振れ幅―古川真人「おまえにはわからん」
今回私がブログに取り上げるのは、著者が繰り返し書いてきた家族の物語の最新作である。過去の声、それも死んでしまってもういない人の声まで聞こえてくるような作品を書く著者がこれほどまでに明確な「断絶」を表現したのだ、とわかった時に、取り返しのつかない時間の存在とその喪失、また「おまえにはわからん」という言葉の持つ圧倒的な断絶とに悲しみを覚えた。
古川真人「おまえにはわからん」(『すばる』2026年3月号掲載)
物語は、夕食を終えて酒を飲むかこのまま寝るまで時間を無為に過ごすか、ちょうど仕事が手を離れて自分の部屋に敷いた布団に寝転がっていた大村稔と、その兄である浩の生活空間から始まる。浩が誰かと通話しており、聞けば妹の奈美とであって「お父さん、食べ物を喉に詰まらせて病院に運ばれたって」。
父、明義が危篤だという報せに、兄弟は朝六時の新幹線に乗り、急いで博多へ向かった。
誰か身近な人の最期を受け入れる時、何故だか異常なほど冷静な自分を発見することがあるが、その理由が少しだけわかった。たぶんその人が死ぬという事実に向き合うことを無意識に避けているせいで、あれこれ身の回りのことに気がつき、手早く整えて、滞りなく目的地へ向かえる。そのことを後で自分はどうしてあんなに冷静だったのか、と振り返るのだ。稔が父の死という事実を避けている理由を「彼の両手はふさがっていたからだった」と書く語りの冷静さが、かえって急いで父の元へ向かおうとしていた兄弟の心情を浮き上がらせている。そうして稔と浩は、父明義の臨終に家族と共に立ち会うことになる。臨終、この短い時間に立ち会う者が主観的に持ち得る時間の振れ幅の大きさ、そこに小説の空間のかけがえのなさが詰まっている。
「がんばってよ」と「がんばったね」という言葉は二人称の死を前によく発されるものだが、前者は願いであり、後者は受け入れなけれなならない死という現実を理性で納得しようとする言葉である。美穂がこの二つの言葉を繰り返したということ、「こう、理性と願いとで「がんばっ」の後ろが揺れていた」ことが、親しい者の死を前に揺れる心情を巧みに表現し得ている。同じく稔も「もう済んだのだ、もう居ないのだ」と目の前の父の死を理性で納得しようとする一方で、繰り返し帰っていく時間は父が昔のことを話す声を聞いていた時のことだった。死を納得することと拒絶すること、その狭間にある心理が、小説の時間をふくらませている。小説の中に「もう居ない」人の声がはっきりと聞こえている。明義は楽しそうに昔のことを語る。もちろん、稔が思い出しているからこそ作中に聞こえてくる声であるが、読みながら実はかなり不思議な現象なのではないか? と思ったりした。その声を聞きながら(読みながら)確かにこの人物は酒の飲みすぎだったなぁ……などと、これまで読んできたこの家族の物語を思い出しもした(おい、何故無関係の私(読者)まで明義の臨終に巻き込まれているのか……?)。走馬灯というものは死にゆく者が最期にみるものと思うが、生者もまた回想という手段でもってそういう経験をするのだ。
土地の権利書がどこにあるとか、配偶者の今後の生活はどうなるのかといった死後の些末な現実を「どうでもいい」と撥ねのけながら、稔が繰り返し戻って行こうとする話――「そういえばお父さん、おれが子供の頃にさ、よく山ばすこし登っていったとこの川でケガニ獲ってなかった?」に否応なしに食い込んでくる「ああ、血圧が下がってきとるね」という言葉や警告音の鳴る医療用モニター。
……ツガニば獲るやら、あがんとは、おまえにはわからんて。崖ば、おまえ、命綱もなしに降りていってから、それで滝に攀じ登っていくとやけん。そしてから、こうやって、滝壺の、水のどんどん上から落ちてくるところに手ば奥に伸ばしてくさ。隠れて、逃げるとを摑んで。こげな楽しかとは……
(前掲書、120頁引用)
稔の回想は逃げなのかもしれない。そこへ帰っていこうとする稔の様子からはたぶん厳然たる「死」の感触が飲み込み切れないものであることが表現されている。「まだまだ話したかった」という願いがある。願うということは、現実はそうではないことを認めると同時に、そうあってほしいと思う気持ちの振れ幅である。「がんばってよ」と「がんばったね」の間の気持ちの振れ幅の大きさが、私を何度も動揺させた。受け入れなければいけないとわかりつつ、どこかでそれを受け入れ切れていない故の冷静さを思い出した。
回想の中で最後に聞こえる父の言葉は「おまえにはわからん」だった。「おまえにはわからんて……こげな楽しか気持ちは」という言葉が残されて、明義は「遠くに行ってしまおうとしている」ところで作品は閉じられる。この言葉で、生と死とで厳然と別たれた現実が強く示されているのだと感じた。
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《おまけ》
実は随分前にこんな感想(ブログ記事)を書いていたが、ちょうど自分の原稿が忙しくなってしまっていたのと、如何せん手書きなもんでデータ化するのが面倒だなと思い更新できないでいたのだった。合わせてここに載せておこうと思う。
夏の島の海、あのぬるい感触―古川真人「豚の泳ぐ日」「近づくと遠ざかる船」
古川真人「豚の泳ぐ日」(『すばる』2025年9月号掲載)
古川真人「近づくと遠ざかる船」(『文學界』2025年9月号掲載)
小説というものを、言葉で空間を作る技術とするなら、古川真人さんが最近書いておられる作品が私には面白くてしょうがない。語り手の目が見ているものを超えてくる。過ぎ去ってしまった過去の時間が、現在の空間を作っているのだという「時間のつながりの確かさ」を感じる構造は50年前の島はどんなだったろう? という語り手の空想に過ぎないはずの時空にさえ説得力を持たせている。過去の時空にしっかりと舫われている現在には、かつてそこにあった(いた)ものの気配が満ち溢れている。
「豚の泳ぐ日」は、「豚の泳ぐ姿を見た。そう伯父から聞いたことがある」と語られ始め、海に泳ぎだしていった豚の群れはどうなったのか? 五十年以上も昔の島とはどんなふうだったのか? その日はどのような一日だったのか?という好奇心から立ち上がる想像が読者を50年前の長崎の離島にいざなう。50年前の夜から朝方にかけて台風が接近すると予報されていたある1日へ。
