言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

消えた海の底―ガルシア=マルケス『族長の秋』

今回は、ガルシア=マルケス『族長の秋』の感想を書く。

ガルシア=マルケス著、鼓直 訳『族長の秋』(綜合社編ラテンアメリカ文学13、集英社、1983年) 

族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)

族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)

 

 

主人公「大統領閣下」の死体の描写からはじまり、時を逆行させて彼の存命だった頃の残酷な所業の数々が語られる。6つの部分から成る作品で、面白いことにひとつを除く部分の始まりは大統領の死であり、そうでありながら、作中全体の時間は大統領の盛衰を取り扱っている。彼が耳鳴りを意識してから、実はきこえなくなってしまったという細部で時間の順行を知りながら、在りし日の大統領に降りかかる出来事を追いかけながら読んでいく。すると区切られた新しいセクションで、また彼の死が現れる。不思議な本だった。

 

解説よりメモしておくと、『族長の秋』の主人公は実在した特定の独裁者ではない。

「それは、独裁者の牧場、という言い方さえされるラテンアメリカの歴史をよぎっていった、架空の人物である上に、コルテスやピサロの徒によって征服されてから後のラテンアメリカが産んだ、唯一の神話的存在としての独裁者の、いわば合成された肖像なのだ。」(前掲書244頁)

 

消えた海の底で、という言葉が読了後にふっと浮かんだ。水の底にいるときの耳を圧迫されているような音、耳鳴り、無音の孤独な世界のことを考えた。本書に描かれた族長こと大統領閣下が居る場所、それは消えた海の底みたいだった。海への憧れが彼を突き動かしていた。その彼の死体はなんだか水死人めいていた(ニシンめいた遺体と言う表現がある190頁)。最後には借款の見返りとしてカリブ海が分解して搬出されてしまって、窓から見える海は消え、あとには「月面の粗い塵を敷きつめたような、この無涯の平原」が目の前に残された。

そして大統領閣下の居る場所は、この物語を「われわれ」という人称を用いて語る群衆の居る場所とは全くの反対側なのだった。「こちら側」にいる語り手たちが、あちら側の大統領閣下について語る。ある時は「われわれ」が目にしたものを、また別の時には「われわれ」の中にいるだれかひとりが立ち現れて、大統領のことを語るのだ。

「ぼくは、そのときになってやっと、このくたびれた老人が、ぼくらが小さいころから偶像視してきた男、名を挙げたいというぼくらの夢の、まさに化身だということを認める気になった、とても信じられないことだったけど。」(前掲書90頁)

大統領の居る場所を地球の上に点として落とすなら、ほかの人々に居る場所はその地球をくるくる回した常に反対側なのだ。語り手たちのいる「こちら側」は愛のある場所、だが大統領の居る場所は「秋の終わりの冷たく凍てた枯葉の陰気な音」ばかりきこえる、作品の始まりであり、繰り返し語られることになる大統領の死体がある場所だ。

 

一月のある日の午後にはわれわれも、大統領府のバルコニーから暮れなずむ空を眺めている一頭の牛を見かけた。大統領府のバルコニーに牛。こんな不似合いなものがあるかね! まったく情けない国があったものだ! 牛がどうやってバルコニーに上がったのか、この点についていろいろと憶測がなされた。

(前掲書、8頁)

 

 

誰も信じることなどでできない独裁者の孤独、愛を知らない男。誰も彼に真実を告げることはなくなり、彼はただ使用人たちのトイレの壁の落書きを見て隠された真実を知る。テレビに大統領専用チャンネルが設けられ、そこで放送されるドラマはすべて彼が好むように改変されたものだったし、女学生だと思って誘惑した女は娼婦だった。

 

(……)海軍将校は地面に残っていた長靴の痕を指さしながら、ご覧ください、と言った、閣下の足跡です、わたしたちは石のように身を固くして、馬鹿でかく凸凹のある靴底の残したその痕を眺めた、それには、孤独な生き方が身についたジャガーの鷹揚さと静かな自信、そして足の皮膚病の臭気が感じられたよ、わたしたちはそのお靴跡にまざまざと権力を見、行って見れば、はるかに啓示的な力と彼の神秘性とのつながりを感じた、(……)

(前掲書155~156頁)

 

 

いつしかまるで神話の登場人物のようになり、果たして大統領が存在しているのかどうかさえ誰にも分らなくなったらしい、ほとんど目にみえない、代わりにバルコニーに牛が見えた独裁者の黄昏が私の脳裡にこびりついている。それから、燈台の回転する緑色の夜明けの光のなかを覗き込んで、「消えた海を悼む風の音」をきく。

 

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命の続く限り―ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

40歳になったら死のうと思っていた。だがそれが数年先に迫って来たとたんに、老いというものを肯定したくなってきた都合のいい人間が私である。まったくもって自分勝手に生きてきたわけだが、そろそろまともな人間になろうと思った矢先に発生したのがコロナ禍である。多くの世界から分断されてしまったような、100年くらいは続きそうな孤独の中で、まともな人間になるのは諦めてやっぱり一人で本を読んでいることにした。それでずっと頭に浮かんでいた「コロナの時代の愛」という言葉から、そういえばそんな本あったじゃん!(いや、ビミョーに違わないか?)と思って本書を手に取った。

