言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

ひと月とフェルメールとプルースト

コロナ禍に見舞われた2020年前半は、カミュの『ペスト』やデフォーの『ペストの記録』を読んでいた。それが3月くらいまでの出来事、当分の間、本屋にも図書館にも行けなくなりそうな不安からとにかく長い物を、時間をかけて読もうと思ってマルセル・プルースト失われた時を求めて』の再読を始めたのが5月だった。2年ほど前に集英社版、鈴木道彦訳のものを読んでいた記録がこのブログの過去記事にある。

今回は吉川一義訳の岩波文庫版14冊をあいだに違う本も交えながら9月までかけて読むことができた。再読だったため、細かなところに目を向けて読むことができ、おかげでフェルメールという画家を知りたくなって今度は9月から、ひと月かけてフェルメールの絵画をみることとなった。興味関心がうねるように繋がっていく幸福は今年の初めにはなかった、それだけコロナ禍にも慣れてきたのだろうか。新型コロナウィルスに隠喩を与えるなら「沈黙」こそが相応しい、とかつて書いた私は、あの頃とは別種の沈黙に潜っていったのだと思う。

 

 

さて、今回はフェルメールの話。

ヨハネス・フェルメールは1632年、オランダのデルフトに生まれた画家である。デルフトは醸造業、織物業、陶器産業で栄えた町だったが、フェルメールの生まれた頃にはその盛りは終息に向かいつつあったそう(経済の衰えが絵画市場を直撃したこともあって、晩年のフェルメール作品の様式変化は著しい)。現在まで残る作品はわずか三十数点と少なく、ひと月かければ好事家としてじっくり鑑賞できるように思う。

鑑賞、と言っても実際のフェルメール作品をみることができたわけではなく(三十数点しかないが、世界のあちこちに散らばっているのでコロナ禍でみにいくのは不可能)、青幻舎から2009年に出ていた絵葉書のセットやインターネット上の画像、2012年1月フェルメール・センター銀座を皮切りに全国で開催された「フェルメール光の王国展」のリ・クリエイト作品37点を収めた展覧会図録や、フェルメール関連書籍のカラー図版など、様々なに印刷されたフェルメール作品をみていた。それで思ったことがひとつ、展覧会の図録も書籍のカラー図版も絵葉書も、みんなみんなオリジナルの「翻訳」みたいなものなんだな、と。同じ絵でも図版によって全然違っていて、それはオリジナルを撮影した時やその画像を調整した時に光のコントラストをどうするか、という思考の結果の反映であり、印刷した紙の質の違いであったりするのだろう。こういう差が出るのは当たり前のことなんだけれど、一見当たり前に思えるこんなことでも自分の目で体感するとずいぶん感動する。ここまで違えば「じゃあオリジナルでも観に行くか!」と世界を旅する人がいてもおかしくないと思う(自分はお金が無いので無理なんですが汗)。

 

福岡伸一氏監修の「リ・クリエイト(Re-Create)」は複製なんだけど、ただたんにそっくりに作り直すということではなくて「再創造」と定義される。あるいは「翻訳」とも。福永伸一氏は、こんなふうに書いている。

 

「Re-Create」とは、複製でもなく、模倣でもない。あるいは洗浄や修復でもない。

「Re-Create」とは、文字通り、再・創造である。作家の世界観・生命観を最新のデジタル画像技術によって翻訳した新たな創作物である。

(「光の王国展」展覧会図録より)

 

訳350年前にフェルメールが描いたであろう色とコントラスト、細部の表現、光の意図を解釈しなおす。美術出版の奥深さを覗き見た気がした。

 

ちなみに私が特に好きなフェルメール作品は「兵士と笑う女」(1658年)、「デルフト眺望」(1660-61年)、「天秤を持つ女」(1662-64年)である。

専門家ではないので、なんとなく思っているだけだけど、「赤い帽子の女」と「フルートを持つ女」は後世の模作ではないだろうか。確かに女の肖像の唇の白い光、ライオンの装飾のある椅子の背もたれ、布地に落ちる白い光の点という表現などは他のフェルメール作品にもみられるが、この有名な「フェルメール風」というやつをだれかが真似しようとして描き込んだ可能性を感じてしまう。フェルメールは空間と人物や物との関係(合理的な空間、合理的な光の表現)を追究した画家であるが、そう考えた時「赤い帽子の女」と「フルートを持つ女」の背景が異様なことにはすぐ目がいってしまう。描かれた人物が空間に対してどのように存在しているのか、よくわからない。机に手を置いているのか、けれどもなぜ、机の前に椅子の背もたれがあるのか?? トロ―二―であるなら背景を黒く塗りつぶすのではないか? など考えてしまう(そしてあれこれ考えている時間がけっこう楽しい)。

 

「デルフト眺望」に関して言えば、プルーストの『失われた時を求めて』に大きく二度登場している。一度目は『失われた時を求めて7 ゲルマントのほうⅢ』(岩波文庫、2014年)に出てくる「私」とゲルマント氏の会話である。ゲルマント氏は気位が高いわりに教養がないので「私」に「デルフト眺望」をご覧になりましたかと問われた際、展示されて話題になっている作品を憶えていないときに決まってそうするようにさも得意げに「見るべきものなら見ております!」と答えたという滑稽な挿話として。二度目は(こっちのほうが有名)『失われた時を求めて10 囚われの女Ⅰ』(岩波文庫、2016年)作家ベルゴットが死の直前に「デルフト眺望」の小さな黄色い壁面をみて、こんなふうに書けば良かったと思ったという挿話。