著者の作品ですっかりお馴染みになっている一族の物語で、美穂が小学生、加代子が中学生の頃。「吉川の古か家」の二階で目を覚ました隈広昭は16歳で、山口県の徳山から長崎の離島に来て滞在していた。その最後の一日、加代子が自分を見送りに来てくれるのかなと考えたりしている。(吉川の古か家の現役時代、ファンとしてこれはなかなか嬉しい物語だった。)
豚が泳いだのだという日の話を伯父に聞いて今その話をしている、ということだけが作中の現在時として流れている。それだけの話がこんなふうに膨らんでいったのだから、とてつもないことが起きている(そしてその膨らみのことを、私は小説の空間だと思っている)。そこには人々の生きる気配が満ちている。
「シャンシャンパナのほうまでぷらぷら行こうか、じゃあ……」と、漁網などを保管する納屋の並ぶ野原からさらに真っ直ぐ行った先にある小さな磯まで、50年前の加代子と美穂、昭は歩き出す。そうして目に入った知らない人たちに、ジェラルミン、ジェロニモ、テレテレといういかにも子供らしく勝手にあだ名をつけたのだという。そして語り手の想像は、そのあだ名の人物たちがここへ来る前の人生に馳せられ、そうして語り出す。こうやって小説の空間が大きくなる。同じ空気を吸ったり吐いたりするひとつの空間の中で多様な生が混ざり合う。途中「風の子供」なる存在が描かれるが(何せ台風が接近中なのだから、そういう存在も島へ寄って来るのだ)、その存在はどの時代の人であっても人間の心はみんな似たようなものだと思っているらしい。みんな同じ風に吹かれながら、世代を超えて似たり寄ったりのことを考えて生きているような、ちょっとした仕掛けに過去の時間と現在の時間を確かに繋ぐ感触がある。豚が泳ぐという異様な光景への語り手の好奇心と、50年前の出来事としてそれを覚えている伯父のまなざしが重なり合う。同じものを見た、というような錯覚が時間の繋がりの確かさを補強し、また読者にもその風景を見せてくれもする。
「近づくと遠ざかる船」は、お盆に島へ帰ってきた大村美穂の子供たち(浩、稔、奈美)が事務所になわした(仕舞った)という盆提灯を探しに来たことが語られる。この事務所に三人でいて、あれこれ話している、というだけ。ただそれだけのことを「記憶」を巡る三人の立ち位置の違いを織り交ぜつつ編み直したことで、この作品は独特の時空を作り上げるのに成功している。語りがとても不思議で話している三人は言葉を発さずともそれぞれの想念のあいだで相手の思ったことに受け答えができていたという。その理由として「事務所の中はたいへんに暑かった」ので、と説明されているのを読んだ時は笑ってしまったが、そんなあり得そうにない伝達ができてしまうというのは実は大仰なことではないのかもしれない、とも思ってしまった(小説の力すごい)。言葉にしてこなかったことは曖昧な形で頭のなかに収められているのだけど、それを言葉の海に浮かべたら曖昧さが消える。でも一方で稔はそれを味気ないものになるような気もしている。思念で会話するということが科学的にできるとかできないとかじゃなく、兄弟妹の、この暑い日の、あの空間でなら何故かできてしまったのだなぁという根拠のない曖昧さ、文字にはできない、文字にすると嘘くさくもなる語りそのものが、記憶のような、まるでこの島の夏のぬるい海に浮かんでいるような心地のする読書だった。
この二作には小説でしか表現できない時空間がある。小説にしかできない新鮮な時空だった。私はそれを心ゆくまで楽しんだ。
心が見る夢―絲山秋子『細長い場所』
寂寥や懐かしさは確かにある、でもこの作品ではどれもが遠くに感じられる、それは「心」が見る夢だから。不思議な本だった。まるで、そんな夢を疑似体験したような。
本書で描かれているのはきっと 死後の時間と空間なのだろうなと感じた。そんなことひと言も書かれてはいないけれど、でもそう感じてしまった。それから私は著者の別の本である「沖で待つ」の太っちゃんのことを思い出した。彼がいた時間と空間のこと。時間と空間なんて言っていいのかどうかさえわからない場所のこと。
全9章それぞれの章は、どれも切れ切れに見る夢のように互いに連続性は担保されておらず、それでいて同じように死後らしき雰囲気を共有している。描かれているのは奇妙な世界なのに、その背後には確かに人間が抱いたことのある感情があった。寂寥やしみじみとした懐かしさ、でもそれらはみんな遠いようで、だからこそ「死」とも「死後」とも一言も書かれていないのに、そんなふうに読んでしまう。あるいはすべて「夢」なんじゃないか。物語がありきたりの夢オチになっているのではなくて、死後のように見える風景も、それ以前の生前のように見える風景も、等しく「夢」。だけれど、その夢を見ている器官が違うというか、夢を見るメカニズムが違うというか。 生前の風景(人生)は脳が見る夢で、死後の風景は心が見る夢だ。死んだら体は無くなるから当然脳も無くなるわけだ、でもそれでも続く体無き後の風景があるとすれば、そんなものを夢見ることができるのは心しかないんじゃないだろうか。もしかしたら、最後に残るのは心で、それが死後の時空、太っちゃんのいた時空なんじゃないかなぁ。
第1章「翼とゼッケン」では麺街と呼ばれる横丁があって、そこの蕎麦屋とラーメン屋とうどん屋それぞれにゼッケンをつけたひとたちが並ぶ行列ができている。彼らの目当ては食べ物ではなくて「人生が書いてある紙」らしい。それで人生を書き換えたいらしい。夢が書かれた紙もある、それを手に入れれば夢を取り返せるらしい。
数字の書かれたゼッケンをつけたひとびとが行列をつくっている。
「最近なんでも待つみたいで、どこも行列でした」
「そうですね。おかげで世間はどんどん細長くなる」
(前掲書、13頁より引用)
細長い場所って、どこのことだろう?
2章では「残像は細長い場所ばかりを歩いてきた」とあり、3章には「細長い土地ではあったがそこが生まれ故郷の村だった」とあった。5章「細長い場所は、先の見えない場所だ」
もしかしたら、細長い場所は私が「人生」だと思っていた場所のことだろうか?
