言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

消えた海の底―ガルシア=マルケス『族長の秋』

今回は、ガルシア=マルケス『族長の秋』の感想を書く。

ガルシア=マルケス著、鼓直 訳『族長の秋』(綜合社編ラテンアメリカ文学13、集英社、1983年) 

族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)

族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)

 

 

主人公「大統領閣下」の死体の描写からはじまり、時を逆行させて彼の存命だった頃の残酷な所業の数々が語られる。6つの部分から成る作品で、面白いことにひとつを除く部分の始まりは大統領の死であり、そうでありながら、作中全体の時間は大統領の盛衰を取り扱っている。彼が耳鳴りを意識してから、実はきこえなくなってしまったという細部で時間の順行を知りながら、在りし日の大統領に降りかかる出来事を追いかけながら読んでいく。すると区切られた新しいセクションで、また彼の死が現れる。不思議な本だった。

 

解説よりメモしておくと、『族長の秋』の主人公は実在した特定の独裁者ではない。

「それは、独裁者の牧場、という言い方さえされるラテンアメリカの歴史をよぎっていった、架空の人物である上に、コルテスやピサロの徒によって征服されてから後のラテンアメリカが産んだ、唯一の神話的存在としての独裁者の、いわば合成された肖像なのだ。」(前掲書244頁)

 

消えた海の底で、という言葉が読了後にふっと浮かんだ。水の底にいるときの耳を圧迫されているような音、耳鳴り、無音の孤独な世界のことを考えた。本書に描かれた族長こと大統領閣下が居る場所、それは消えた海の底みたいだった。海への憧れが彼を突き動かしていた。その彼の死体はなんだか水死人めいていた(ニシンめいた遺体と言う表現がある190頁)。最後には借款の見返りとしてカリブ海が分解して搬出されてしまって、窓から見える海は消え、あとには「月面の粗い塵を敷きつめたような、この無涯の平原」が目の前に残された。

そして大統領閣下の居る場所は、この物語を「われわれ」という人称を用いて語る群衆の居る場所とは全くの反対側なのだった。「こちら側」にいる語り手たちが、あちら側の大統領閣下について語る。ある時は「われわれ」が目にしたものを、また別の時には「われわれ」の中にいるだれかひとりが立ち現れて、大統領のことを語るのだ。

「ぼくは、そのときになってやっと、このくたびれた老人が、ぼくらが小さいころから偶像視してきた男、名を挙げたいというぼくらの夢の、まさに化身だということを認める気になった、とても信じられないことだったけど。」(前掲書90頁)

大統領の居る場所を地球の上に点として落とすなら、ほかの人々に居る場所はその地球をくるくる回した常に反対側なのだ。語り手たちのいる「こちら側」は愛のある場所、だが大統領の居る場所は「秋の終わりの冷たく凍てた枯葉の陰気な音」ばかりきこえる、作品の始まりであり、繰り返し語られることになる大統領の死体がある場所だ。

 

一月のある日の午後にはわれわれも、大統領府のバルコニーから暮れなずむ空を眺めている一頭の牛を見かけた。大統領府のバルコニーに牛。こんな不似合いなものがあるかね! まったく情けない国があったものだ! 牛がどうやってバルコニーに上がったのか、この点についていろいろと憶測がなされた。

(前掲書、8頁)

 

 

誰も信じることなどでできない独裁者の孤独、愛を知らない男。誰も彼に真実を告げることはなくなり、彼はただ使用人たちのトイレの壁の落書きを見て隠された真実を知る。テレビに大統領専用チャンネルが設けられ、そこで放送されるドラマはすべて彼が好むように改変されたものだったし、女学生だと思って誘惑した女は娼婦だった。

 

(……)海軍将校は地面に残っていた長靴の痕を指さしながら、ご覧ください、と言った、閣下の足跡です、わたしたちは石のように身を固くして、馬鹿でかく凸凹のある靴底の残したその痕を眺めた、それには、孤独な生き方が身についたジャガーの鷹揚さと静かな自信、そして足の皮膚病の臭気が感じられたよ、わたしたちはそのお靴跡にまざまざと権力を見、行って見れば、はるかに啓示的な力と彼の神秘性とのつながりを感じた、(……)

(前掲書155~156頁)

 

 

いつしかまるで神話の登場人物のようになり、果たして大統領が存在しているのかどうかさえ誰にも分らなくなったらしい、ほとんど目にみえない、代わりにバルコニーに牛が見えた独裁者の黄昏が私の脳裡にこびりついている。それから、燈台の回転する緑色の夜明けの光のなかを覗き込んで、「消えた海を悼む風の音」をきく。

 

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