ちなみに、岩波文庫版完訳時に最終巻帯を送るともらえた美装箱にも「デルフト眺望」が採用されている(現在は14巻美装箱付きセットでまとめ買いすると手に入れることができる)。主要登場人物であるシャルル・スワンも確かフェルメールの研究をしようとしていたはずだし、プルースト自身が1902年10月18日にデン・ハーグで「デルフト眺望」を鑑賞、後に「世界で最もすばらしい画を見た」と書簡に書いているほどだ(よっぽど好きだったのだろうなぁ)。

「デルフト眺望」の中景の街並みはかなり計算されて描き込まれている。画面の左右の端から端まで広がる街を画面上下と平行の線で結ぶことができる。このすっきりとして明快な構図が朝7時10分の光をよりすがすがしくみせているように思う。実際の風景はたぶんこんなふうにはみえないはずで、それは絵画が単に現実を写し取っているものではないことを思わせる(小説もそうなんだけどね。絵画も小説も、とにかくなんらかの「表現」は単なる現実の後追いではない)。

 

……など、くどくど書いている10月。コロナ禍の中で失いたくないものがあるとすれば、たぶんこういう沈黙、黙って芸術作品をみている沈黙なのだと思う。

なお、フェルメールほど人気のある画家の場合、関連書籍も山のようにあるが、私が特におすすめしたいのはこちら。

 

小林賴子『フェルメール 作品と生涯』(角川ソフィア文庫、平成30年)

 

フェルメール 作品と生涯 (角川ソフィア文庫)

フェルメール 作品と生涯 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:小林 頼子
  • 発売日: 2018/10/24
  • メディア: 文庫
 

 

 この本はフェルメールという画家を様式面から把握することを狙いとしている。「様式とは、線・色・形態・構図・筆遣いなどの描画上の特徴を指す言葉で、絵画を他の芸術や歴史史料から分かち、一つの時代、一つの国、一人の画家の特性を端的に示すとともに、その時代、国、画家を他の時代、国、画家から差異化するものだ。」(前掲書、3頁より引用)

フェルメール作品ってどんなもの? という疑問に対してその絵画の意味内容よりも様式面から的確に解説した一冊、こういう本ってなかなか見つけるのが大変なのだ。文庫であることも手を出しやすくて大変ありがたいと思った。

空、だからこそー八木詠美「空芯手帳」

空の描写がところどころに印象的で、それは時間や季節のうつろいを描き、その空を読みながら私は一人の読者として「空人くん」を育んでしまったような(育む、は言い過ぎかもしれない、せいぜい成長を見守る?)不思議な読書体験をした。バレたらどうするのさ?!と、語り手に語りかけたくなったり、とにかく何故か説得力はある語り手の行動にハラハラしながら読み終えた。

紙管製造会社(ラップやトイレットペーパーの芯やもっと大型の工業用の芯などを作っている)に勤務する語り手「私」の妊娠の記録。人事課に出産予定日を聞かれたので適当に来年5月中旬と答えた、その予定日から逆算してはじき出された「妊娠5週目」から、八木詠美「空芯手帳」は始まる。

 


八木詠美「空芯手帳」(第36回太宰治賞受賞作) 筑摩書房太宰治賞2020』収録)

 

太宰治賞2020 (単行本)

太宰治賞2020 (単行本)

  • 発売日: 2020/06/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 


妊娠を機に定時退社ができるようになったことで余裕の生まれた生活、たとえば夕方のスーパーや入浴剤、アマゾンプライム。妊婦として出産準備もばっちり?な情報収集活動、スマホの「母子手帳アプリ」、それからメルカリで「お腹に赤ちゃんがいます」キーホルダーを二つ買ってメインで使っているトートと、荷物が多い日用のリュックの両方にぶらさげてみる。「結婚してなくても、出産祝い金ってもらえますかね」(54頁)、社割でマタニティ・エアロビにも通うし、産休ももちろんとる。当たり前。だけれど読者は早くから知っている、あなたのお腹に何も入っていないよね? 作品ではその状態を「空芯」に喩えている(語り手の会社がそれを作ってもいる)。鉄棒に原紙を巻きつけて、最後にその棒を抜けば空芯ができる。空(くう)でも、いや空だからこそ、そこに物語を詰めればいいという「私」の言葉に力強さを感じる。と、同時に読者である私が超小粒な小説書きだから思ってしまったことがあって、それは「書く」ということで「他人」を作り出してしまうことの罪悪感というか、本当にこんなふうに書いて存在させてしまって良いのだろうか?という不安、作中では「代償」と書かれているが、語り手は妊娠36週目に猛烈な痛みを味わうのだ。

 


「だから私は嘘を持つことにしたの」

「ねえ、細野さん、自分だけの場所を嘘でもいいから持っておくの。人が一人入れるくらいの、ちょっとした大きさの嘘でいいから。でもね、その嘘も呪文のように唱えて育てていくうちに、案外別のどこかに連れ出してくれるかもしれないよ。その間に、自分も世界も少しくらい変わっているかもしれないし」

(『太宰治賞2020』「空芯手帳」103頁より引用)

 


面白いことに語り手の体調は「母子手帳アプリ」に連動するかのように変化する。案外「ちゃんと妊婦」なのだ。だからこそ読みながら「バレたらどうすんのさ?!」と語り手に語りかけたくもなる。