細長い場所とは無限と有限が等しくなる場所である。永遠と一瞬の意味が同じになる場所である。有と無が限りなく近づき、時間と距離の意味が無効になる。
(前掲書37頁引用)
人生そのものにはきっと意味なんかない。ただ生きている間に脳が意味を与えようとしているにすぎない。人間の脳と心が別物だと5章で語られていて「心は夢をみるけど、脳は過去にしか興味がないんだ」という。後になって振り返った時に報酬がもらえそうなことを脳は計算してそれを優先し、人間の人生はそれに引きずられて過ぎていく。だから過去形でしか報われない。私たちが普段見る夢はメカニズム的に過去の経験の再構成でしかない。脳の命令には逆らえず「その浅ましい脳みそに、生きてる間はずっと支配されている」。意外と「人生」は窮屈なのだ。例えば数字。この世界で私たちはゼッケンをつけてはいないけれど、何となく序列をつけられて並べられる。並んでいれば安心できる。脳がそういうふうに人生を脚色している。でもきれいに並ぶことのできない「素数みたいな」はみだし者もいる。
人々は残像そのもの、気配そのものを見てはいない。残像を通して、少し前の風景を見ている。気配を通して、佇んでいる動物の呼吸や気圧の変化を感じる。そのあとに懐かしさや悲しみ、恐れや不安といった気持ちを持つのだ。
(前掲書、28頁)
「目で見た景色は、少し前の時間なんだよ」
(前掲書、109頁)
自分の人生をありのまま見る者はいなくて、ほんの少しずつずれているから、正確な意味なんて与えることはできない。
本書に出てくる奇妙な世界にはほとんど固有名詞が出てこない。主人公らしき視点者さえも名前がない、名前を覚えていない。自分がどこで何をしてきたのかもわからない。章と章の間に時間的な連続性があるかどうかも定かではない。脳が見る夢ではないから、これは意識とはちがう、記憶でもない。だから固有名詞がない。唯一出てくる「けいちゃん」という呼称は、だから思い出なんかよりもずっと尊い気がする。心が見る夢は現実でもなく、 一般的な意味での夢(脳が見る夢)でもなく、第三の庭みたいな場所だ。
第7章「水と異者(けなもの)」で、ある日世界に現れた六機の編隊を組んだ飛行船のことが語られる。彼らは地球の資源の採掘を目的としてやって来たという。そしてヒトもまた資源であるらしい。異者はヒトを家畜化して支配していた。その様子を水が見ていた。この「飛行船によるにんげんの支配」というのが「脳による肉体の支配」と重なっているように感じられた。確かに逃れ難いものだ。だけど死という出口だけが、そこから逃れるための通路なのかもしれない。死とは脳が見ていた夢から覚めることで、その支配からの解放でもあるのだ。
とは言っても、死んで万事解決なんてこともない。肉体を返してしまえばたしかにすっきりするが、すぐに消えてしまうわけではなく「生前、我々は死者や先祖に過大な期待をかけてきた。その責任というわけではないが、我々はそうあってほしかった死後の世界を少しだけ演じている」(176頁)、「電気と親和性の高い我々は配偶者や子供たちのカメラロールを見ることができる」(175頁)。まだ死ぬべきではないのに来ようとしてしまう者は「密航者」と呼ばれたりする。よく臨死体験で三途の川を見たなんて話を聞くけれど、あれは密航だったのか……。対岸で手を振っている先祖はそう見えているだけで実は他人だったのかもしれないのか……。
細長い場所で日々を営みながら時々、自分が死んだらどうなるんだろう? なんて想像する。きっと私だけではない。だけど本当のところはどうなのかなんて、細長い場所からは一生わからない。答え合わせはできない。だから、せめて想像するのだ。心で夢を見ようとするのだ。そうしてそんな夢の中にはちょっとしたユーモアもある。例えば正義とか沽券とか権威だとかを拗らせたやつが殻に閉じこもって流れていく「どんぶらこ」なる状態を読んだ時、私はクスっと笑って本から顔を上げ夢から目を覚ましたのだ、私に与えられたこの細長い場所で。
アイヌ語ド素人の北海道在住小説家が真剣に『アイヌ神謡集』を読んだ感想―『知里幸惠 アイヌ神謡集』
私とアイヌ語のかかわりは、たぶん中学生の頃まで遡る。学校生活があまり幸福なものでなかったので、部屋で一人、本を読むことと何かを書くこと、そしてラジオを聞いていることが幸せなことであって、その時ラジオから聞こえていた言葉がアイヌ語だった(北海道ではラジオでアイヌ語講座が放送されていて、今ではインターネットでも視聴可能、気になる方はこちらへ→アイヌ語ラジオ講座 | STVラジオ )
ただ中学生の頃は、アイヌ語というものをどうやって勉強していいのか全くわからなかったというか、アイヌ語と自分がどうかかわっていくのか全くイメージできなかった。知里幸惠さんの『アイヌ神謡集』は知っていて、いつかちゃんと読めたらいいなと憧れの作品だった。
本格的にアイヌ語の勉強を始めたのはごく最近で(2024年春頃)文法書が出版されていることに気が付けたことが大きかった。
・中川裕著『ニューエクスプレスプラス アイヌ語』(白水社、2021年)
・中川裕、中本ムツ子著『カムイユカラを聞いてアイヌ語を学ぶ』(白水社、2023年)
私が使用したアイヌ語の文法書はこの二冊。どちらも入手しやすいものなので興味のある方はぜひ手にとってみてください。
今回のブログ記事では、アイヌ語ド素人である北海道在住の小説家が真剣に『アイヌ神謡集』を読んだ感想を書いていく。なお今回私が精読に使用したテキストは岩波文庫の新しい版『知里幸惠 アイヌ神謡集』(中川裕補訂、岩波書店2023年)。
学生時代は歴史学の専攻で、言語学は専門外、本当にド素人。だからそもそも『アイヌ神謡集』とはどういった書物で何故歴史的に価値があるのか、というようなことは書かない。ただ知里幸惠さんというアイヌの女性が、金田一京助氏の勧めによって独学でローマ字を習得し、自分が覚えていた神謡のアイヌ語の音を正確にローマ字に移し、さらに彼女の日本語訳と併せて残してくださった大切な本である、とだけ書いておきたい。「美しい」のアイヌ語「pirka」は現在このように表記されるが、これは知里幸惠さんの功績らしいと私は初めて知った。それ以前は「pirika」と表記されていたらしい。「r」か「ri」かという言語学的にはとても重要な指摘なのだと思う。
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神謡の基本として、私が二冊目に勉強に使ったテキストにはだいたいこんなことが書いてあった。アイヌ語の韻文は、通常sakeheと呼ばれるリフレインが入り、5ないし4音節が基本となっている。そして初めて知った時にかなり興味を持ったのが「四人称」の語りが採用されている、ということだった。アイヌの物語は一般に主人公が自分の体験を語る、つまり一人称の形式をとる。通常アイヌ語で「私が」と言う時、動詞に「ku=」という人称接辞がつくが、神謡では「a=」「an=」が用いられる。日本語ではどちらでも「私」と訳すのだが、神謡の語り手は神であり、人間と区別するという意図から特別な人称接辞が使われるようだ。物語の中の「私」とそれを口承文芸として語る「私」が区別されているようでもあって面白い。神謡の中でも「ku=」で物語ったら、登場人物「私」とそれを語る「私」がイコールになってしまう。それを避けるための技法でもあるのかもしれない。もしもイコールなら「私」が神になってしまう、文法上そうはしない工夫なんだろうか?