今回は、ガルシア=マルケスコレラの時代の愛』の感想を書いていきたい。500頁もあったことが信じられないくらい、夢中になって読んだ。

 

 ガブリエル・ガルシア=マルケス著、木村榮一 訳『コレラの時代の愛』(新潮社、2006年

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 

 

 

51年9カ月と4日、男は女を待ち続けていた……。

愛が愛であること。その限界にまで、かくも緻密、かくも壮大に挑んだ長篇。満を持して、いよいよ日本に上陸。

 

夫を不慮の事故で亡くしたばかりの女は72歳。彼女への思いを胸に、独身を守ってきた男は76歳。ついにその夜、男は女に愛を告げた。困惑と不安、記憶と期待がさまざまに交錯する二人を乗せて蒸気船が、コロンビアの大河をただよい始めた時……。内戦が疫病のように猖獗した時代を背景に、悠然とくり広げられる、愛の真実の物語。1985年発表。

(本の帯文より)

 

 

これでだいたい物語のあらすじは紹介できたように思う。一言で書いてしまえば、これはフロレンティーノ・アリーサという男の愛が51年9カ月と4日経ってようやく成就するという話。相手の女性の名前はフェルミ―ナ・ダーサ。彼女ははじめフロレンティーノ・アリーサと手紙や電信を使って激しい恋をするのだけれど、結局当時国内で猛威を振るっていた伝染病のコレラを食い止めた名医フベナル・ウルビーノ博士と結婚して、それなりに幸せな結婚生活を送った。こう書くと、男のほうがただただストイックに女を待っていたように思われそうだけれど(すべてフェルミ―ナ・ダーサへの愛のためだと信じていたからある意味ストイックだけれど)、半世紀のあいだに男は622人にのぼる女性と関係を持ち、〈彼女たち〉と題したノートに記録していたりする(最終的にそのノートは25冊ほど溜まったらしい)。

こんなありえない話をありえる現実の中に置く語りの魔術。

「およそ現実離れした恋物語を縦糸にして、独立後四、五十年たち、没落の一途をたどっているかつての上流階級や新興成金の登場、あるいは文明の利器である電話、電信の普及、川を航行する船会社、当時の医学、とりわけ伝染病に対する措置などが丁寧に書き込まれている。」(訳者解説より)

 

この本を読み始めた読者が最初に出くわすのが、ジェレミア・ド・サン・タムールという人物の謎めいた自死だ。この人物と他の人物とのかかわりは時々、ごくさりげなく描かれている(フェルミ―ナが従姉と肖像写真を取りにいった写真館や、カフェ・デ・ラ・パロキアという店で行われたチェスの歴史的トーナメントなど)。医者としてあるいは友人として、ウルビーノ博士がジェレミア・ド・サン・タムールの死を目撃するのだが、やがてその死が当人によって計画されていたものだと知れる。

 

その年の一月二十三日に彼(ジェレミア・ド・サン・タムール)は満六十歳になった。そこで、精霊を信仰しているこの町のもっとも重要な祭りであるペンテコステスの日の前夜を最終期限と決めた。

(前掲書、31頁)

 

 

60歳になったら死のう。彼はこうして自ら「死」という限界に到達してしまった。その同じ日、本書のヒロインと長らく結婚生活を送ってきたウルビーノ博士が驚くほどあっけなく死んで(「この恥知らずめ」と博士は叫んだ。オウムはまったく同じ声でこうやり返した。「お前のほうがもっと恥知らずだよ、博士」/70 頁)、半世紀待った男フロレンティーノ・アリーサの愛が実現する。

 

どうして冒頭にジェレミア・ド・サン・タムールの死を書いたのだろうと読みながら疑問に思っていたが、読み終えて考えてみるに、生物としての限界「死」にどう対峙するかということではないか?と思った。

ラストシーン、72歳の女と76歳の男は蒸気船に乗って川を下っていた(まず遡ったので下りは帰路)。いよいよ終わりというところまできて、今度は「このまままっすぐ、どこまでもまっすぐに進んで〈金の町〉まで行こう」(501頁)と言ってなんとまた川を遡ろうとするのである。どこまでも果てしなく航行できそうな川。「可能性」にふくらんだイメージに満ちたうつくしいシーンだと思った。川を遡ったり下ったりするというのも象徴的で、これは時間を遡ること(記憶)と、未来に目を向けること(期待)と重なるように読める。はっきり言って、いつ死んでもおかしくない年齢になるまで、ふたりの時間は経ってしまった。その間にいろいろなことがあって男の社会的成功(カリブ河川運輸会社という密林の木を薪にして川を航行する船会社)の裏側では取り戻しようもないほど自然が破壊されてしまってもいる。たくさんの動物が消えていった。しかし、それすらも取り戻そうとするかのような限界を知らないふたりの生の力、あるいは愛を、終わりのほうに広がる幻想的な風景にみる思いがした。

