言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

獣と人―河﨑秋子『ともぐい』

河﨑秋子さんの本は、私の空白を満たしてくれる存在だ。北海道という土地のことを知りたくて、編纂された歴史書をどんなに読んでもわからなかったこと、寡黙な親、祖父母が決して語らなかった「あの時」「あの場所」とも言うべき、かつて確かに人が生きていた時間の手触りがある。ああ、きっとこうだったんだろうな。著者の小説の言葉は血の通った人間の感覚を通って私に届く。

はじめて手に取ってそう思ったのは『土に贖う』(集英社文庫)だった。私の生きる時代は「ぬるい」のかもしれない。祖父母や親の代には手に負えないものでも、なんとか人間が御してやろうと企む力があった。「温む骨」という短篇が印象に残っている。親の世代は厳しい労働を通して野幌粘土でレンガを焼いていた。その親の子供は同じ土を使って陶芸作品を作ろうとするもなかなか上手くいかない。ようやく作り上げたものは動物の頭骨に似た形をしていた。その空洞には「かつてこの地にあった、何者かであり、何者にもなり得なかった諸々の過去が、空虚という形で混在している」(『土に贖う』所収「温む骨」267-268頁)のだ。この感じは、私がずっと抱き続けていた北海道のひとつのイメージだった。北海道という土地は短期間に大きな変化を被った場所であり、わずか100年、150年で、生まれては消えていった多くの風景があったはずだ。上の世代が語る間もなく消えていったものたちの魂が空虚に浮かんでいる……。

 

河﨑秋子『ともぐい』(新潮社、2023年)

 

ともぐい

ともぐい

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さて今回は、第170回直木賞を受賞した『ともぐい』の感想を書いていきたい(作品のネタバレが嫌な人はこの先読まないでください!)。

 

自分の生まれを知らない、ただ養父に獲物を狩って山で生きる術を学んだ男、熊爪。作品の舞台は明治時代の北海道白糠の町と、その周辺の山である。白糠というところは古くからアイヌの人々が暮らし、早くから和人が集った集落だと説明される。山は熊爪が生きる場所、そして町には熊爪が狩ったものを買い取ってくれる井之上良輔の「門矢商店」(かどやのみせ)がある。ある時、熊爪は羆に襲われた男を山で発見し助けた。そのことをきっかけに「穴持たず」という冬眠をしない羆を追うことになる……というのが物語の始まりだ。

今ですっかり失われてしまった人間と獣の距離感が、静寂の原野に響く凍裂の音のような緊張感あふれる文体で書かれている。自分が生きるためには食わねばならない、だからそのために殺す、単純だが決してゆらぐことのない理を、熊爪の人生をもって表現しきった作品だった。

とにかくカッコいい。

白糠の町に来た熊爪が馬と道で鉢合わせになり、人間に使われる馬を「でかい」が「がっかり」だという場面があった。それから熊爪は畜産というものが分からないと書かれた場面、獣は笑わないから人間の笑いの意図がわからずその笑顔を直感的に恐れるという熊爪の人物像からは確かに獣臭さが立ち上る。人間同士の世の中の道理というものをよく知らない。

獣の側に視点を置いてみれば、人間の社会はおかしなことばかりに違いない。自分の命のために肉を得る必要がある、わかっていても動物を屠ることに抵抗のある人間は多い。その感覚が熊爪にはわからない。

 

鹿を撃ち取った熊爪は、雪に流れ落ちる鮮血を見てこう思う。

 

こんなきれいな赤が、鹿の中にも、熊の中にも、自分の中にもたっぷり満たされている。俺たちみんな、この血を入れておく袋みたいなものかもしれん。袋が飯を食い、糞をひり、時々他の袋とまぐわって袋を増やしては死んでいく。

(『ともぐい』8頁より引用)

 

 

 

熊爪の生命観だ。この感じが彼にとっての「本当」だったから、その視点から見る人間の世界は筋の通っていない上に、なんだか不気味な場所にさえ思えてくる。

しかし熊爪が「獣」か、というとそうではない。「人間」「猟師」の側に自分をおいて考えもする。両者は単に別の存在として遠く離れているわけではない。熊爪の中には人間と獣の両方が生きている。最近言われる動物福祉の観点やぬるい愛護精神から出てくる「共存」の幻想ではない。

 

「あ、きら、めねえ」

俺が持っているものを。帰ることを。生きることを。

(122頁)

 

 

と、山の中で負傷した熊爪は思った。そうして地面に這いつくばってでも、なんとか自分の小屋に戻ろうとするのだ。同時に、もし自分がここで力尽きて死んだら獣と鳥がたちまち自分らの糧とするだろうとも考える。

 

死んだ果てにそうなるのなら、それでも良いのかもしれない。

――なにしろ無駄がねえ。

(122頁)

 

 

獣は自分の死を考えない。最期まで、ひたすら前に進もうと(生きようと)歩き続ける。自らが死んだ後はどうなるだろうかと思い巡らすこともない。しかし引用した熊爪は、獣のようにただ生きよう、進もうと思うと同時に人間の想像力を持って自らの死後を考えてもいる……。

死後を想像するという行為は「人間」らしい。それにしても結論が「無駄がねえ」というのは、なんて潔いのだろう。自分は熊だろうか、人間だろうか、そのどちらにもなりそこなった「はんぱもん」だと自覚した熊爪は何を望み、どんな結末を迎えるのか、続きはどうぞ本を手に取っておたのしみください。

 

この作品の一節で私が最も好きなのは、これだ。

 

これからは一人。ずっと一人、狩って生きる。死ぬまでは狩る。(172頁)

 

ちなみに私はずっと鹿になりたいと思っている。たぶん無駄なく食われたい。命を粗末にしては駄目だ。おいしいお肉に私はなりたい……のか?

 

関連本↓↓

 

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先日、河﨑秋子さんのサイン会というのに行ってきました!

サイン会に行くのは初めてで、かなり緊張してしまい「この度はおめでとうございます」とお伝えするので精一杯になってしまいました。