また神謡の技巧がかった表現は「a=tomte itak」(雅語)と呼ばれ、「yayan itak」(日常語)とは区別される。「前に出る」は「san」だがこれだと一音節にしかならないので、「ci-sa-na-san-ke 自らを・前・の方に・出る・させる」=「自分を前に出す」=「前に出る」というように五音節になるような複雑な派生動詞が作られる(これがとにかく厄介だった!)。虚辞という音律を整えるだけの意味のない言葉もある。
そういう前提知識を学んでから私は『アイヌ神謡集』を開いて、まずは短いものから取り組もうと思い「小狼の神が自ら歌った謡『ホテナオ』」を読むことにした。
「Shineantota nishmuash kusu pishta sapash, shinotash kor okayash awa, 」
アイヌ語ではこう始まる。日本語では「ある日に退屈なので浜辺へ出て、遊んでいたら」と訳されていた。どうしてこうなるのか、最初は何もわからなかった。それまでのアイヌ語の勉強で見たことのないローマ字の文字列に戸惑った。ややしばらく考えてわかったのは、現代のアイヌ語テキストの表記と幸惠さんのローマ字表記の仕方が違うらしいということで、それならばなんとか自分が理解しやすい表記に改めて勉強しようと思い直し、
「Sine an to ta nismu=as kusu pis ta sap=as,sinot=as kor okay=as awa,」
と書き換えて見れば、なんとなく見たことのあるアイヌ語になって意味がわかるような気になった。それでまずは『アイヌ神謡集』のテキストの表記を自分の勉強用に書き直すところから始めることになった。かなり地道な作業だった。「ciki」なのか「ci=ki」なのか? 「petpo」ってなんだ?(petは川、poは指小辞と言って小さいもの、愛らしいものをさすことば。cikappoというのもあったので、もう「po」が出てきたら全部「めんこい」と思うことにした)「aki」なのか「a=ki」なのか?「untukan」なのか「un=tukan」なのか?文脈を見れば一目瞭然なのだろうが、如何せんこちらはアイヌ語ド素人であり、たどたどしく辞書を引きながらなんとか意味をとっていける学習レベルである。 たくさん間違えた。それでもどうにかなったのは図書館にあった北道邦彦先生の『注解 アイヌ神謡集』(北海道出版企画センター、2003年)のおかげだった(ありがとうございました)。
読み始めて、事前知識としてあった「四人称」ではなく「一人称複数」で語られていることにも戸惑った。ホテナオの冒頭を「ある日、私達は退屈なので、私達は浜へ下りて遊んでいたところ」と、当初全て複数で訳してしまった。小狼の神はたくさん出てくるのか? でも『アイヌ神謡集』の日本語訳ではどうも一人のようで……?
それから「inkarash」とあればたいてい「私は見る」と訳すことになるのだが、「ingarash」というのも出てきて混乱した。おそらく耳で聞いて覚えていた音の通り幸惠さんはローマ字にしたのだと思う。注解書にはどちらも「inkar=as」ということになっていた。こういう「口承文芸を文字化した時あるある」みたいなものに躓いたりした。難しかった。また神謡というものは、そもそも日常的な言葉とは違い「雅語」が使われていたり、音律を整えるための独特な言い回し(中相形Middle voice 他動詞に「自分」を表す「ci」というのがついて結局自動詞になる、というような)があったりするのである。
というように、すったもんだありながら半年ほどかけて(精読を始めたのは2025年7月22日、終えたのは2026年1月18日だった)読んでいった。『アイヌ神謡集』の存在はずっと知っていたし、新版になる前のものを所有し読んでもいた。ただ私はアイヌ語ではなくて日本語訳でのみ読んで、ひとまず読んだことにしていたのだった。「読んだことにしていた」のと実際に「読んだ」の間の大きな隔たりに、今回の無謀な試みで気がつくことができた。合成語も多くそのまま調べても辞書に載っていない時は冷静に語を分解して解読することを覚えた。名詞的接頭辞というもの「u-互いを」「yay-自分」「si-自分」(実はyayとsiの違いは今でもわかっていない)「i-もの、人を」など。表題に必ずある「yayeyukar」(yay自分 eについて yukar歌う、ものまねする、述べる)というような。
死ぬと「耳と耳の間にいる」ことになるアイヌの物語は知っていたけれど、その部分が「ray kane an ko asurpe utut ta okay=as kannan」と表現されていることを学んだ。今回じっくり読んで好きになったのは「小オキキリムイが自ら歌った謡『この砂赤い赤い』」だった。擬音語や擬態語も多く、日本語訳で読んだだけでは気が付けないような、豊饒な語りの世界が『アイヌ神謡集』に広がっていた。
最後に一番有名な「銀の滴降る降る回りに」を読んだのだが、そこに出てきた表現でとても美しいと思った部分があったので引用(前掲の『アイヌ神謡集』14頁)しておきたい。(表記は勉強のために私が改めたものを載せています。)
「ci=santekehe ci=turpa wa nean pon ay ci=esikari sikacikaci=as rap=as humi ci=ekisarsut mawkururu.」
(私の直訳?:私は手を前へ伸ばして、その小さい矢を捕まえ、自分がくるくる回って降りる風を切る音が私の耳元に /『アイヌ神謡集』日本語訳:私は手を差しのべてその小さい矢を取りました。クルクルまわりながら私は風をきって舞い下りました)