 

船長はフェルミ―ナ・ダーサに目を向けたが、その睫は冬の霜の最初のきらめきをたたえていた。次いでフロレンティーノ・アリーサに目を戻すと、その顔からは揺るぎない決意と何ものも恐れない強い愛が読みとれた。限界がないのは死よりもむしろ生命ではないだろうか、と遅ればせながら気づいた船長は思わずたじろいだ。

「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」

フロレンティーノ・アリーサは五十三年七カ月十一日前から、ちゃんと答を用意していた。

「命の続く限りだ」と彼は言った。

(前掲書、502頁)

 

 

その他、本書の魅力は時間と空間を生み出して満たしていく「生」の確かな手触りと強度を持った様々な登場人物たちだ。その存在感がありえない話をありえるものに見せてしまう。

愛について、一見重そうなテーマと時代背景を持つ本書だがユーモラスな語りに思わず笑えるエピソードがたくさん書かれている。たとえば、ふっといなくなってから3~4年後にひょっこり見つかる陸カメが「生き物というよりもむしろ幸運をもたらす鉱物のお守りのよう」だし、「フェルミ―ナ・ダーサがはじめて小便の音を聞いた男性は夫だった。」にはじまる小便の思い出や、フロレンティーノ・アリーサが禿げと繰り広げた大いなる戦いなど、ささやかなことが大げさに語られていたりもして、久しぶりに長篇小説を読みながら笑った。

時に挽かれるもの―オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』

今回は自分にとって三冊目のポーランドの小説、オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の感想を書いていこうと思う。

 

オルガ・トカルチュク著、小椋彩 訳『プラヴィエクとそのほかの時代』(松籟社、2019年)

 

 

ドルノ・シロンスクの国境の村タシュフ付近、ポーランド南西部に位置する架空の村プラヴィエクを舞台に、84の断章で描かれる、(おもに)人間の日常が、ポーランドの激動の二十世紀を浮かび上がらせる。

(前掲書、訳者解説より、361頁)

 

 

自分が暮らす領域に、どれだけの物があるのか、そしてどれほどの時間が流れているのかと思わず考えた。毎日使うからよく知っている物、見慣れた物、懐かしい物、人からもらった物、人に贈る物、今は埋もれている物、これから見つけ出す物……。

それから動物、植物、キノコ。それぞれに付随する膨大な時間の蓄積が、私の日常だ。

自分の日常には、他者の時間もたくさん含まれている。というか、そういう時間も全部含めて、この不完全な断片の「私」は生きているのかもしれない。そして死ぬということは、この関係性がばらばらに崩壊してしまうこと。

 

人はじぶんが動物よりも植物よりも、とりわけ、物よりも濃密な生を生きていると思っている。動物は、植物や物よりも濃密な生を生きていると感じている。植物は物よりも濃密な生を生きていることを夢に見る。ところが、物は、ありつづける。そしてこの、ありつづけるということが、ほかのどんなことよりも、生きているということなのだ。

(前掲書、59頁より引用)

 

 

作品に出てくるほんの小さな要素かもしれないが、私は読みながら、コーヒーミルの存在が気になって仕方なかった。そのコーヒーミルはある工場で、木と磁器と真鍮をひとつの物に組み合わせただれかの手によって存在することになった。そして毎日昼前にコーヒーを挽くある家にやって来て、温かくて生き生きした両手がミルを抱きしめていた。それから戦争があって、コーヒーミルはあちこち点々することになる。「世界の混乱を、からだいっぱいに吸い込んだ。」(60頁)混乱、破壊、絶望を経験した。やがてこの作品の主要な登場人物であるミハウがコーヒーミルを見つけ、リュックサックに隠して持ち帰った。その娘が家の前のベンチに持ち出し、遊ぶみたいにハンドルを廻してみた。

こういうコーヒーミルの存在があった。

ミシャは遊びのひとつとして空っぽのミルのハンドルを廻すけれど、母親のゲノヴェファはコーヒー豆を入れて挽いた。遊びが終わり、挽くということがコーヒーミルの存在の仕方になる。そしてこの家族の日常を作っている。

コーヒーミルのハンドルを廻すことで豆を挽きながら、日常の断片はできていく。これは「時間」が関係していることだ。時間がコーヒーミルのハンドルを廻している。時間に挽かれていくコーヒー豆とはなんだろう? それは、じぶんが存在することを知っているもの、ゆえに時間と死から自由ではないものすべてではないだろうか。

 

彼女はまるでコーヒー豆のようにちいさな自分が、宮殿みたいに巨大なコーヒーミルの漏斗の中に落ちていくような気がした。真っ黒い口の中に飛び込むと、そこは機会が豆を挽く只中。痛い。体は塵になっていく。

(前掲書、138頁)

 

 