架空の存在と架空の場を言葉によって作り出して、その言葉を読者に差し出すという営みを私はこの作品に感じた。

 

「そうね、私も産みたいと思う。できれば二人目は、37歳くらいまでに。」(前掲書109頁)


2作目、楽しみですね。あ、それから私、トイレットペーパーの芯、好きですよ。

これが私の「本屋」活動――内沼晋太郎『これからの本屋読本』

いろいろな本の買い方があると思う。

その中で、私が最も贅沢だと思う本の買い方はなんとなく書店へ行って、なんとなく手に取った本になんだか魅かれて、そのままレジへ持っていくという買い方だ。時々、こういう本の買い方をしたくなってしまう。衝動買いですか、と言われればそれまでだが、これが私にとっての究極の贅沢である。なにせ今回ご紹介する本に対する私の第一印象は「形が面白い!」だった。内容への興味より前に、物体として興味を持ってしまって手に取って良く見てみると……。自分が大好きだった作家の連載を書籍化してくれた人の本だった(そしてその本とブックデザインの方が同じひとだった!)

 

内沼晋太郎『これからの本屋読本』(NHK出版、2018年)だ。

 

これからの本屋読本

これからの本屋読本

  • 作者:内沼 晋太郎
  • 発売日: 2018/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 (※アマゾンのリンクを貼ることに若干の抵抗があるのだけれど、はてなブログの仕様というかこのブログの在り様というか……すいませんご容赦ください。)

 

 著者はブック・コーディネーター/クリエイティブ・ディレクターとして本にまつわるあらゆるプロジェクトの企画やディレクションを行っている。先に書いた通り、私の大好きだった作家の連載を『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記』(滝口悠生 著)という一冊の本にしてくれたNUMABOOKSの代表でもある。こういう縁はなんだかうれしい。本屋という場所を愛して良かったとさえ思う。

 

『これからの本屋読本』では「本」や「本屋」にまつわる事柄、本の仕事をしながら著者が十五年にわたって調べ、考えてきたことが1冊にまとめられている。なぜ、本やという空間はたのしいのか? そもそもそこに並べられている本とはなにか? 本屋をつくるとはどういうことか? これからの本屋にはどんな可能性があるのか? さらに別冊として「本の仕入れ方大全」という本の流通に関してかなり具体的に書かれたページがある。私は実際に本屋を開業してみたいと思うことはないけれど(本の著者になりたいんだけどね笑)、自分の好きな物の流通の仕組みくらいは知っておいてもいいのかもしれないと思った。それを知っておくことでもしかしたら好きな場(本屋)を間接的であれ、支えられるかもしれないのだ。

 

本屋という空間がおもしろい場になっているのは、利用者が本と言うものの構造を理解しているという前提がある、という部分になるほど、と思った。一冊の本には様々な時間が流れている。それは著者が本を書くために費やした時間でもあり、その本の対象となった世界に流れる時間でもあり、その世界がつくられるのに経過したたくさんの時間(過去)の蓄積でもある。たくさんの労力や資金や知識を投入して一冊の本が生まれることの尊さを愛書家は知っている。そういう様々な「時間」が本屋(あるいは図書館)にはつまっている。おもしろいに決まっている。

その空間にはさらに「流れ」がある。

著者は福岡伸一生物と無生物のあいだ』(講談社、2007年)に書かれている「生命とは動的平衡にある流れである。」というのを引いてきて、その考えを本屋という場のあり様に敷衍する。つまり、個々の生命体を構成するたんぱく質が作られては壊されるように、本屋を構成する本は入荷されては売れていく(場から無くなっていく)、本は日々入れ替わって行く。それでも一個の生命体が同じ個体でありつづけるように、その本屋もまた「らしさ」を持った同じ本屋でありつづける。

「生命は、その内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で動的な平衡状態を保ちえているのである。」(福岡伸一生物と無生物のあいだ』)

 

だから本屋に、まったく同じである瞬間はない。けれど一方で、その本屋らしさは、まったく変わらないこともある。少なくとも急に大きく変わることはあまりない。それはすべて、舵を取る人が支えているのだ。

(内沼晋太郎『これからの本屋読本』より48頁)

 

本屋の相補性を支えるのが人間の仕事であり、その内容にとどまらずあらゆる意味を含み得る「本」、一筋縄で定義することのできない「本」というものを一冊一冊、自分が目指す「本屋」の文脈に置いていく、そこに個性が出るというのは本屋の醍醐味だろうと思う。

 

話が逸れてしまうが、私も参加させていただいている『吟醸掌篇』(けいこう舎)という小さな文芸誌がある。著者でもあり編集・発行人でもある栗林佐知さんの素晴らしい仕事だ。なんとこの文芸誌を実際に取り扱って下さっている本屋がいくつかあって(しかも賛同してくださる本屋がぞくぞく増えていったという感動があった)、そのどれもが面白そうなのである。

〈吟醸掌篇を置いてくださっているすてきな書店さま〉についてはこちらのリンク先でご確認ください。本当にありがとうございます。わたくしクズもどこかでデビューしたら全店回りたい!!