アイヌの世界でカムイは人間にわかる姿になっている。この歌ではフクロウの姿になって、貧乏な子供の放った矢に手を伸ばして取る。人間にはフクロウが矢に射られて落ちるように見える、でもカムイの視点ではカムイはわざわざ人間の放った矢に手を伸ばして、それを掴んで降りてくるという光景が広がっている。人間が見る世界とカムイが見る世界、この二重性が世界をまなざす幅の広さ、その可能性を表現しているように思えて仕方なくて、とても感動した。
こうしてブログ記事にし半年を振り返ってみて、本当に豊かな経験をさせてもらったなあと思う。まだまだわからないところも残っているから、これからも地道に勉強を続けたい(それにしてもあまりに学習が遅いため、地元のアイヌ語方言まで辿り着くにはあと何年かかるんだろう?)。アイヌ語の勉強には他の言語の勉強にはない苦労があった。そもそも入手できるテキストの数が少なくて、次に何をどう読んで学ぶかは自分で考えなければいけない(困りつつ、今は2冊目のテキストの復習をしている。言語の学習には反復も重要だ)。
そもそも、私は言葉というものが大好きなのだと思う。言語学の勉強を専門的にやったことはないから何を言っても素人の戯言になるのだろうが、日本語の小説を書くのに日本語しか知らなかったら、貧しくなってしまうような気がしている。他の言語を知っている方が、日本語をもっとよく知ることができるかもしれない。
《参考・アイヌ語テキスト》
つながり合う景色―山田淳子『わたしの百人の祖父母たち 北方領土・元島民の肖像』
書店で見かけて、立ち止まった。大事な本だと思って手を伸ばし、本書を開いて、あ、これはしんどくなるやつだ……と思った。どうして人は生きている間に、祖父母や両親、自分が知らない世界を知っていたはずの人々の話を聞かないで過ごしてしまうんだろう。後にはいつも後悔が残ると知っているのに、その時々は忙しいとか疲れているとか、些細な理由でじっくり話すことをしない。昔のことを聞くのに照れ臭さを感じて、話を切り出せないままになっていることが私にはいくつもある。
『わたしの百人の祖父母たち 北方領土・元島民の肖像』という本は、私にそんなことを思い出させた。もういない祖父母たち、血の繋がりはないが自分よりも上の世代に属すたくさんの祖父母たち……。
山田淳子『わたしの百人の祖父母たち 北方領土・元島民の肖像』(北海道新聞社、2025)
一人の人間が亡くなるということは、その人がどっさり抱えていた〈世界観〉が丸ごと消滅してしまうことなのかもしれない。そして、人は突然、亡くなってしまいもする……その瞬間に失われる「時間」とその中で形作られた人生の「景色」が消えていく。シュ、と消えてもう取り返すことができない。
筆者は、自分の祖父がかつて北方領土にいたということを知っていた。しかし具体的なことは何もわからない。祖父が「しぼつ」という所にいたと聞いても、それが歯舞群島の一つ「志発島」のことだとわからなかった。(北方領土を学校で習っても、歯舞群島に属す島の名前は省略されてしまっている。)そこで元島民に会い、話を聞いて写真を撮ることに決めたという。こうして2019年に始まった筆者のルーツを巡る旅がまとめられたのが本書である。元島民の方々の肖像写真と、彼らが語った言葉のひとつひとつは、忘れ難いものだった。言葉の多い人も、少ない人もいる。ご本人と一緒に写真に撮ってもらいたいと思った物には祈りがある。島での楽しかった暮らし、美味しかった食べ物、美しい風景、あるいはソ連兵が土足で上がり込んで来て恐ろしかったこと、島を脱出した日の緊張感。
筆者が集めていった言葉たちは、ある時から不思議と繋がることがあったという。断片的な証言の言葉と言葉、別々の記憶を語っていたはずの言葉がある時ふと結ばれて同じ時空に繋がっていく。あるいはこれと同じ風景を自分の祖父も見ていたのではないか? 繋がっている。かつてそこにあった〈世界観〉は今現在残されている景色ともまだちゃんと繋がっている。自分の周りにあるいくつもの別の〈世界観たち〉から完全に孤立している人なんていないのだから。たとえ自分がいなくなったとしても、自分がいた場所に繋がる記憶は生き続けている。元島民たちの言葉から、筆者の祖父が見ていたかもしれない景色や感触に繋がっていけるかもしれない、だから「百人の祖父母たち」なのかと思った。
「人の死をいくつも経験していくと、自分のルーツというものが気になり始める。そして時の経過とともに思いは強くなっていく」(10頁)のだと筆者は書いていた。その言葉に、ルーツというのは点ではなくて線なのだろうと私は思う。
「故郷」ということを、私はずっと考えている。それを自分の中でどう理解すればいいのか、いまだにわからない。択捉島出身の方の言葉が心に残った。
「十年、二十年先なんて考えられないから、すごく考えててね。涙出るときあるの。自分の村、生まれたところ、見ないでいなくなるんだなって」
(前掲書、52頁より引用)
戦後80年ともなると、今語ることができる人でも島にいたのは子供の頃ということになる。あまりにも幼かったから、島のことを覚えていないという人もたくさんいる。それでも生まれた場所に特別な思い入れを持っている。
単純に、生まれたところを故郷と呼んでもいいのだろうか、と私の心は揺れる。私は自分が生まれた町のことを覚えていない。覚えていない町を故郷と呼んでいいものか、ずっとためらっている。
この本とは地元の大きな本屋さんの郷土本のコーナーで偶然出会った。ちょうど私の小説「貝殻航路」の掲載誌が発売になる頃で、何か自分へのご褒美になりそうな本を買いに来ていたのだった。
本書を手に取ることができて良かったと思う.
