言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

声の波間を―古川真人「ラッコの家」

今と昔が重なり合う瞬間というのがあるとすれば、それは生きていることの、生きてきたことの、生きていくことの肯定であると思う。

タツコは「声」によって描き出された空間の中にぽっかりと浮かび、踏み外して落ちた海にぽっかりと浮かぶ子供時代の自分を見つめる。「きっとあの子に言ってやろう」というラスト、それはタツコ自身が生の波間に漂い続けて見出した、とても力強い肯定なのだと思う。それと同時に、この作品は単なる記憶の作用や回想を描いたものではなくて、ちょっと面白い日常に潜む変身譚でもある。

今回は『縫わんばならん』(第48回新潮新人賞)でデビューした作家、古川真人さんの最新作「ラッコの家」(100枚『文學界』2019年1月号掲載)という作品の感想を書いていこうと思う。

 

文學界 2019年1月号

文學界 2019年1月号

 

 

古川真人「ラッコの家」 

 

この作品はとても幸福な小説なのだと思う。

「声にあふれている幸福感」という言葉がぱっと浮かんだ。地の文と会話がひとつづきの表現になっていて、作中には方言による声があふれている。そのことの幸福をこれほど表現しきった小説は多くはないと思う。

 

こっちから言うだけっていうのも、そう、いかんとたい、そうそう、会話せんといかんとやろね、うん、こっちからあっちからって、一方じゃのうしてね、おたがいに行ったり来たりさせて、そうたい、行ったり来たりの声のあいだに、あるんやろうね、うん、あるっちゃろうね、不自由せんでくつろげるところが。

(前掲書、166頁、古川真人「ラッコの家」より引用)

 

主な登場人物であるタツコがふたりの姪やその子供らと夕食をしている前半と、雨の降る前に買い物に行って帰ってくる後半というふたつのパートからなる。目の前の現実(特に音が印象的なのだ)からいつの間にか記憶の風景を見てしまうタツコは子供の頃よく足を踏み外してはいろいろな所に落ちてしまっていた。そんな自分を見ているような回想の書き方は時は時にタツコがふたりいるような錯覚を生む。

過去の自分が幸せだったか、そうでなかったかということはよくわからないこともあって、だからこそ回想という形をとってもう一度見つめ直すことで組み立ててみることができるのかもしれない。今の自分が過去の自分に対して言葉を投げてやることも、それによって当時考えていたこととは違った意味づけを与えてやることもできる。過去は変えられないとよく言われるけれど、定点として定まった過去などというものは本当はなくて、こうして組み立て直した記憶が過去と呼ばれるのかもしれない。そしてこの組み立て直しは生の肯定なのだとも思う。なんであれ、ここまで「生きてきた」現在があるからこそ、組み立て直すことができるのだから。

 

 いまは自由で、気楽にひとりで居れて、とタツコは部屋を見渡してみれば、白々とした蛍光灯の明かりに照らされて、ぼんやりとした視界のなかを、ふたりの姪が何やら動きまわっていたから、もう、でけたと? と訊くと、できた、いいにおいじゃろ、姉ちゃん、ソースばとってよ。これや、ちがうね、お好み焼きソースは、これかな? うん、それと、ビールばのみたいとやけど、運転せにゃけん。そうたい、ビールは家でのみない。そうする、とミホとカヨコの話す声を縫うようにして、彼女の鼻先に料理の香りが漂ってきた。お箸は、もう人数分でとる? とカヨコが言い、ミホが箸置きを触っているらしい、じゃらじゃらという音をさせているのを聞いていたタツコは、自分の指先に何か冷たいものが触れたように思った。  

(前掲書、154頁、古川真人「ラッコの家」より引用)

 

引用したこの部分には二つの面白さがある。ひとつは少し前に書いた通り、地の文と会話がひとつづきの表現になっていること、こうすることで作中に「声」があふれ出す。それからもうひとつは「声」とも関係があるのだけれど、この作品の特徴として「音」によって空間を描き出そうとしている点が挙げられる。引用部分では、ソースや箸置きといった「物体」の存在を音によって作中に出現させている。「ソースばとってよ。」という言葉が読者の前にソースを呼ぶし、箸置きのじゃらじゃらという音もまた、そこに箸があることを表現している。ほとんど喋った言葉、あるいは鳴らされた音によってつくられる空間の描き方がとても面白かった。物の配置や部屋の間取りを説明する地の文が方言という話し言葉(=音)でつくられているという新鮮な空間表現だ。

 

笑い声が部屋のなかを響き渡り、その笑い方のよく似通った音の波のなかを、タツコとカヨコとミホの誰ともつかない、おやこでトドってや! おやじゃのに、よういうたい! うちもいわれたって! いわれとるぞ、あそこんいえばだれもかれもトドだらけって!

(前掲書、156頁、古川「ラッコの家」より引用)

 

日常会話の中でよく聞かれるちょっとした比喩表現というものがあって、ごろごろだらだらしていると「トド」扱い、など人間とは違う動物に人を喩えることがある(比喩による変身だ)。この作品には関係ないけれど「馬車馬のように働く」とか、ああよく言われるやつ、「どこぞの馬の骨」なんか生きてさえいないんですけど(ひどい言葉しか思いつかない汗)。

それから、話し言葉が「音」であるからこそ生じる変身、つまり聞き間違いがこの作品をユーモラスにしている。人間を海獣に変身させることで、行ったり来たりの声のあいだにある不自由しないでくつろげるところを見出したタツコののびやかな気持ちを海中に表現すると、夢幻のような風景がしっかりと現実に根を下ろす。タツコの日常から遊離しすぎずに登場人物を海中に泳ぎ回らせる大胆さが魅力的だった。

 

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