言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

蝉の声に触る―平沢逸「点滅するものの革命」

「普通」小説は存在しているものを書くか、書くことで何かを存在させようとするものだと思う。見えないもの、聞こえないもの、触れないもの、そういうものの感触を言葉にすることで存在させることができるのが小説だ。しかし、この作品はそもそも存在しないことを書いている。存在し得ないものを堂々と開き直って書ききった稀有な作品だった。

 

平沢逸「点滅するものの革命」(初出「群像」2022年6月号掲載)

 

※単行本化されていました。私が読んだり等ブログに引用したりしているのは、初出の群像掲載時のものです。ページ番号は省略しました。

 

この作品にあるのは、多摩川緑地沿いにある団地に暮らす小学校入学前の女児である「わたし」と「父ちゃん」のひと夏の光景だ。「父ちゃん」は多摩川の河川敷で、数年前の殺人事件で使われた銃を探している。建前としては警察の報奨金狙いということになっているが、もう見つかりっこないことをわかっていながら、ただ河川敷の草を刈り、穴を掘るという作業を続けている。そこに集まってくる人々との他愛のない会話があるだけで、物語に語り手や父ちゃんの運命を左右するような決定的な「何か」が起きるわけでもない。

ところが、この作品は「革命」なのだ。

語り手が「空を見上げると、蝉の鳴く声が瞳孔に突き刺さった」。「よく熟した青」がのぞいた空の「青はその青さをそのままふくらませ」て夜になる。暗闇は色彩を奪うが、夏の午後のまばゆい光もまた色彩を埋没させるから「夏という季節は、色のない昼から色のない夜へとくりかえし移行していく季節」だと語り手は思う。そして夕方は、大気が小麦色じみて、日向と日陰の境界線を淡くし、父ちゃんの赤褐色にきらめく肌や指先についた蝶々の鱗粉などという細部の色彩が「時間の空隙を突くように」とらえられる瞬間でもある。「蝉の鳴き声は、まつ毛を爪弾くように目の前で細かくゆれていた」ともある。

この小説について何かを語ろうとするとき、一人称の語り手「わたし」が効果的に機能しているかどうか、成功しているか否かが問われがちだと思う。私もはじめそこに突っかかりを覚えたのだ。そもそも小さな子供が、こんなに難しい言葉を使って小説的に語ること自体あり得ない、読んでいてそう思った。だけど書かれてしまっているということはつまり、何故だかあり得てしまっているということだ。それはどういうことだろう?

気がつくと、この小説の言葉が書かれてあるままに面白くて、ありえないと思いつつも読むことにすっかり没頭してしまった。蝉の声はふつう瞳孔に突き刺さらないし、ゆれているのが見えることもない。というか、音は見えない。だけどこの作品では見えてしまう。5~6歳くらいと思われる語り手の女の子には見えている。この作品は小説だからこそ可能になった点滅する光景なのかもしれない。もしも自分が語り手と同じくらいの年齢の時に「小説の言葉」を持っていたとしたら、自分が感じる世界をこんなふうに語るんじゃないだろうか。そう考えていたら面白くなった。「点滅」という言葉は「光」の状況を表すものだろうけれど、「音」だって点滅するようにチカチカと響いてくるし、その感じが耳に触れると触覚になる。私はずっと聴覚は耳の触覚なんじゃないかと考えていたからこの作品に出てくる蝉の鳴き声の感じがとてもリアルに感じられた。蝉の声に触れる感じ。高村幸太郎は「触覚の世界」という文章の中で「彫刻家は眼の触覚が掴む」「彫刻家は物を掴みたがる。つかんだ感じで万象を見たがる」というのがある。この世界に触った感じそのものを、それも子供が触った感じを書こうとした作品のように思える。

 

「いまだに存在していない未来のわたしは、こうして確かに存在しているいまのわたしを思いだすことができないにちがいない」

 

 

 

決して思い出すことのできない子供時代の「感覚」を、存在しないものと認めた上で書いている。存在しないものを書いてしまっている。もしかしたら子供時代の自分は今の自分が当たり前と思っている(生きていくために身に着けた「普通」の)感覚の外側を生きていたのかもしれない。「音」と「光」のあふれた風景と大人たちの猥雑な会話が混然一体となって作品の前面に、読者の目の前に飛び込んでくる凄みがあった。言葉によって理路整然と風景の「当たり前」と思われている紋切り型の感覚に到る前に、自分はこの作品に書かれたような世界にいたんじゃないか? 証明のしようはない。あの時の感覚は永遠に失われてもう存在しないし、よみがえることもない。

そうとわかって言葉にした時に、何かなつかしいような気配が現れる。よく考えるとちょっと怖い。そんな気配が現実に表出する革命である。