まだまだ考えなければならないことがたくさんあるのだとわかった。
実は私の周りには、北方領土出身者よりも樺太出身者のほうが多い。樺太の話をよく聞く。本書を読んでふと思い出した。年配の方の思い出に「エストリ」という地名が出てきた。「わかりますよ、エストリ、樺太のね、恵須取」たまたま知っていたのでそう答えたら、その方はにっこり笑った。
本当とは何か? 嘘とは何か?―小山田浩子『作文』
「この物語はフィクションであり、実在する団体・人物等とは一切関係がありません。」
よく見かける文が本書の後ろにも小さく印刷されているのに気がついた。
後半は普通にわかる。本書に登場する人名やSNSのアカウント名はこの作品のための「創作」であって、実際に同じ名称が現実にあったとしても関連はありませんよということ。
問題(?)は前半の「この物語はフィクションであり」の部分で、そうそうこの物語はフィクションだから嘘で、〈嘘〉なんだけど〈本当〉なんだよね~という変わった感想を抱けるのが本書なのだと思う。読み終えた後にこの注意書きを見つけたせいで余計に面白かった。小山田浩子さんの『作文』は戦争の語りをモチーフとして、誰かの語りの〈嘘〉と〈本当〉をめぐる物語にもなっている。
「おじいちゃんの飯ごう」六年五組 千本けいすけ
「祖母の見た八月六日」六年五組 夏目苑子
これが本書に登場する二つの作文で、夏休みに家族から戦争の話を聞いて作文を書くという宿題が出たことについてのエピソードが、千本、夏目それぞれの立場から語られる。最初の語り手である千本慶輔は、祖父が亡くなった時に親族たちと作文の存在を思い出している。それによると、千本は祖父に戦争の話を聞いて作文を書いた……ということになっている。でも実は祖父は戦争の話をしなかったために遊びに行った先にいたマルミツという人物から聞いた話を作文に書いたのだった。このことは書いた本人しか知らない。この作文は、嘘を書いたことになるのだろうか?
もう一本の作文である「祖母の見た八月六日」は、夏目苑子が確かに祖母に聞いた話から書いた作文ではあったが、「話があっちやこっちにいって状況や登場人物がわからなくなったり、言葉の意味や漢字を聞き返したら祖母が違ったふうに答えることもあったりして混乱したこと」もあったと語られる。そういう混乱をきれいに整えて、語られたことのうちにいくらかを省略し、直接には語られなかったことでも補って描写し……そうして書き上がった作文は、嘘を書いたことになるのだろうか?
本当のこととは何か? 嘘とは何か?
遠足のこと、運動会のこと、休みの日に家族で出かけたこと、書いているとつるっとなにかが出てくる、本当にはなかったこと、でも、それを書いたらそれが本当になる。嘘を書くんじゃなくて、あくまでも書いていたらそれが出てきたということを書く。
(前掲書、88頁より引用)
小説というものが嘘を書いたものなのか、本当のことを書いたものなのか?この辺りの考え方には色々な立場があると思う。私は小説で本当のことを書きたいと思っている書き手なのだが、だからと言ってすべて現実に自分が経験したという意味で「事実」ばかりを書いているのではない。
もしも当事者しか本当のことを書けない(言えない)としたら、記憶は継承されない。何であれ出来事を経験した当事者全員が、本当のことを本当のこととして語るということができるわけではない。というか、当事者にだけ「本当のことを語る」責任を負わせるのは酷な気さえする。「語る」という営みは、言葉を扱うことだ。そうであるから、本当のことを書いたとしても本当のように響かないこともあって嘘だと受け取られることもあるし、逆に嘘だって巧妙な操作で本当になる。(ある意味、作家がやっているのはこれだと思う、フィクションを作るってそういうことか)。
「本当のことを語り継ぐ」というのはどういうことなのか。
戦争だけに限らず、記憶の継承ということについて今考えるべきなのかもしれない。
戦争の経験者がいなくなってしまっても、戦争という「本当」はなくならないのだから。それは過去のことだけではなくて、例えば今起きているパレスチナのことも。人から聞いたことを別の誰かに話す時、その話題は必ず〈私〉を通っている。〈私〉が語ることで生じてしまう意味、出来事との距離、全部が私の語りになる。それを〈本当〉にするためには、どうしたらいいのだろう?
小学生か中学生の時に、家族から戦争の話を聞いて作文を書こう、という宿題が出て困った記憶がある。核家族だった我が家には1945年以前生まれの者はなく、仕方なく近くに住んでいた祖父の妹の夫(私にとって大叔父)に話を聞いて作文を書いた。大叔父の話を聞きながら、私は「よくある話だな……」という感想を抱いた。それ以前に見聞きしていた「戦争」に関するフィクションやテレビで聞いた証言と同じような内容だと思ってしまったのだ。せっかく話してくれた大叔父になんて失礼なやつだろう。でも今ならわかる気がする。親切な大叔父が私にわかるように語ろうとすればするほど、既存の戦争体験に似てしまったということなんじゃないか。
自分の話をちゃんと「本当のこと」にして話すだけでも、実はかなり難しい。真面目に話そうとすればするほど「笑い話」にしたくなっておちゃらけてしまうのがうちの祖父で、おかげで祖父から宿題とは関係なく辛うじて聞いたことのある戦争体験は、どれもドリフのコントみたいだった。仮に書いたとしても、とてもじゃないが神妙な顔で平和を学ばせようとする学校の宿題として提出することのできない「不謹慎な」作文になってしまっただろう。本当はもっと深刻な事情なり思考なりがあるはずなのに「ゲリゲリゲーリー」や「鼻毛ボボ子」というふざけた言葉で誤魔化してしまう、そんなエピソードが本書に出てくるけれど、それってよくあることなんじゃないかなぁ。本当のことを語るのは本当に難しいんだよ。
嘘と本当をめぐるこの物語で、最後におじいちゃんの飯ごう(?)が出てきたのがすごく面白かった。
ちなみに本書はU-NEXTから出ている〈100min NOVELLAハンドレッド ミニッツ ノヴェラ〉というレーベルから出ている。この小説レーベルは、約100分で読める中編小説を年4回刊行しているとのこと。
傷痕ひとつ、もうひとつ―石原燃「いくつかの輪郭とその断片」