 

本屋とカフェ、本屋とイベント、本屋とギャラリー(『これからの本屋読本』ではこれらを「本屋と掛け算する」と呼ぶ)たただ本を並べるだけでなく店主が目指す「らしさ」の滲む場所、そういう本屋はたぶんこれからも愛され続けるのだと思う。

ちなみに本書によると店舗を構えなくても「本屋活動」はできてしまうわけで、私みたいなやつが勝手に書いているこういうブログも広義の「本屋」であると言えるらしい。そこに人が、他の人に、大切な本を手渡していきたいという願いがあるかぎり。

 

追記:新型コロナウィルス(緊急事態宣言)の影響を受けて臨時で店を閉める決断をした本屋さん、新たにオンラインサービスを提供することに決めた本屋さん、様々な制約のなかでなんとか営業を続けている本屋さん……。図書館も閉館を余儀なくされているし、アマゾンの在庫も微妙な感じだし……、それでも私たちに「本」を届ける術を、可能性を模索するすべての関係者に敬意を。

 

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沈黙

新型コロナウィルスに隠喩を与えるならば「沈黙」こそがふさわしい。

 

と、そんなことを考えていた二月の終わりころから三月の中ごろ。

はじめは隣の国の一都市で起きていた出来事、まさに対岸の火事。それが気づけば自分のすぐそばまで迫っていて、いや、そもそも迫ってくる感覚すらなくて、精神的に堪えていることを実感した時にはすでにコロナ渦中にいた。わたくしごとをあれやこれやと書いても仕方がない、とそんなふうにも思うけれど、私は道内の指定感染症病院に勤務しているのだ。勤め始めて七年半ほどになる。毎日毎日、道内で発生した陽性患者の人数や動向を注視して暮らしていた。防護服の着方や、保健所を介した検査体制、診療・入院手順などを記したマニュアルが出た時にはぞっとした。私はすでにコロナの中にいたのだ。

 

まだその中にいない時、感染症を取り扱った文学作品で思いつくものについてあれこれ考えていた。思いついたのは、ル・クレジオ『隔離の島』、スーザン・ソンタグ『隠喩としての病』(これは感染症というよりは文学作品や思想において「病」にどのような隠喩が付され書かれてきたという分析が論じられている)、ダニエル・デフォー『ペスト(ペストの記録)』、アルベール・カミュ『ペスト』。

 

それで、マスクや消毒液の残量が不安になってくる毎日を鬱々と暮らしながら(「コロナ鬱」という言葉が出てきた時にどうやら自分だけが鬱々としていたわけではないらしいとわかってほっとした)、せっかくだから未読だったデフォーの『ペスト』とカミュの『ペスト』をこの機会に読もうと思って手に取ったのだ。妙な本の読み方をしてしまったと思う。得体のしれない(だからこそ怖い)感染症の渦中にあって感染症文学を読む。たぶん私の読み方は冷静さを欠いていて、あまり良い読み方ではなかった。不思議なことに本文中に書いてある事柄をいちいち、自分の回りの日常と引きあわせて類似性を見出そうとするのだ。

たとえば、デフォーの『ペスト』はこんなふうに書きだされる。

 

それはたしか一六六四年の九月初旬のことであったと思う。たまたま隣近所の人たちと世間話をしている際に、私はふと、疫病(ペスト)がまたオランダにはやりだしたそうだ、という噂をちらっと耳にしたのだった。」

ダニエル・デフォー著、平井正穂訳『世界文学大系32 デフォー スウィフト』、デフォー「ペスト」冒頭より引用)

 

はじめの頃は「噂」、あるいはニュースの一コマでしかなかった。さりげなく触れられるにすぎない出来事だった。「さりげない」と言えば、カミュの『ペスト』において、ペスト禍のはじまりを告げる一文も挙げられる。

 

四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診察室から出かけようとして、階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまずいた。

アルベール・カミュ著、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、昭和44年)9-10頁より引用)

 

これから起こる災禍の前触れを「つまずく」と表現するさりげなさに震えるものがある。

 

この二つの作品の概略をメモ程度に書いておくと、まずデフォー『ペスト』は1665年のロンドンを襲ったペストの流行をH.Fと名乗る語り手「私」の冷静な観察眼と記録、その考察から成る「小説」である(作者デフォーは1665年時点で五歳ほどだったとのこと)。死亡者数など具体的な数字がしばしば書かれており、本物の歴史記録ではないかと思えるほどの語り。ペストが徐々に広まっていく様子とそれに対する行政の対応、人々のふるまいなど、個人のドラマというよりはペスト禍を俯瞰したような形で描いた作品だと思った。公共の福祉(公衆衛生)と個人の自由・権利のバランスはどうあるべきか、考えさせられるものがあった。

それに対してカミュの『ペスト』はもう少し個人に寄った作品だ。1940年代のアルジェリアの港町オランを舞台にペストに翻弄される人々を描いている(史実としてこの年代にオランでペストがあったという事実はない)。魅力的な登場人物たちはそれぞれに違った考えと目的を持っている。たとえば、オランが閉鎖されてしまった時にうっかりそこにいた新聞記者のランベールはパリにいる恋人に会いたい一心で脱出を試みるし(「僕が心をひかれるのは自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」(前掲書197頁)、町がペスト禍のために封鎖されたおかげでコタールは自由を謳歌するようになった(実は平時であれば逮捕される運命にあった)。罪なき子供が苦しみ抜いて死ぬ不条理な世界であっても神への信仰を捨てないならばその世界すら愛さなければならないとするパヌルー神父(「しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」前掲書259頁)、「理念」というものが人間を殺し得ること、そのことを間接的に同意しなければ社会を成立させることができないこと、「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ」(前掲書302頁)と主張するタルー(この人物の手帳の記述があちこちに引かれるのだが、人々の暮らしの細部をみつめる視点が良かった。「ペストは流行時においては、猫に唾を吐きかけることを禁ず」(134頁)だとか)。「際限なく続く敗北」(152頁)の中にあってもあくまで自分の職務をよく果たすこと、ペストと戦う唯一の方法は誠実さであること、人類の救済なんて大袈裟なことを考えずにあくまで目の前にいる人の健康、ということが第一の関心であると語る医師リウー。

