず、一年くらいは積読にしているなと感じていたら二年以上経っていた。かつて硫黄島に暮らした人々がいた、途中戦争があった、学校制度の改変があった、彼らは内地に疎開することになった、疎開せずに軍属となって島で亡くなった人がいた……こうした客観的な出来事は羅列しようと思えば簡潔にできる。
作中の「現在」と言っていいのか迷うのだが、とにかく一番新しくはっきりした西暦は2020年、それは東京オリンピックの開催されるはずだった年。母方の祖父が硫黄島から疎開してきた経歴を持つ横多平と三森来未の兄妹それぞれの元に、ある日不可解なメールや電話がくるようになった。横多に届くメールの送り主は「八木皆子」と名乗り、彼女は祖母の妹だという。来未にかかってくる電話の向こうにいるのは三森忍でこれは祖父の弟の名前だ。八木皆子さんは1968年の秋に蒸発して行方不明のはずだし、三森忍さんは硫黄島ですでに亡くなっている。親族を騙るフィッシング詐欺かとはじめは疑った二人だったが言葉を返しているうちに時間は進んで、小笠原諸島の父島に辿り着いたり昔の知り合いに再会したりして、それぞれに何故だか釣り(フィッシング)をしている。おーい。そんなことがあり得るとかあり得ないとか考えるのは後にして、とにかく電話やメールに届いてしまった言葉を受け取って言葉を返す。そんな横多や来未の2020年を語る三人称の合間に、するりと紛れ込むだれかの、複数の一人称は、かつてあった硫黄島での生活のこと、戦争やそれに伴う島からの疎開のことを語る過去の人々の声のよう。もちろん、そんな一人称の中からは横多や来未の声も聞こえてくる。
一読者として、私はどこに立っていればいいのだろうかと、迷うような感触のある作品だった。私はどこで耳を澄ませ(活字を読んでいるのに「耳を澄ませ」なんて変だけど)、あるいは水平線を眺めているのか。水平線はどこからどう見ても水平線に違いないのだけど、見る位置や時間、その時々の自分の感情のありようによって違って見える。海ってそういうものだ。毎日違って見える海は、海が毎日変わっているんじゃなくてそれを見る自分が変わっているんじゃないか、と本書のどこかで誰かに語られていたような気がする。
何故だか東京オリンピックが始まってしまった2020年と(しかも盛り上がりのうちに無事閉幕しそう)、延期が決定した2020年という互いに相反する現実が一冊の本の中に矛盾なく収まっていて驚いたし、笑った。フィクションは結局のところ何を書いてもいいのだけど「作品」として成立させるにはあれこれと技術が必要になってくる、そこに作者は工夫を凝らし理路整然と作品の背骨を通そうとする。でも現実の生活の実感としては「なんか知らんけどこうなった、こうなってる」みたいにいきなり不可解なことが目の前にあったりするなんてよくあることで、そういう唐突さとどうやって折り合いをつけていくのか、そんな心の機微が表現されていたようにも思う。
それが幻影みたいなものであることはわかっていたけれど、いま見えているそれが嘘だろうと幻だろうと、いま見えているのだからそれはそこにある。いま見ているあそこにある。
(264頁)
もしかしたら、本書の一人称の語りはみんな漂流しているのかもしれない。「過去」からの声が漂っているだけじゃない、それを電話やメールの形で受け取った者があれこれ思い考え言葉にした、その言葉もまた漂うものとして放り出され、海はどこにでもつながっているのだから硫黄島まで届き、そこで死んだ人々がもしかしたら拾い上げるかもしれない。そして彼らによってまた言葉は返されて、それを別の誰かが受け取って……という無限とも呼べそうな小説の時空間が作られていく。「現在」が先端ではない。
時間のないところにリズムは生じないが、いったんリズムが生じればそこにある時間はただ進行するのではなく繰り返される。重なって増幅しながらいつかの方向へと延びていく。
(404頁)
秋山くんという人が一面のサトウキビを刈る作業をしている場面で、作業が一定のリズムで進めば背後にただキビの山が増えていくだけという。引用はその部分からだけど、私にはこの感じが小説の言葉のひとつのありように思えてならなかった。
おーい。
もう一度、言ってみたくなる。おーい。
軍属となってから自分の心中の自由がそう簡単に維持できるものではないと思い知った重ルは、自分の思いやそう思う自分自身を奪われたり変えられたりしないようにするために、声を発することにしたのだという。内心で思うのと声を発するのは違う。それで軍属になる前に砂糖小屋でともに働いていた牛のフジに語りかけることにした。「誰かに向けて声にすれば、あるものはあって、ないものはない。思いを誰かに預けるんだ。自分の声を向けた先の誰かの耳に」(321頁)という声が私の耳に届いた。それでこんなブログの記事を書いた。波のようにどこからともなく寄せてくる小説の言葉、その引き波に、私は私の声をこのブログの記事の言葉にして預けておこうと思ったのだった。インターネットの片隅にでも漂わせておこう、これはちょっとわくわくすることだ。