自分が傷ついていることを、傷ついた瞬間に気がつけるものなんだろうか、と思う。その時の感情を後で振り返って、言葉にすることができて、そうしてはじめて見つかる傷痕をいくつも抱えて生きているんじゃないだろうか。ある出来事とそれに付随する感情がずれていく、その擦れた傷みを癒す術が果たしてあるのだろうかと考えながら読んだ。
石原燃「いくつかの輪郭とその断片」(『文学界』2023年8月号掲載)
※随分前の作品についての感想になってしまいました。再読したら「やっぱり何か書いておきたい」と思ったのでした。
この作品は「月光」「絨毯」「雨の日」「境界線」「風の日」「葬儀」「雪の日」「商店街」「プロペラ」とそれぞれ題された短い章からなる中編小説だ。読み終えてから掲載誌の目次に216枚と書いてあったのを見て、これ200枚もの長さがあったのか!と驚いてしまった。自分でもびっくりするくらいあっという間に読んでしまった。とても端正な文章で書かれていて、月の光の下や雨や雪といった気象の中でふと立ちすくむ語り手の心情にあれこれと思いを馳せたくなる。
それぞれの章は、母を一緒に看取った香川さんという人と語り手の暮らし、その中で語り手が思い出す過去の回想の切れ端から構成されている。回想という別の時間の断片を内包しつつ、日々という輪郭が形作られ時間が経っていく。その描き方がとても好きだ。ひとりひとりの過去の経験は断片にしかならないのかもしれないが、その断片がひとりの輪郭を作っているのだな、とも読める。反対に、輪郭をもつ人々はそれぞれ数えきれない断片を持っている。その断片は語ることで他人と共有されるかもしれないけれど、たいていはぎゅっと握っているみたいに、光の当たらない暗がりに隠したままになっている。
語り手と香川さんには過去に「中絶」の経験があって、外国籍の友人・知人たちと中絶をめぐる話題が共有されていく。日本では違法だが別の国では必要なものとして黙認されているらしい中絶薬の存在、日本の妊娠人工中絶は敷居が高すぎるし、そのことを語ること自体がタブー視されているという現実について話題になる。語り手が感じる不安やそう思いがちな性格が、ところどころに描かれる「怒られるような気がする」というトラウマみたいな思い出によって表現されており、自分の何が悪いかもよくわからないままに怒られてしまうように感じる、後ろめたさというような感覚は中絶の一般的な感覚を思い出させる。胎児の命を奪ったとか、遊んでいただけだろうとか、中絶の理由も個人が置かれる状況もそれぞれ異なるはずなのに、中絶した人に投げられる石(言葉)は同じようなものばかりだったりする。中絶は怒られるような気がする……そんな感覚に、それってそんなに悪いことなのかと香川さんは爪を立てる。そうしてツイッターに「#私は中絶した」というハッシュタグをつけて自身の経験を語っていく。
「なんて言ったらいいのかな、ただ言いたいんだよ。たとえばある日、私がどこか知らない世界に飛ばされて、道に迷ったり、おなかを空かせたり、ドラゴンと戦ったりして、死にそうな目に遭いながら、無事に帰ってこられるとするじゃない? そしたら、そのことを誰かに話さずにいられなくなるでしょ? そういう感じ。(中略)
それでも、言いづらいからこそ、人に話すことではじめて、自分はこんなすごい経験をして、生き延びたんだって思える。自分の経験に光があたる気がする。だから、誰彼かまわず、いつまででも、話し続けてしまう。嫌がられても。嘘つき呼ばわりされても。自分でも止められないんだよ」
(111頁より引用)
SNSの短文は、ほんの断片に過ぎない。その断片たちが集まってハッシュタグの輪郭を作っていく。「誰かの経験に勇気づけられることがあるのは、その人が自分で、自分の経験に光を当てているのが見えるからだ」(117頁)という言葉が、とても光っていた。だからこそ、断片は語られ続けていく価値がある。もちろん、この作品で題材にされている中絶の話題だけではない。その人にしかできないたくさんの経験とその語りがある。それを打ち消すような音(プロペラの音、あるいはSNSのある話題の連投に混じる別の話題)も当然ある。その中で、誰かが自ら光を当てるように語った経験が、別の誰かの過去の傷痕をそっと撫でていくということがあるのだなと気がつかせてくれた作品だった。SNSという存在は私にとってはノイズのほうが大きくてどうにも好きになれそうにないのだけど、誰かが誰かの言葉に救われる可能性があるのなら大事な場所なのかもしれない。
たぶん最大の暴力は語ることを抑圧することだから。
アイヌ語を書く/アイヌを書く―石村博子『ピリカチカッポ(美しい鳥) 知里幸恵とアイヌ神謡集』
アイヌ語を勉強し始めて、だいたい1年が経った。
テキストを二冊通読したところで、次に手に取るテキストがなく、ここから先どうやって勉強をしたらいいのか?と自分で考えていかないといけなかったりするのが英語やドイツ語とは違うところで、なかなか苦労している。そこで以前から岩波文庫版で親しんできた(ただし日本語の訳文のほう)知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』をアイヌ語で精読しようと思い立って手に取ったのが、この記事で紹介したい本だ。
石村博子『ピリカチカッポ(美しい鳥) 知里幸恵とアイヌ神謡集』(岩波書店、2022年)
一冊の本を読むときにいつも思う。この一冊を出すために、どれほど多くの思索が重ねられ、どれほど多くの言葉が書きつけられ消されてきたのだろうかと。
知里幸恵さんのことを書いたこの本を読んで、そんな気持ちを再確認した。心臓に持病を持っていた知里幸恵さんが誰よりも熱い思いでアイヌの文学に向き合っていたことを知れば知るほど、胸が熱くなる。
知里幸恵(1903-1922)のことは、あまりにも有名だからこのブログに書くまでもないと思う。一応、簡単に書いておくとローマ字によるアイヌ語と日本語訳を併記した『アイヌ神謡集』という書物を遺した豊かな文才を持ったアイヌの女性である。わずか19年という短い生涯は多くの人に惜しまれており、もっと長生きしていれば素晴らしい越境文学を書いただろうと言われる。
本書は道南の室蘭で高校まで過ごしたというノンフィクション作家の著者が知里幸恵という人の生い立ちからアイヌ神謡集の成立までの経緯、そしてその後、知里幸恵が残したテキストがどのように人々に受容され影響を与えてきたかが書かれていた。
どうして幸恵は消えなかったのだろう?