みんなが違う方向をみながらも同じペスト禍の中にいるということにまだ人間の自由があるのではないか?と思えば救われるような気がする。

 

と、なんだか長くなってしまった。

いやいや久しぶりに喋った(というか書いた、なんだろうけれど日常でもほとんど話すことはなかったのでついそう言いたくもなる)。

このブログ記事の一番はじめに書いた「新型コロナウィルスに隠喩を与えるならば『沈黙』こそがふさわしい。」というのが、コロナ禍にいた私の日常を表す正直な感想である。それは職業に由来するところも大きい。なにせ報道されるよりも(医療関係の外側で暮らしているひとよりも)自然に詳細な情報を持ってしまうのだ。はじめWHOは「パンデミック」よりも「インフォデミック(infordemic)」と言った。うかつな発言がデマを呼び混乱を巻き起こすかもしれない、まずはその懸念から沈黙した(SNSのアカウントを非公開にした、結局ほとんど更新しないアカウントだけれど)。

次に北海道で陽性患者が増加し始めた頃にネット上でうっかりみかけてしまった「北海道の人には来ないでほしい」という発言が私をさらなる沈黙に追いこんでいった(現在他県あちこちで患者の数が増えているけれど、言い返しても不毛なのでやっぱり私は何も言わない)。

私自身が医療関係者であり、人より感染リスクが高いことを知っているからこそ、たぶん他の人より決意するのが早かった、「当分の間、仕事以外では人に会わないようにしよう」。それに陽性とされた場合「社会的に死ぬ」という雰囲気が醸成されたことも沈黙を余儀なくされた理由のひとつかもしれない(これは私に限らないことだと思う。恐ろしいことに)。ひたすらに沈黙に追い込まれていく印象と、深い孤独の中に落ちていた。新型コロナは人を分断するなと思った(イベントの中止という物理的なものから、偏見という精神的なものまで)。終わりがみえないからこそ、余計に暗澹とした。

一応、曲りなりに表現者として生きようと思っているわけだから、本当なら沈黙すべきではなかったのかもしれない。だけれど、「沈黙」を強いられる重苦しい現在に対して、私は勝つことができなかった。精神的に負けた。

 

「みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてものを踏みつぶしていく、果てしない足踏みのようなものとして描かれているのである。」(214頁)

 

「九月と十月の二月間、ペストは町をその足もとにひれ伏させていた。なにしろその正体は足踏みであったから、数十万の人間が、いつ果てるとも見えぬ週また週の間を、なおも足踏みしつづけていた。」(222頁)

アルベール・カミュ著、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、昭和44年)

 

 

少しずつエビデンスが集積されることによって、新型の特性みたいなものや、あるいは対処の方法が少しずつみえてくるのかもしれない。多くの人が免疫を持つようになれば感染性の流行病もおさまっていくだろう。そのことに期待しつつの「足踏み」をいつまですればいいのか、いつまで踏まれればいいのか。「沈黙」に勝つためにはなにをどう考えていけばいいのか……。

 

あ、ボッカッチョの『デカメロン』読まなくちゃ!!(笑)

 

今回読んだもの、デフォーのほうは新訳が出ているようなのでそちらを貼っておきます(私が手に取ったのはデカい文学全集に収められたものだったから読むのが大変でした笑)↓ 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

 

 

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こーりゃ、どうしてってぐらい生い茂っとるたい―古川真人『背高泡立草』

あのひとたちがあんまりよく喋るもんだから……と、草茫々の納屋の前に立って溜息のひとつでもついてみることを想像する。それで、この溜息の意味はなんだろう?うんざりなのか、次々と移り変わる話題の広さや語られる過去の深さへの期待なのか、それとも埋もれたものをみつけた安堵なのか、はたまた幸福なのか、自分でもわからないままに読んでしまった本の話。

言葉が繁茂するよろこびと、それによって埋もれ忘却されてしまう記憶と、その忘却にあらがうかのようなひとびとの営みを「草刈り」の一日に込めた素晴らしい作品。

今回は第162回芥川賞受賞作である『背高泡立草』の感想を書いていこうと思う。

 

【第162回 芥川賞受賞作】背高泡立草【第162回 芥川賞受賞作】背高泡立草

 

 古川真人『背高泡立草』(集英社、2020年)

「草は刈らねばならない。そこに埋もれているのは、納屋だけではないから。」

(帯文より引用)

 

 

作中を流れる時間はたったの一日。

その時間の移り変わりの合間に吉川家の〈古か家〉にまつわる過去の出来事が語られていく。戦中に島を出て満洲へ渡った者の話、戦後に釜山に行こうとしていた船が転覆して島に流れついた者の話、捕鯨の際の鯨にとどめを刺す役である刃刺の青年が松前に行って再び帰ってくる話、カヌーに乗って島に漂着した少年の話。いずれも吉川の〈古か家〉とともにあった時間によってのみ繋がるエピソードだ。出て行くものと入ってくるものの話が語られるのは「島」という場の地理的特性を表しているように思えた。さらに「セイタカアワダチソウ」という植物をネットで検索してみたら、どうやら、明治時代末期に日本国内へ持ち込まれた帰化植物外来種)らしく、お前も入って来たものかと笑った。