時間は容赦ない。あとに残りそうなすべての痕跡を拭う、すべてを塵にして再生不能なまでに破壊しつくすのかもしれない。そして誰も時間から自由ではないのだ。

だからこの作品に登場するあらゆる存在は一回限りのものとして生きて、死んでいく。生者にはわからないけれど、死んだものにもたぶん続きがあって、それはもしかしたら水霊や悪人かもしれない。天使は人間と違った仕方で存在している。

 

作品の舞台となっているプラヴィエクという架空の村はポーランドの縮図のようなところ、大国に蹂躙されて、時には国土さえ変更になってしまうという断片化された「時」を歴史に持つ場所だ。コーヒーミルが豆を挽くみたいに、時間に挽かれて粉砕され、断片になったものどもが「太古」の意味を持つ「プラヴィエク」に降り積もっている。そんなふうに読んだ。本作が断章から構成されていることもまた、著者の時間の表現なのかもしれないと思った。

 

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よみあとの余韻―黒田夏子『組曲 わすれこうじ』

ちかくのもの,手にとれるものでも遠まわりにかけばついやした言葉のぶんだけはるけくなるようで,そのものとの間にある時間もふかくなっていくような錯覚の連続に,ほとんど恍惚としながらよんだ.

 

黒田夏子組曲 わすれこうじ』(新潮社,2020年)

 

組曲 わすれこうじ

組曲 わすれこうじ

 

 

 

 

いずれにしろ人はぜんぶの時間を持ちあるくしかなく,そこには記憶も記憶まがいも記憶ちがいも見さかいなくほうりこまれている.たぶん生まれるまえの時間も死んだあとの時間も,いれこいれこにいつのまにか身のうちにやどりついてしまっている他者の時間も,作中人物の時間も,一にちで四万六千にちぶんの日の時間も,手なおしをかさねて描線のみだれてきた時間もつぎつぎとほうりこまれつづけて世界はとてもいっぱいなのだった.

(前掲書所収「時間どうぶつ」166ぺーじより引用)

 

 

組曲,と題にあるくらいだから「だい1きょく」「だい2きょく」と続いていく17のてのひら小説を収めた1冊で,そのうちのいくらかは,文芸誌に3つずつくらいのっていたのを読んでいておぼえてもいたが,ばらけていたものも1冊にまとまれば互いにあわくつながりあっているらしく,かさなりあうところが濃いかげのようにどっしりと地にすわってひとつらなりの世界観をたしかにかんじさせる.とくにだい3きょく「みだれ尺」,だい7きょく「身がわり書き」,だい13きょく「はぐれうた」,だい14きょく「時間どうぶつ」,だい15きょく「かたしろ往来」が好きで,そのきょくばかりを回るみたいになんかいもよんだ.この1冊がわかりやすい紙のつづりであるかむずかしいものであるかは,よむ者によってかんがえのちがうことだからなんともいいがたいが,よむことそのものにいくらかのさいわいをかんじる者にとっては,またとないことばがんぐであり,よむたびごとに変幻する者がおもいだし手にとり,またかつて手にとったがんぐ,蒐集され引き出しにおさめられた縮尺模造の,その現実とはちがうおおきさ,尺が「幼年」から「なんさい」とかかれ,やがて「七十さい」まで自在にのびちぢみする時間の尺とかさなりあうようでたのしい.

 

         *

 

あまりことばをまっすぐにしてしまうと,おもしろみもへってしまうようで心ぐるしくもあるが,これだけはとおもって,よみあとの余韻をかいてみたいのが「みだれ尺」というてのひら小説だった.物語はなんらかの事情で「二代まえの血族」にひきとられ「養育がかり」にそだてられた者の視点で風景や玩具を描く.そだてられた者の時間は幼年から七十さいまでのびたりちぢんたりしながら,やはりそれぞれの視点から手にとるもの目にみえるものが描かれていく.手ばこの中の百ばかりある蝋ざいく,野菜や果実をかたどったと思われるそれぞれの大小の決まりごとのなさを,幼年と二代まえの蒐集人,そして二万四千にちごの持ちぬしがおもしろがっているところから「みだれ尺」というてのひら小説ははじまり,ふしぎのくにのありすや,がりばーりょこうきといった大小がいくども変転する物語について語られ,縮小や拡大がとめどなければいずれ無へとまぎれてしまうので中途半端であることが存在の要件であるとすれば,有限とはなんとたのもしい囲いかとかかれる.

 

でたらめな比率の蝋ざいくのひしめく中から,かつて幼児のゆびさきひとつに載った赤い食用果が取りだされて七十さいのゆびさきもそれを載せる.そのなんの必然性もない縮小率が祝われる.

(前掲書所収「みだれ尺」36ぺーじより引用)

 

時をへだてて,おなじものを指先に載せているが,幼児のゆびさきと七十さいのゆびさきの大きさがちがうので,載せられた赤い食用果の大きさも変わってみえる.おそらく小さな幼児のゆびさきに載せた時は大きく,七十さいのゆびさきに載せた時は小さくなる.その縮小率が祝われるというのだから,この時のへだたりというか時間の経過はさいわいなことなのだろうとおもわれるし,中途はんぱな縮尺拡大率の蝋ざいくが無へとまぎれず引き出しやら手ばこから出てくることも,なんとなく言ほがれる.

