言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

眠り舟―古川真人「港たち」

 この「にぎやかな一家」に久しぶりに会えた。なんだかとても嬉しかった。彼らは本の登場人物たちなのだから、うちにあるこの著者の本を開けばいつでも会えるのだろうけれど、何故だか新作が出ると彼らの「近況」の便りを受け取ったような気持ちになる。そういえば、作中で関東に住んでいた兄弟が小説の舞台となる島を訪れたのは一年半ぶりだという話があって、なるほど、この「久しぶり」な感じはコロナ禍によるものであったか、などと考えてしまった。今回は古川真人さんの「港たち」という小説について書きたい。

 

古川真人「港たち」(『すばる』2023年7月号掲載)

 

 

 

古川真人作品の読者には、すっかりお馴染みになった長崎の島の人々(もちろん、この作品から古川作品を読み始めても全然問題ない)。

九十歳を過ぎた内山敬子を起点に、その夫である宏、ふたりの間の子供らである哲雄、加代子、美穂、それぞれの配偶者である千佐子、昭、明義、さらにその下の世代の敬子にとっては孫にあたる浩、稔、奈美、知香、知香の夫である裕二郎がいる。それから敬子の妹の多津子とその配偶者である勲……。「にぎやかな一家」の面々がお盆に島へやって来て、敬子が長いあいだ休むことなく営んできた「内山商店」という商店兼住居に集っている一日の物語だ。集っている、そう、生者も死者も(お盆だしね!、ちなみに先に書いた家族構成員の中に故人も同列に混ざっている)、今ここには来ていない人も、みんなみんなこのにぎやかな一家の「声」の海にやって来る。そんなあり得ないことだって、この小説の言葉は可能にする。自分は足が弱りもう仏壇のある二階の部屋には上がれない敬子は「船頭のような」役割になって、盆の準備のあれやこれやの指示を家族たちに出す。「ほとけさまという、魂の寄りあつまった、一艘の舟のような、一点の炎のような、盆の入りから家に帰ってきている存在のため」に。

 

 ところで敬子は眠たいのだ。年をとると深く長い眠りではなくて、浅く短い眠りが間歇的に訪れるようになる……というのはどこかで聞いたことがある。敬子はつい、うつらうつら舟を漕いでしまい、たくさんいる家族たちの声を聞き分けることができないでいる。そんな舟を漕ぐ(眠たい)船頭・敬子が、声、声、声の波間に漂えばあまりに方向があやうくて、それが老いの心もとなさでもあるのかもしれないと思わせる。そして、あやうい漂流をする舟が港に着くのではなくて、「港たち」が舟のほうに着く、というような不思議な転倒がこの作品の魅力だ。

「声」というものについて考える時、それは「人」がいて、その「人」に向けて「声」を発したり、その「人」から「声」を受け取ったりするものだと思う。ところがこの作品ではそこがひっくり返っていて「人」よりも先に「声」があって、辿りついたところに「人」がいる。そもそも「だれ」が発した声であったかは受け取られた「声」がまた別の「声」に投げ返されてはじめて輪郭を持つような、関係性によって確かになるようなものと考えることもできるのではないか。「声」の発信地が多ければ多いほど、それは「だれ」に向けたものなのか、「だれ」が投げたものなのか曖昧になっていく……というような、日常のありふれた言葉の空間をこの作品は見事に書いている。

 

「ひとが先にあるのではない、声が、声に対して、ひとを呼ぶ」(24頁)、「声は、自由に往来し、その届いた先に停留する」(24-25頁)、「声が立ち寄り、声が漕ぎ出て行く」(25頁)、「そうして声の行き交うところが、海なのだ」(25頁)

 

 

 

古川作品で私が特に好きなのは「声」で作られる空間だ。それは「今」や「生」、「過去」や「死」をも超えた果てしなくゆたかな空間である。港から船が出ることが声を発することに重ね合わされるなら、盆の終わりに精霊舟を海に流すことは、生者から死者へ「声」を発することになる。

 

声? だれの?

だれのでもないのだった。声が話している。とらえそこなった声が、だれかの声が、だれかの耳に辿り着くすべをうしなって、沈黙のうねりと、さわがしさの波のあいだを――海を――漕ぎ手のいない舟となって漂いだす。さっきから、ずっと敬子のまぶたは重たくなって。しかし、眠りは彼女を訪れないものだから、耳が、傍で盛んに話す者たちを、姿のないまま、その行き交う音のまま、彼女の脳裏に描きだす。

(前掲書、24頁より引用)

 

 

敬子の〈眠り舟〉のような、だれがだれだか結局定かにならない声の海に漂う状況はまるで迷子だ。そして、迷子というこの寄り道状態だからこそ、今は一緒にいないはずの多津子の声も拾って、ともに漂い、しまいには「港たち」のほうが迎えに来るような(そしてそのことは年老いた親を島に残している家族が交代でその様子を見にくることにも重なる)、そんな展開を可能にする。

 

印象的な敬子の漂流、それは彼女が思い出したり、あるいは眠ってしまっている、浅い夢の中で妹の多津子と話していることだ。敬子が最後に多津子に会ったのは病院受診の都合で福岡の多津子の家に泊めてもらった時らしい。そこで姉妹は「橋の夢」をよく見るのだという会話をした。その夢というのは遠い昔の記憶が形を変えて反復するものなのだろう。静かになった家で(家族たちは盆の終わり、海に精霊舟を流しに出掛けた)敬子がうつらうつらしているのは、多津子に夢の話をした時のこと、あるいはその夢の中だ。それは戦争のころで、敵の飛行機に撃たれるという危機のなか、多津子を負ぶって逃げて橋の下に、海に、飛び込んだ(――そうな、そがんことのあったとね)という、ゆめうつつの場所。そしてその同じころ、精霊舟を流しに行った海と家との往復の道で、稔もまた似たような夢を繰り返し見るということについて考えている。「なにかに追われる、危ない場所に居る、そして浩といっしょ」という夢は彼自身の現実の不安が投影されていて、それは浩という目の見えない兄が最悪の事態に陥ったときに、助けてやれなかったことに対する後悔と、そういう守らねばならぬ者を引き受けていることで回避しきれない危機があることの怖さ、自分ひとりならどんなに気楽かという願望と、それができない抑圧の表れだろうと結論づける。

 

ここまで読んで、にぎやかな一家は単に楽しいばかりの時空を作り出す存在ではなかった、ということに気がついた。家族というのは時に厄介なしがらみになって、離れようもなく纏わりついてくる。この作品で描かれた血縁関係の中に酒ばかり飲んで暴れる困り者もいたりする。良くも悪くも、ひとつの集団として存在する血縁集団は、その内部にある喜びも苦難も、全部をともにしなければならない。「声」は家族の形をつくり、一人一人を「港」として固定する。家族というものの、賑やかさと煩わしさ、その両方を語る小説の「声」は、最後に夢から覚めたらしい敬子のもとへ、港たちが帰ってくることを告げる。

 

追記:久しぶりに、こっちも読まんばならん。