 

けれどそれよりなによりも、「言葉が生えてる!!」と感じた時、私はこの本に埋もれた深い感動を掘り出したのかもしれない、と思った。

 

それは、「島」で草刈りをする一日。

草の茫々に生えた場所に埋もれるようにして立つ吉川家の納屋はもう使われなくなって二十年以上は経つようだが、それでも当たり前のように草を刈ろうということになって美穂、加代子姉妹とその兄哲雄、姉妹のそれぞれの娘である奈美と知香が島にやってくる。だけれど奈美にはどうしてもわかならい、何故、誰も使う者のない納屋の回りの草を刈らねばならないのか……。

葛、魚腥草、芝、虎杖、背高泡立草、蝦蔓、野薔薇、紫陽花、秋茱萸、方喰、大葉子、菜切菅、引蓬、浜菅、蟹釣草、薄、蠅毒草、常盤爆、癇取草、藪虱、刺草、蚊帳吊草……。

おお、生えてる生えてる草茫々だ、と最後のほうを読んで思う。まるで言葉によって草が生えて来るかのように次から次へと、ルビがなければ読めそうにない植物の名前が出てくる出てくる。

というのも、ここに登場する人物たちが喋る様子がまさに草茫々を彷彿とさせるのだ。

 

 

そして、食卓の側のテレビの音(それは耳が少し遠くなっていた敬子に合わせた大きな音量をスピーカーから出していた)、椅子を引く音、食材が焼ける音や蛇口から水が出る音、箸はあるか、余った取り皿はないか、お茶葉冷たいのが良いか、醤油はどこか、とそれぞれおが勝手に口から出す言葉や、スモークサーモンをサラダに入れるのを忘れたようだ、冷凍庫に入っていたこれはいつの魚だろう、いまお客さんの声がしたのではないか、いや、どうやらテレビの声だ、といった誰に問いかけるでもない独り言めいた言葉が合間に挿し挟まれる通常の会話が主に美穂と加代子によってなされ、騒がしさも彼らが食べているあいだ中、食卓の周りを巡り続けるのだった。

(前掲書、36頁引用)

 

よく喋るひとびとの、この食卓の描写を私は「草茫々みたい」と形容したい。「二人(加代子、美穂)は口から出る言葉を辺り一面にどこまでも、ほしいまま繁茂させなければ気が済まなかった。」(前掲書、13頁より引用)だとか、「年老いた敬子は、孫たちの話している内容というより、口の良く動くことに見惚れるように黙っていた。」(前掲書、67頁より引用)だとか。

 

こんなに喋って言葉を茫々にしてしまうから埋もれて(忘れて)しまうものもきっとある。日常の当たり前のようにしている会話が積み重なっていく時間の底にやがて埋もれてしまう記憶もあるのだ。たとえば挿話として挟まれる土地にまつわる過去の物語……。

 

声と草を重ねた読み方をして面白がり、あんまり喧(かまびす)しく生えすぎて記憶が埋もれてしまうということに気がつき、いつかはだれも草なんか刈らなくなって埋もれてしまった納屋が忘れられぽつねんとあるようになるんだろうかとさみしくなり、だが「生えたら、また刈りに来るとよ」(72頁)という加代子の言葉と、たぶん賑やかなひとびとだから言葉と同じく草もあっという間に繁茂するだろうけれど「これから草刈りに向かう夢を見てたから、びっくりした」という知香の台詞のあるラストに、そうかまだ生えるし刈るし、そういう一族の営みは続くのだな、埋もれないし忘れないのだな? という思いがして救われたような気持ちにもなった。

かけがえのないものは案外、どうしてやらなければならないのかわからないような年中行事(?)みたいにしてあるのかもしれない。

 

※デビュー作『縫わんばならん』から応援してきました。

芥川賞受賞、おめでとうございます。今後のご活躍、たのしみにしております。

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〈時〉を取り戻す力―栗林佐知『仙童たち 天狗さらいとその予後について』

「天狗とは、いったい何なのか」

このたったひとつの問いに真摯に向かいつづけた薄木市立郷土資料館学芸員(一年契約)のクジラガワ・カンナさん。この人の研究をなんてすばらしいんだと思った。研究題目は「多摩西南地域の天狗道祖神――庶民信仰をめぐる一考察」で、この研究で栄えある東日本人文科学学術研究振興会の地域史研究奨励賞を受賞した(なおこの賞は今回で最後とのこと)。対象地域における石造物の丁寧な踏査と宗教的背景の理解、国学者平田篤胤の仕事を参照しつつ新史料『除弾坊由来記 明治三十七庚辰』を読み解けば……

あら不思議、小説的想像力からもしかして天狗って今でもいるんじゃ……? なんて思わせてくれる。新聞記事やユーチューブも駆使してあれやこれやと結びついて行く物語の展開は読者を本当にわくわくさせてくれる。

これは、そういう〈小説〉でした。

 

栗林佐知『仙童たち 天狗さらいとその予後について』(未知谷、2020年)

 

仙童たち 天狗さらいとその予後について

仙童たち 天狗さらいとその予後について

  • 作者:栗林 佐知
  • 出版社/メーカー: 未知谷
  • 発売日: 2020/01/18
  • メディア: 単行本
 

 

 思うに、人文科学という分野は失われた、あるいは失われつつある時間を取り戻したり繋ぎ合わせたりするための学問なんじゃないかな? そしてその時間の中にはきっとたくさんの「声」がある。