 

言葉をほどいていくということをかんがえているうち,けっきょくぶろぐにかくよみあとの余韻もほどけてこういう記事になった.そもそも管理人がぶろぐでよくやる「引用」ということをこのよみあとの余韻でやろうとすると,てんとまるがめんどうくさくおもわれ,ならばわーどそふとの「すべて置換」でひとおもいにおきかえてしまうことにすれば,ぶろぐの記事もこう自分らしくない文しょうになってしまう.訂正をすすめる赤い線がいっぱいにでてくる.

 

ほどけた言葉というのはたとえば,

 

たてよこのおなじな紙のひとひらから鳥のすがたをたちあげるのはうつくしい発明だが,手ほどきはまず,千ねんむかしの戦士たちの頭部をまもりかつは身ぶんを示したりあいてを威嚇したりするための獣のつのめく装飾を立てた被りもので,鳥よりはずっと手かずも少なく,直線に折っていくだけでいい工程だった.」

(「台木の鼻」89ぺーじ引用)

 

や,

 

十三まいづつの四系統に,どこにも属さない,なぞめいて不穏なふんいきの図がらの一まちをくわえた五十三まいひとくみのかーどは,折れ目などはなかったもののすでになよびかに手ずれていたから,べつに幼年の手に合わせて買われたというのではなさそうだったが,持ちあるき用の製品ででもあるのか,のちにあそびなかまの家などで見たのよりひとまわりふたまわり小さかった.

(「ひながた早春」26ぺーじ引用)

 

まっすぐにいえばおそらくは折り紙やとらんぷになってしまうものを遠まわりにいう,ついやした時間の贅沢を,この紙のつづりはいつまでもあじわわせてくれる.

でもまずはきのこを見つけなくては。―ロン・リット・ウーン『きのこのなぐさめ』

先日、あまりに悩み過ぎて頭から虹色のきのこが生えたので、そのきのこが何者なのか気になり図書館できのこ図鑑を調べていた。自分の手が図鑑を引き抜いたために大きな隙間のできた書架をふと見ると、そこに倒れそうになっている本があったので思わず手を伸ばしてしまったのだ。それが今回紹介するこの本との出会いだった。

 

ロン・リット・ウーン著、枇谷玲子・中村冬美訳『きのこのなぐさめ』(みすず書房、2019年)

 

きのこのなぐさめ

きのこのなぐさめ

 

 

 

「悲しみの心象風景をさまよう内面世界への旅と,驚きと神秘に満ちたきのワンダーランドをめぐる旅をつづけ,魂の回復のときを迎える,再生の物語.約120種類のきのこが登場.」(本書の紹介文より引用)

 

一体なんだろう? ページを開くと、ところどころに見たことのないきのこのカラー写真がある、あ、これ、トガリアミガサタケってこういうきのこなんだ……、アミガサタケというのは、たしか前に読んだ翻訳小説に出てきた「憧れのきのこ」のはずだ。

などと思っているうちに、自分がこの本を見つけたこの状況は、もしかしたら「きのこオタク」が野生のアミガサタケを見つけた時と似ているのではないだろうか? それでそのまま貸出処理をして、家に持ち帰ってじっくり読むことにしたのだった。

 

マレーシアの人の著者は、文化人類学を学ぶ留学先のノルウェーで出会ったエイオルフという男性と結婚しノルウェーに移住したのだが、結婚生活のある日、仕事に出かけた夫がそのまま勤務先で急死してしまう。そのかなしみの中、ふと参加したきのこ講座をきっかけに、きのこの深い世界を知り新たな人間関係を作り上げていくことで著者が人生を取り戻す、と本書の内容を簡単に説明するとこんな感じになる。しかし本書は単なる癒しの記録(経験談)ではなく、それでいて単なるきのこの解説本でもない。人類学的視点からの冷静な文化比較と著者の考察が効いた不思議な一冊なのだ。きのこについて書いた本の中にマルセル・モースの贈与論やアルノルト・ファン・ヘレップの通過儀礼を見つける日が来るなんて思ってもみなかった。

特に興味深かったのは、毒きのこの線引きに関することで、これほどはっきりしていることもないだろうと思われるがちだが、実はグレーゾーンが大きいそうだ。言ってしまえば国によって線引きが異なっており、世界共通の毒きのこリストのようなものは存在しないらしい。

 

「あるきのこが食用か毒かという問いは、きのこに実際どんな毒があるかだけでなく、様々な毒性を持ちうる物質に対し国がどんな姿勢を示すかによるのではないか。」(144頁引用)

 

