言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

「かれ」の視線―松浦寿輝『人外』

はじめ「境界」の物語かと思った。けれど読み進めていくうちにこれはもっと広い、生きることの物語ではないかと思うようになっていった。

2020年もいろいろな小説を、その世界にもぐるみたいに読んで通ってきたけれど、今回紹介するこの本ほど、「自分が存在する」ということを考えさせられた本はなかったと思う。とても面白かった。本は読むことではじめて自分にとってかけがえのない本になる。本の輪郭を作りつづける。そのためにはともかく先へ読み進まなければならない。

 

松浦寿輝『人外』(講談社、2019年)

 

人外

人外

 

アラカシの枝の股から滲みだし、四足獣のかたちをとった「それ」は、予知と記憶のあいだで引き裂かれながら、荒廃した世界の風景を横切ってゆく。死体を満載した列車、空虚な哄笑があふれるカジノ、書き割りのような街、ひとけのない病院、廃墟化した遊園地。ゆくてに待ち受けるのは、いったい何か?

(本の帯より引用)

 

 

「わたしたちは軽く身じろぎしてアラカシの巨木の大枝が幹と分かれる股のあたりで樹皮を透(とお)りぬけ、内から外へ、はじめて触れる外気のなかへ、ずるりと滲みだし地面にぽとりと落ちた。」(9頁)と、この作品は書き出される。なにかがぽとりと落ちて、はじめそれは「わたしたち」であったが、外界のいろいろなものやコトバに触れ考えていくうち、考えるとはこういうことかと驚き、そうしてやがて「わたしたち」の一人らしきが「わたし」の存在に気がつき、「人外」と定義することで己の輪郭を定める。読者もこうしてコトバによってようやく登場人物(ヒトではない)の形をみつけ、あとは人外の視線で物語を旅することになる。人外とはかつてヒトだったらしい。それも一人ではない。様々な記憶の断片らしきものがちらちらと、本文に見え隠れする、それが思い出すということなのだろうか。または未来を予見するということなのだろうか。「向かう方向が真逆であるだけで、過去をおもいだすことと未来を予見することとはじつはまったく同じ心のはたらきなのだから。」(22頁)

 

人外は「かれ」を探している、この物語はその道中に出会う様々なヒトや風景のうつろいである。何かは書かないが「かれ」をみつけた時に「わたしたち」は「いま」「ここ」を失い、人外は物語のはじまりに生じたのは反対に(物語のはじまりでは川をくだっていったのだが、終わりのほうでは川を上っていくというのも面白い)、とろりと溶けて夏の大地に滲みいっていく。

 

読み終えて命の循環を感じた。

 

またしてもくだってゆくのかと人外はおもい、しかしそれが不思議とじぶんにとってさして不快な感覚でもないことにいささかともどわないでもない。重力にさからわずにくだってゆく。それは無と空虚のなかへかえってゆくことでもあり、他方また、みっしりと充実した物質に囲繞されている状態のもたらす安息をもとめて土のなかふかくへもぐりこんでゆくことでもある。おもさをうしなって浮游しながら、しかし同時にじぶんのからだがいやましにおもくなり大地にふかく溶けこんでゆくようでもある。

松浦寿輝『人外』114頁より引用)

 

 

読みながら、何とも定まらない言葉の印象として、私はこの部分に「死」を感じていた。死んで物体となったあとに燃やされるか埋められるかはわからないが、とにかく分解されていく過程をたどる。同時に魂みたいな、何かしがらみから解かれたものの存在を願ったりもする。すべてはうつろってゆく、うつろいのなかにあることが真理だと人外は語る。ものもまたうすれ消えていく。生じること消えること、人外は物語のはじめからおわりにかけて、まさにその過程をたどったヒトデナシとして、生命のあり様を読者に示したかのようだった。そんなふうに読んだら、この本は私にとって生きることの物語になった。

 

生きるというのは対数らせんをくだってゆくように、あるいはのぼってゆくように時間の経過を耐えることなんじゃないのかな、と言ってみた。

(前掲書、63頁より引用)

 

 

自分は今すごく進んだ成長した大きくなった、と思う瞬間があったとしても、生きることが対数らせんであるとすれば実はどの段階も自己相似であり、結局はもとのらせんに一致してしまう、自分は全く変わっていないのではないか? という疑問の中でそれでも時間をひたすら耐えながら存在している。時間が経つうちに変わっていくようなものがあるけれどその本質は本当のところは変わってなどいなくて、たとえば死でさえも、相似の連続を断つことはできない。死もまたうつろうことの一つの過程にすぎないのかもしれない。

 

作中にちりばめられたエピソードのひとつひとつが、我々が生きていく中でぶつかる様々な問いかけのようにも思われ、意味を探す生き方にもみえる。ヒトデナシの物語を追っているはずなのに、どこかでそのヒトデナシに読者としての私の来し方を重ねて読んでしまう(ちなみに「人外」に重ねてなんて書くとかなり共感しているように思われそうだがそうではない。出くわす状況は現実の読者が経験できそうにないことばかりだし、なにせ人間はヒトを食べもする。そして食べることは法悦なのだ)。

ヒトデナシに仮託して人の外側に出る視線で眺めれば、生きることってこんなふうに見えるのではなかろうか。そしてその視線は「かれ」の視線でもある。

 

「ふん、うつつはうつろのうつしにすぎず、うつろのうちにはたえずうつつがうつっている、ただそれだけのことさ」

(前掲書、109頁より引用)