 

この本は2007~2009年に光文社のPR誌『本が好き!』に掲載された四つの連作短篇と、その合間に差しはさまれる5つの断章「証拠物件 遺留品(ICレコーダー)に残された音声」から成っている。5つの断章の部分は学芸員クジラガワさんの研究発表をベースに「天狗とは何か」を読者の前に開示していく。そして四つの連作短篇の主人公はそれぞれ四人の子どもたち。彼らは1984年(作品の「今」から35年前)に学校の遠足で大山へ登り遭難した神奈川県ツルマ市立タンポポ台中学の生徒だ。どうもこの子供たち、天狗と関係があるらしい。天狗遭遇潭を見渡してみると「天狗にさらわれる」のは「だいたい愚鈍な人、ちょっと変わった子、ずれていてみんなについていけない子」(46頁)とのことだそうで……。

ひとつ目の短篇「南ツルマ運動公園の決闘」は通信教育で天狗さまの修行をしている仏沢せいじが、ふたつ目の短篇「夏の光線」は口汚く罵る母上の言葉でできた世界を生きる鯨川かんなが、みっつ目の短篇「父さんゆずり」はただのお調子者にみえて実はキリストやお釈迦様に近い志を持つ「人間関係の冒険者」井戸口俊樹が、そして最後の短篇は「優等生」であるからこそそれ故に傷ついてしまう堀江桂が主人公の物語。

 

著者はあとがきで「衣食住の苦労こそない子どもたちの苦痛」が自身の軸であったと書いている。まさに様々な方向から色々な子どもたちを描いているのがこの作品で、時々、自分のことが書かれているんじゃないか? と思って勝手にドキドキして勝手に気まずくなったりもする。とても面白い本だったけれど、私は全然一気になんて読めなかった。単に「生きにくさ」を書いた作品であればこれほど心に詰まることもなくて、単に「民間伝承」(天狗潭)を書いた作品であれば読むこともなかったかもしれない。「天狗」という存在の起源を辿るうち、それは案外だれかの生きにくさに(例えば仕事の続かない寅吉なんかに)繋がってしまって、そしてそのだれかはまた別のだれかの生きにくさをみつけては繋がっていって、そんなふうに語り継がれる存在がいたのかもしれない、と思えば「天狗」も架空の存在ではなくなっていく。まぁ、あまり得意になっていることを「天狗になる」なんて言うから良いことばかりではないけれど。

開発によって失われた景観、貴重な資史料、蔑ろにされる学問の存在、あちこちで聞こえてくるヘイト、共謀罪……。

悲しいことや嫌なこと、反対したいこと、たくさんあるけれど、

 

つらいわよね、人文研究者はさ。「生産性がない」とか言われちゃって、どこでも予算けずられて、ポストはないし、みんな不安定な立場だし。でもガンバロウよ、わたくしたちが滅びたら、ほんとに世の中とり返しがつかなくなるよ。

(前掲書、202頁より引用、残された音声より)

 

という言葉が一番心に沁みました。

遺された痕跡を丁寧にそして真摯に辿ることなくしてはみえないものだってある、わからないことだってある。長い時間をかけて、そこに至るまでに連なるさらに長い時間を忘却から掬いあげて繋げていく力。それが人文科学という学問ではないだろうか、と私は思う。曖昧な言い方になってしまうのは結局のところ人文は人文だからで、それはどういうことかというと、

〈人間はこういうものだ、とは言えない。そして天狗とはこうだ、とも言えない〉と結論付けるしかないのと同じなのかもしれない。

 

 

ちなみに私には生きにくさはあるけれど天狗の素質は無さそうである。

「わたくしは人としてやっていきとうございます。」

いや、どうだろ。人のふりしてぼちぼちやっていくかね。

重要な曖昧さ――滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』

あとがきまで読み終えたあとで本の表紙に戻り、そこに描かれた人物の膝の上で握りしめられた手をみる。みてしまう、どうしても気になってしまう。その意味が、この本を実際に手にとって最後まで読んだひとにはきっとわかると思う。

今回は、滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』(NUMABOOKS、2019年)についての感想を書く。

 

numabooks.com

 

 

不思議な本だと思った。書かれている出来事から、私がそれを読むまでに生じた遅れがある。その遅れにちょっと感動する。文芸誌で連載されていた時のものを読んで、いやその前に滝口さんが実際にアイオワに行った瞬間があって、「わからない」に抛り込まれた日々があって、それを日記として書いた時間があって(なお日記の前半はアイオワで書かれていたらしく、9月30日の日記の結びが「部屋に戻り、日記。ようやく今日まで追いつく。」この感じが不思議でならない)、連載の載った文芸誌が発売された日があって、そこからだいぶ遅れて手に取った私が読んだ数日があって、それで今単行本化された『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を読んでいる。いや、待てよ。単行本化にあたり大幅に加筆修正した日々もあるんじゃないか……など、その他諸々の日常の暮らしのことも考えたら文字にするのも面倒なくらいの時間の流れを感じてしまう、そんな読書体験をしているのではないか? と読みながら何度も考えてしまった(日記の中に確かに時の流れを感じさせる日本の出来事が書かれていたり。たとえば心斎橋アセンス閉店の報やさくらももこさんの訃報、北海道の地震のニュースなど)。なんか、感慨深いよこの本。そして本のいいところは、いくら遅れても後ろめたい気持ちにならないことかもしれない、などと思う。

 