日本で愛されてきたマツタケの学名を巡ってひと悶着あったらしく、あやうく「吐き気を催すようなきのこ」と名付けられそうになっていたこと、マツタケの匂いを「汚い靴下」のようだと見なすアメリカの菌学者がいることなどを知って笑ってしまった。匂いを表現する際、多くの場合「〇〇のようだ」と分析的に書かれるが、この比喩の部分には発話者の文化的背景や経験、価値観などが反映されていないか気をつけてみる必要がありそうだ。ある古いデンマークのきのこの本ではシロヌメリカラカサタケ(Limacella illinita)がこのように書かれていると本書で紹介されている。

「弱臭で、まず小麦粉の匂いと漠然とした大地に匂いがし、底流にはメンソールやテレピン油の匂いが漂う。そこに吊した肉、鶏小屋、びしょぬれの犬、汗、汚れた洗濯物、さらに清掃していない公衆便所のような嫌な匂いも加わる」(183頁より引用)

 

テレビのグルメリポートで話される言葉の貧弱さには辟易するけれど、きのこの味や匂い、それからワインやチーズやコーヒーなんかについての専門家の言葉も可笑しいと思ってしまう。だけれどそれを単に「可笑しい」と一蹴するのではなくて、実は専門家というのは、深い経験からある特定の言葉(たとえば「花のような」)に同じ感覚を重ねていたりする(門外漢にはわからない)。

 

サブカルチャーの内部で微妙なニュアンスの共通言語をシェアしていると、外部にいた時の間隔をあっという間に忘れてしまう。部外者は、ばら、灯油、バター、馬の生皮、さくらんぼ、それにアスファルトといったワイン・トークなど空虚な上流気取りに過ぎないのでは、と疑念を抱きがちだ。(……)混乱を招くのは新しい用語ではなく、新しい専門的な意味を持つ「一般的な」言葉だ。様々な概念の新しい使い方を理解できた時、人は文化的な障壁(バリアー)を乗り越えたと言える。

(210頁より引用)

 

文化人類学的な視線で「きのこ界」を眺めると面白い発見が色々あるらしい、その発見の一端をちょっと齧ってみることができるのが本書だと思う。特に「野生のきのこを食べる文化圏」の翻訳小説を愛好する人にとっては必読書だろう。私は読みながら、オルガ・トカルチュク(ポーランド)を思い出していた。(意外にも本書で紹介されるノルウェーの食卓にきのこが並べられるようになったのは19世紀かららしいが。)きのこの知識は何より実践で身に着けられるものだと著者は書いていて、「実践」というのは味わうことや匂いを嗅ぐこと触れること、とにかく五感をフルに活用することだ。そうやってきのこを理解しようとしたことが、夫を亡くしたかなしみのために麻痺していた感覚を取り戻すのに役立ったのかもしれない。「悲しみの迷宮をめぐる旅」と「きのこの道を歩く旅」が互いにリンクしていく、奇跡的な本だった。

 

思わず「かわいい!」と思ってしまった部分を引用しておく。重たいテーマを扱いつつ楽しんで読めたのは著者のユーモラスな文章の力だと思う。

 

きのこを擬人化するなんて馬鹿げているのは分かっている。けれどもついきのこのことを、日常生活に当てはめて考えてしまう。特にアミガサタケは見つけるのが難しいので、私たちと隠れんぼをしているようだ。森の中で半日かけてきのこを探した後に、結局は車のすぐそばに生えていたといったことも、一度や二度ではない。彼らにようやく会えた時には、何だか彼らがくすくす笑うのが聞こえてくるようだ。きのこの目からは、私たちが見つけるのが上手くもなければ賢くもないのが丸見えだろう。

(163頁より引用)

 

実は私は野生のきのこを食べる文化圏に属しているのだが、きのこ仲間について本書で言及されている通り、自分のきのこの在り処を他人には決して教えない。もし教えるとしたら、その人は本当に信用できる人。このことは国を問わずきのこ界に共通の暗黙知なんだろうか?

 

※実際に頭から虹色のきのこが生えたかどうかはご想像にお任せします。

 

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「かれ」の視線―松浦寿輝『人外』

はじめ「境界」の物語かと思った。けれど読み進めていくうちにこれはもっと広い、生きることの物語ではないかと思うようになっていった。

2020年もいろいろな小説を、その世界にもぐるみたいに読んで通ってきたけれど、今回紹介するこの本ほど、「自分が存在する」ということを考えさせられた本はなかったと思う。とても面白かった。本は読むことではじめて自分にとってかけがえのない本になる。本の輪郭を作りつづける。そのためにはともかく先へ読み進まなければならない。

 

松浦寿輝『人外』(講談社、2019年)

 

人外

人外

 

アラカシの枝の股から滲みだし、四足獣のかたちをとった「それ」は、予知と記憶のあいだで引き裂かれながら、荒廃した世界の風景を横切ってゆく。死体を満載した列車、空虚な哄笑があふれるカジノ、書き割りのような街、ひとけのない病院、廃墟化した遊園地。ゆくてに待ち受けるのは、いったい何か?