珠玉の一冊だけを遺し、一九歳で天に還ったことにどんな意味があったのだろうか。
生涯のなかで見たものは何だったのだろう。いちばんいいたかったことは何だったろう。
今も生きる幸恵の魂は何かを訴えている。それを聞き取る努力をしなければならないと思った。
(本書序章、8頁より引用)
著者が知里幸恵の名前を知ったのは1974年頃、神田の古本屋で『炉辺詞曲 アイヌ神謡集』を偶然見つけて購入したことがきっかけだったという。北海道という場所は「アイヌを意識せずにはいられない環境」であり「アイヌの人たちから大地を奪ったという後ろめたさは、北海道人の根っこのどこかに潜んでいる。本当はちゃんと向き合わなくてはならない歴史があることを、濃淡はあれ、多くの人が感じていると思う」としつつも、実際に何かを書くのはやっぱり難しい。「“幸恵さん”に向かって恐る恐る実際に歩き始めたのは、二〇一五年頃からだ。今も自分にはその資格があるのか、困惑と怖れは続いている。」とある。北海道の人がアイヌのことを書こうと思う時に抱く困惑と怖れは私にも覚えがある。自分なんかが書いて本当にいいのか? 日々自問自答しながら向き合い続けなければならない。どんなに書いても、自分とアイヌの距離が縮まらない。そしてこの感覚は編集者には伝わらなかったりする。
著者が1974 年に初めてその名を知った知里幸恵について2015年にようやく一歩近づこうと踏み出すということ……ここに、書かれずともこれほど長い時を著者の中に在り続けた知里幸恵という存在がどれほど大きく深い影響を人に与えるものであるかがうかがえる。
知里幸恵の『アイヌ神謡集』執筆への情熱は生半可なものではなかった。本書に引かれている日記の文章からどれほど重い仕事であったかと思う。「私の為、私の同族祖先の為、それから……アコロイタクの研究とそれに連る尊い大事業をなしつつある先生に少しばかりの参考の資に供す為、学術の為、日本の国の為、世界万国の為」と知里幸恵は日記に記している。
私が勉強を始めたアイヌ語の表記では、自分のパソコンでは出せない小さな文字が入っている。ローマ字にすると「yukar」となり子音終わりの語ということだが、この表記を初めてきちんと書き分けたのはおそらく『アイヌ神謡集』だろうということを、本書で知ることができた。アイヌは「yukara」と発音せず「yukar」と発音する、表記もそうすべきではないかという幸恵からの提言に金田一は驚いたという。ネイティブによるネイティブの表記法の誕生だった。また知里幸恵は金田一との共同作業で文法との出会いがいちばんの収穫だったかもしれないともあった。志賀雪湖さんの指摘によると「ノートから神謡集に映すとき、“書き残す”という意識が急速に強くなったのではないでしょうか。意識の変化のなかで、語りと書くことの違いに幸恵は非常に悩んだのではないか」という。口承文芸を書き言葉にして固定すること、それによって守られるものと壊されるものがあると思う、そのことに気がついていて、それでも自分が書かねばならぬと己を奮い立たせる知里幸恵の姿を想像すると、悲愴なものさえ感じてしまう。
それでも、今日まで残っていることに私は深く感謝する。アイヌ語を研究するために多くの和人研究者が北海道でフィールドワークを行ってきた。研究者の中にはひどいのもいて、アイヌ語話者たちに研究者というやつは嫌われがちなんだと中川裕さんのエッセイで読んだ記憶がある。問題のある「研究」も確かにあったのだろう、しかし、私のような何にも知らない不勉強な和人がいきなりアイヌ語を勉強しようと思い立って手に取ることのできるテキストが存在するのは、アイヌ語を遺したいと思って一生懸命に語ってくれたアイヌ語話者たちと、それを真剣に書き留めた研究者たちの時間の蓄積のおかげでもある。
2015年頃から「“幸恵さん”に向かって恐る恐る実際に歩き始めた」著者はこう語りかける。
アイヌ語には祖先から伝えられた「イタク カシカムイ(言葉の霊)」を宿し、日本語には技巧をこめ、『アイヌ神謡集』は創作された。まだ電気の通っていない近文で、あなたは一日中机に向かって、アイヌ語と日本語を生きたかたちで結び付けていった。
そしてそれは言葉を圧殺しようとするものに対する言葉による闘いでもあった。
大きな力、大きな言葉の侵攻は、“小さな言葉”の否認と放棄を生み出す。アイヌは自らの母語を恥とし、自ら放棄せざるを得ないところに追いやられていった。それを乗り越える道は、自らの母語と“大きな言葉”の対等な立場での融合であり、対立でもあることをあなたは自覚していた。
(前掲書、208-209頁)
私はデビュー作となった小説「彫刻の感想」で初めて北方文学と呼べそうな、真正面から北海道という土地を探求する作品を書こうと思った(実はその前年に最終選考に残った作品は今の私とは全然違うものである)。書いていくうちに自然と出て来てしまった「ウィルタ」、こう、書きつけた時に腹をくくった。マジョリティである自分が少数民族のことを書くというのは、かなり勇気のいることなのだ。間違えたらどうしようとか、そんな気が無くとも誰かを傷つけたらどうしよう……とか。どう書いたとしても必ず誰かに批判されるのだ。でも書きたい。この土地から忘れ去られてなかったことにされてしまいそうなもののことを書く。その過程で自分が知らないでいた歴史的事実や感情に出会っていきたい。私の文学と生き方は、たぶん繋がりあっている。
どうやら小説を書き続けることとアイヌ語を勉強することは、私のライフワークになりそうだ。きっと長く時間がかかるに違いない。
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おまけ:私のアイヌ語学習の状況
冒頭の続き、そう、アイヌ語を勉強し始めて一年が経った。
「irankarapute」という今ではすっかり有名になった基本的な挨拶や「wakka」「yuk」「humpe」「pukusa」「korkoni」と言った自分の日常に身近な動植物を指す単語(しかも食糧ばっかり!)はもともと知っていたけれど、アイヌ語の文法を体系的に学んだのはこれが初めての経験で、今では「Kuzu Hiroki sekor ku=rehe an」とか、ちょっとした自己紹介もできるようになってきた。日々ちょっとずつ勉強をしていくと言葉を巡る自分の世界が広がっていくようで楽しい。今は文法の勉強や単語の暗記と平行して、短いkamuy yukarをうたう練習をしている。実際に歌うことで「名手」と呼ばれる人々がどんなにすごいかわかってきたし、確かにノリノリになってくるとサケヘと呼ばれる掛け声のようなものが移動したり増えたり減ったり(時に次のフレーズを思い出せずいたずらに増やすこともあるのが未熟者の私)、いやここらでもう一回大波がざっぱーんみたいになってだな……とフレーズが反復したりとヴァリエーションが生まれてくる感覚、これが口承文芸かと体で理解することができてきた。ひとまずはテキストが手に入りやすい沙流方言、千歳方言あたりから勉強を始め、もう少し基本的なことがわかったら十勝や釧路方言にも目を向けてみたいなと思っている。




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