この本は、作者である滝口悠生さんが参加したアイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)の模様が書かれた日記をまとめたもの。期間は2018年8月19日から10月31日まで。ちなみに過去には柴崎友香さんや藤野可織さんもIWPに参加しているそう(もしかして私がちょっと気になっている韓国のハン・ガンさんも過去のどこかで参加してないだろうか? なにかで読んだような……)。

『新潮』2018年11月号から2019年2月号まで全4回連載された「アイオワ日記」「続アイオワ日記」「続続アイオワ日記」「続続続アイオワ日記」(この〈続〉がどこまで続くのかひそかに楽しみにしていた)を加筆修正したものに、『ちゃぶ台』vol.4に掲載された「チャンドラモハン」、『すばる』2019年1月号に掲載された「アイオワの古本屋」を追加して一冊の本にしたものだ。

27ヶ国28人が参加したライティング・プログラム。文芸誌連載時に読んでいた部分は今回再読のようなことになったので、重要な曖昧さ(confusion)が多少失われるのも覚悟で、ノートに登場するライターたちの名前と出身国名を書き出してみた。それでいくらか明晰になったかといえばそうでもなく、あれ? なんか30人以上いるんだけど? となってよく見返したらヤミラとチャイの名前が二回書いてあったり、プログラムの関係者をライターと取り違えて書いてしまったりしていた。間違えて書いてしまった名前に線を引いて数えたら今度は少なくて、やっぱりよくわからないことになったなぁと思っていたら、あとで「ユウショウ(日本)」を書き忘れていることに気がついた。

 

約10週間の滞在はとにかく「わからない」の渦中に抛り込まれたような日々で、その「わからない」に翻弄されつつも時々わかったような気がして、けれどもやっぱりよくわからない。そしてやがて「わからない」ことに慣れて気にならなくなる(列車のエピソードがとても印象的だった。窓から鉄道のレールが見えるのに、ついに列車を見なかったとか、130頁-131頁)。

英語が不得手らしい著者は正確に相手の話をききとることができないから印象に頼って理解しようとするけれど、それもまた合ってるのかよくわからない。わからないままに日々が成立し、過ぎていく。第二次世界大戦ミュージアムへ行ったエピソードでは、戦勝国アメリカと敗戦国日本では戦争の語り方が違う、ということに気付き、そのクリアさがこの博物館の印象になってしまいそうになるが、ふいに話しかけてきた中年の男性とのやりとりでそうはならずに済んだ、そのことを著者は「重要な曖昧さだった」と結ぶ。印象というのは本来曖昧さを含むもののはずで、それをクリアにしてしまうのはなんか違う、だから「Images of America」というテーマでスピーチしろと言われると腹が立つ。著者にとっても(他のライターたちにとっても)アメリカというかアイオワは具体の集積なのだと思う。それは今まで国名しか知らなかった場所にその時々で関わり合った人々の人柄や来歴が重なり合ってできていったもので、そういう具体の集積から改めてアメリカの「イメージ」なんてクリアな言葉を語ることはできないのではないか? 無理にクリアにしたものは印象(イメージ)ではなくなってしまうような気がする。

読みながらいろいろと心に残るエピソードはあったけれど、中でも特に気に入ったのは、トルコの詩人べジャンが話した牢屋の暗闇と子どもの頃に育った土地の美しい景色の話。そこにイラン映画の色彩を重ね、さらにべジャンの原色のビビットな色の服を重ねてきいていた著者の、べジャンに抱いた印象がとても美しく書かれていた。思わず笑ったのは「芥川賞」について他の国のライターに説明をしたエピソード。その話題の途中でだれかが「ユウショウは日本で有名なのかどうか」と挟んでしまったものだから話が混線してしまい、だから「very famous but not so important」という宙に浮いた言葉が結局なんだったのかよくわからなくなる。そういう笑い。

 

As you know, My English is very poor, During this program, I will get many moment of confusion. It is…まで話してあとが続かなくなったので、以上、みたいな雰囲気を出して終わりにした。

(前掲書、16頁より引用)

 

と、いうのが滝口さんの自己紹介として書かれているが、まさにたくさんの混乱または曖昧な瞬間からできあがった滞在だったなぁ、と一冊の本になった日記を読みながら思った。重要な曖昧さ。「あとがき」にあった「ある一日を、ある出来事を、日記に書いてしまったら、もうそのことは小説のようには書けないような気がする。」(283頁)という言葉が私の中にはいつまでも残りそうだ。

 

あなたが小説で伝えようとしているメッセージはなにか、と訊かれたので、メッセージとかは別になくて、と言うと、メッセージがない? と彼女は文字通り目を丸くして驚いた。読んでるひとが読んでるときにたとえばなにか関係ないことを思い出したり考えついたりするのがおもしろいし、それは結構すごいことなのではないかと思うんですよね、メッセージのやりとりというよりコミュニケーション? あとに残らない読むあいだだけの経験みたいな?

(前掲書、204頁より引用)

 

と、やたら勝手にいろいろなことを思い出したり考えついたりしながら書いた読書感想文を終わりにしたい、以上、みたいな雰囲気を出して(続かなくなったわけではないけど、これ以上書くと収拾がつかなくなる)。

 

やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)

やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)

  • 作者:滝口 悠生
  • 出版社/メーカー: NUMABOOKS
  • 発売日: 2019/12/26
  • メディア: 単行本
 

 

 関連記事(というか、今まで書いた滝口悠生さんの作品感想、ずいぶん書いていたもんだw)↓↓

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