(本の帯より引用)

 

 

「わたしたちは軽く身じろぎしてアラカシの巨木の大枝が幹と分かれる股のあたりで樹皮を透(とお)りぬけ、内から外へ、はじめて触れる外気のなかへ、ずるりと滲みだし地面にぽとりと落ちた。」(9頁)と、この作品は書き出される。なにかがぽとりと落ちて、はじめそれは「わたしたち」であったが、外界のいろいろなものやコトバに触れ考えていくうち、考えるとはこういうことかと驚き、そうしてやがて「わたしたち」の一人らしきが「わたし」の存在に気がつき、「人外」と定義することで己の輪郭を定める。読者もこうしてコトバによってようやく登場人物(ヒトではない)の形をみつけ、あとは人外の視線で物語を旅することになる。人外とはかつてヒトだったらしい。それも一人ではない。様々な記憶の断片らしきものがちらちらと、本文に見え隠れする、それが思い出すということなのだろうか。または未来を予見するということなのだろうか。「向かう方向が真逆であるだけで、過去をおもいだすことと未来を予見することとはじつはまったく同じ心のはたらきなのだから。」(22頁)

 

人外は「かれ」を探している、この物語はその道中に出会う様々なヒトや風景のうつろいである。何かは書かないが「かれ」をみつけた時に「わたしたち」は「いま」「ここ」を失い、人外は物語のはじまりに生じたのは反対に(物語のはじまりでは川をくだっていったのだが、終わりのほうでは川を上っていくというのも面白い)、とろりと溶けて夏の大地に滲みいっていく。

 

読み終えて命の循環を感じた。

 

またしてもくだってゆくのかと人外はおもい、しかしそれが不思議とじぶんにとってさして不快な感覚でもないことにいささかともどわないでもない。重力にさからわずにくだってゆく。それは無と空虚のなかへかえってゆくことでもあり、他方また、みっしりと充実した物質に囲繞されている状態のもたらす安息をもとめて土のなかふかくへもぐりこんでゆくことでもある。おもさをうしなって浮游しながら、しかし同時にじぶんのからだがいやましにおもくなり大地にふかく溶けこんでゆくようでもある。

松浦寿輝『人外』114頁より引用)

 

 

読みながら、何とも定まらない言葉の印象として、私はこの部分に「死」を感じていた。死んで物体となったあとに燃やされるか埋められるかはわからないが、とにかく分解されていく過程をたどる。同時に魂みたいな、何かしがらみから解かれたものの存在を願ったりもする。すべてはうつろってゆく、うつろいのなかにあることが真理だと人外は語る。ものもまたうすれ消えていく。生じること消えること、人外は物語のはじめからおわりにかけて、まさにその過程をたどったヒトデナシとして、生命のあり様を読者に示したかのようだった。そんなふうに読んだら、この本は私にとって生きることの物語になった。

 

生きるというのは対数らせんをくだってゆくように、あるいはのぼってゆくように時間の経過を耐えることなんじゃないのかな、と言ってみた。

(前掲書、63頁より引用)

 

 

自分は今すごく進んだ成長した大きくなった、と思う瞬間があったとしても、生きることが対数らせんであるとすれば実はどの段階も自己相似であり、結局はもとのらせんに一致してしまう、自分は全く変わっていないのではないか? という疑問の中でそれでも時間をひたすら耐えながら存在している。時間が経つうちに変わっていくようなものがあるけれどその本質は本当のところは変わってなどいなくて、たとえば死でさえも、相似の連続を断つことはできない。死もまたうつろうことの一つの過程にすぎないのかもしれない。

 

作中にちりばめられたエピソードのひとつひとつが、我々が生きていく中でぶつかる様々な問いかけのようにも思われ、意味を探す生き方にもみえる。ヒトデナシの物語を追っているはずなのに、どこかでそのヒトデナシに読者としての私の来し方を重ねて読んでしまう(ちなみに「人外」に重ねてなんて書くとかなり共感しているように思われそうだがそうではない。出くわす状況は現実の読者が経験できそうにないことばかりだし、なにせ人間はヒトを食べもする。そして食べることは法悦なのだ)。

ヒトデナシに仮託して人の外側に出る視線で眺めれば、生きることってこんなふうに見えるのではなかろうか。そしてその視線は「かれ」の視線でもある。

 

「ふん、うつつはうつろのうつしにすぎず、うつろのうちにはたえずうつつがうつっている、ただそれだけのことさ」

(前掲書、109頁より引用)

 

女装パパが子どもに対して誠実にふるまう暮らし―仙田学『女装パパ』

 

本書のタイトルが長すぎるためブログ題に入りそうもなく、仕方なく著者ツイッターに記載してある『女装パパ』を使用しました。本当のタイトルは、『ときどき女装するシングルパパが娘ふたりを育てながら考える 家族、愛、性のことなど』。

今回はこの本の感想を書いていきたい。面白かったです。

 

仙田学 著『ときどき女装するシングルパパが娘ふたりを育てながら考える 家族、愛、性のことなど』(WAVE出版、2020年)

 

 

初めて仙田学さんという作家を知ったのは2015年頃だったと思う。私がちょうど小説の公募生活を始めた頃で、読書と言えばやたらとラテンアメリカ文学を読んでいた時だったと思う。「コルタサルリョサマルケスは10代の頃から好きでした」と、そんなことを言っていた作家さんはどういう小説を書いているのだろうか……? 恐る恐る手に取った仙田さんの『盗まれた遺書』(2002年著者デビュー作「中国の拷問」収録)には得体のしれない世界が広がっていた笑。いまだにきちんと読みこなせるかどうかわからない、わからないなりに何とか読もうと思って実にいろいろな読み方をして、そして結局面白がらせてもらった思い出深い一冊だ。そんなわけで、それ以来文芸誌で作品を見かけるたびに読んできた作家さんが月日の経過とともにいつしか結婚し、親になり、シングルパパになっていたらしい。

 

本書のタイトルが長いことでも察しがつくが内容は多岐にわたっており、子育てにまつわる日常の具体的な出来事から著者が考えたことがまとめられている。「母子手帳」に関しては気づかされたことがあった。何か特定の事柄に悩んで手に取る本、たとえば料理だったり育児だったり病気のことだったり、もっと広く生き方の問題であったり、そういうことが書かれている本はなんとなく押し付けがましいところがある気がするが、この本にはそういう感じは全然なくて、あくまで著者が経験したことがユーモアを交えて書かれているエッセイだった。「世間の目や偏見を恐れずに、本当にやりたいこと、信じたことを貫く。それがシングルファーザーとして、子どもに対して誠実にふるまうこと」(117頁)という大事な思いがぶれないところが素敵。ぶれないが故に警察や行政と戦うことになったりもしていて、それは結構大変だったろうなぁと思うけれど、そんなごたごたもユーモラスに書かれている。私の大好きな「愛と愛と愛」という何年か前に『文藝』に掲載されていた小説についても少し触れられていた。

具体的なエピソードが本当に面白い本だった。いくつか紹介したい。

例えば、離婚をしてからの新生活で冷蔵庫を買うことになった際、将来娘たちが成長したらどのくらい食べるようになるだろう?と想像した著者が、結婚していた頃に使っていたものより大きな冷蔵庫を買うことにした。「そうすることで未来まで一緒に買った気がした」という話。

それから家の前の道路で、ママ友たちに娘の髪を切ってもらった日の夜に娘さんが言ったこと。

 

その夜、長女は寝る前にこう言った。

――今日、家の前の道路で友達のお母さんに髪切ってもらってるとき、不思議すぎて「これ夢なんかな」って思った。

何が不思議やったん? と聞くと、「どっか知らない山のなかにいて、体に雪が降ってきてるみたいやった」とのこと。切られた髪が体の上に落ちるのが、雪みたいだと思ったらしい。

(前掲書、128頁より引用)

 

 

子どもの言葉は時々すごい詩になっている、と思う。耳元で鋏をあてられた髪が切られている時にさりさり聞こえるし、房一つ切られてぼたっと落ちるのが雪みたいと思うのはわかる気がした(冬の暖かい日に降る雪の感触を思い出した。子どもの感覚はこうではないかもしれないけれど)。

 

最後のほうに書いてあった子育ての感覚がとても不思議に思えた。

「子どもの頃の記憶が目の前の子どもたちに関する記憶と混ざりあって、自分ももうひとりの子どもになって歩いているかのような錯覚」「子どもの頃にもどっているのではなく、いまを子どもとして生きているという感覚」「親でありながら子どものひとりとしてそこにいて、自分のなかの子どもも一緒に育てている感覚」(188頁)

子どもとして生き直し、子どもたちと同じものを見て笑い驚きを感じることを著者は「親子の繋がり」であるように感じている。

これをぜひ小説で読みたいです!と思うのはきっと私だけじゃないはず……。

 

女装を趣味にする著者にはそのことで苦労も多いようで、理解してくれる人もいれば、そうでない人もいる。そこに人間関係の喜びも切なさもあるなぁと思う。脱毛のくだりは読んでいて本当に涙の出そうなほどの痛みを想像してしまい……。

脱毛とは「毛のないもうひとりの私」という遊び道具を手に入れること、と書いてあったのにブログを書きながら気がついて、この著者は自分以外の他者、何人分にもなれるのではないだろうか?と思った。分身みたいな? それとはちょっと違うかもしれない。自分とは違う何者かになること。子どもを育てながらひとりの子どもになれる著者の子育て感覚も不思議に思いながら読んだが、女装観もかなり深いのだろうと思う。

 

――パパ、毛を生やしたいのかなくしたいのかどっちなん?

(154頁より引用)

 

 

いろいろ感想を書いたけれどやっぱり子どもの言葉が一番面白いかもしれない。女装のために脱毛は必須でありながら、髪は残したい……、その切実さにずばり切り込んでくる子どもの率直さってやっぱり愛おしいものだと思う。幸せに暮らしてほしいと願っている。

 

 

盗まれた遺書

盗まれた遺書

  • 作者:仙田 学
  • 発売日: 2014/03/18
  • メディア: 単行本