言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

時を失いながら――マルセル・プルースト『失われた時を求めて』

プルーストを読む」ということについて、考えずにはいられない。

この大長篇小説を読んだ記憶は細断されて断片になった形で、いつか自分の人生の別の瞬間に、たとえば紅茶を飲んでいる時や(私は甘いものを好んで食べないからわからないが)マドレーヌを食べた時なんかに立ち現われるのかもしれない。今なら読めるかもしれない、と直感してふいに手に取った本を、毎日少しずつ丁寧に、生きるように読む。

今回はマルセル・プルースト失われた時を求めて』の第一篇「スワン家の方へ」の感想を書いていく。なおこの作品については複数の翻訳が刊行されているが今回は私が手に取ったのは鈴木道彦訳の集英社版(それも文庫ではなく、図書館で借りた立派な造本のもの!)であり、ページ番号などはそれに従っていることを予めお断りしておく。

 

マルセル・プルースト 著、鈴木道彦 訳

失われた時を求めて 1 第一篇スワン家の方へⅠ』(集英社、1996年)、

失われた時を求めて 2 第一篇スワン家の方へⅡ』(集英社、1997年)

 

失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へ 1 (集英社文庫)

失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へ 1 (集英社文庫)

 

 

 

失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へ 2 (集英社文庫)

失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へ 2 (集英社文庫)

 

 

概略めいたものは簡単に済ませたい。著者のプルースト(1871-1922)はフランスの小説家。代表作『失われた時を求めて』は1913年から1927年までの間に全七篇が刊行(第五篇以降は作者の死後に刊行された)。後の多くの作家に今なお影響を与え続けている20世紀を代表する著作である。

 

第一篇「スワン家の方へ」(集英社版の1巻・2巻)は全部で三部作になっている。

語り手「私」が復活祭前後にコンブレ―という土地で過した幼少期の記憶、断片的で漠然としたものがある日、紅茶に浸したマドレーヌを食べた時に一気に具体的に蘇ってきたいわゆる「マドレーヌ経験」を経て、さらに思い出された幼少期の思い出を取り扱った「第一部 コンブレー」。 語り手「私」の家にかつて訪れていた男シャルル・スワンと、その妻であるオデット・ド・クレシーの恋愛と幻滅の日々を扱った「第二部 スワンの恋」(この部分だけ語り手「私」が人からの伝聞をもとに語るという形式をとっており、ほぼ三人称形式の小説のように読める)。それから、土地の名前から「私」が連想する土地のイメージや、ある年シャンゼリゼで出会ったジルベルト・スワン(シャルルとオデットの娘)への初恋を扱った「第三部 土地の名・名」から成る。

 

集英社版のこの本には「月報プルーストの手帖」と題された小冊子の付録がついており、その1冊目にはなんとル・クレジオの文章(浅野素女 訳「鍵となる言葉」)が掲載されていた。フランス人であるル・クレジオさえ『失われた時を求めて』という作品を読む事に難渋していた時期があったらしい。けれどもある時「ただ言葉の流れに身を任せてゆけばよかった」ということに気がついたそうだ。アンリ・ミショーの詩を旅するように読みたいと書いたル・クレジオらしい捉え方だと思う。彼は『失われた時を求めて』から以下の文章を引用している。

 

眠っている人間は自分のまわりに、時間の糸、歳月とさまざまな世界の秩序を、ぐるりとまきつけている。目ざめると、人は本能的にそれに問いかけて、自分の占めている地上の場所、目ざめまでに流れた時間を、たちまちそこに読みとるものだが、しかし糸や秩序はときには順番が混乱し、ぷつんと切れることもある。

(『失われた時を求めて』第一篇「スワン家の方へ」より引用)

 

半分眠っているような時、自分が今どこにいるのかわからなくなる。

こういう時は、何がどこに置いてあったのか、部屋のアウトラインすらわからなくなっているものだが、昔の記憶だけはとめどなくあふれてくる。この記憶の甦りと空間の再構成が小説世界そのものを静かに立ち上げていく。はじめ語り手「私」は幼少期にコンブレ―で母親からのおやすみのキスを待っているのにスワン氏の来訪によって望みが叶えられなかったという孤独な夜を思い出している。けれどもこれはあくまで「意識的記憶」に属するものである。

ある日、小説の語り手「私」は(この作品の語り手が存在すると思われる現在に近い時のどこかで)紅茶とマドレーヌをきっかけに、すっかり忘れていたと思っていた過去をありありと思い出す、という経験をする。これが「無意識的記憶」と呼ばれるもので、失われたはずの日々を再現していこうとするのがこの作品なのだと思う(小説である以上、語り手=プルーストとは言えないが、時々プルーストの経験や物の見方、考え方が現われてもいる)。無意識的記憶が蘇った様子がそれまで「狭い階段で結ばれた二つの階」でしかなかったコンブレ―が、レオニ叔母の家の構造、それから鐘塔を中心にしたコンブレ―という名の町の全体、二つの散歩道(スワン家の方、ゲルマント家の方)と広がって行くようで愉しい。第一部の終わりは部屋に射し込む朝の光によって、あやふやになっていた部屋のアウトラインがくっきりとし、元に戻るという記憶の旅から日常への回帰である。

 

私たちがかつて知った場所、それを私たちは便宜的に空間世界に位置づけているが、そのような場所は、実は空間世界に属してはいないのである。それらの場所は、当時の私たちの生命を形作るたがいに隣りあった印象のなかの、薄い一片にすぎなかった。あるイメージの追憶とは、ある瞬間を惜しむ心にすぎない。そして家や、道や、通りは、逃れて消えてしまうのだ。ああ! ちょうど歳月のように。

(『失われた時を求めて』「第一篇スワン家の方へ」より引用、集英社版2巻432頁)

 

 

私はこの本を読む時に、一思いに100頁とか、150頁とか読み進めたくなってしまう。それはたぶん作品の時間の流れが「言葉」そのものだからで、読んでいる時間ごと寸断してしまいたくないからだろう。極めて主観的な文章(語り手「私」の回想の形式をとる)であるが故に全てが「特殊」な一度限りの風景になる。その移ろっていくイメージを惜しむ心のあり様が大変尊いもののように思え、この本を読む事に贅沢な時間を感じたのだ。

 

第二部「スワンの恋」だけは語り手「私」が伝聞をもとにして、シャルル・スワンとオデット・ド・クレシーの恋愛を語るほぼ三人称小説のように読める。この語りのブレを当初好意的に捉えることができなかったが、思い返してみれば(本を読んでいた時のことをまた思い返してみるんだって! 一体同じ時を、まるで違う時のように何度生きればよいのだろうか)シャルル・スワンという男が作中最も自由に社会階層(ブルジョワ、貴族の社交界など)を縦断しており(ちなみに語り手「私」のいたコンブレ―の家の夕食にも招かれていた)作中に描き得る社会的空間を広げている存在と言えそうだ。

 

第三部「土地の名・名」は名前が連想させるイメージの広がりからそこへ行くという空想の時が広がって行くようで愉しい。「私」の恋の始まりも「ジルベルト」という名の響き、そしてそこからの印象であった(そしてそういう印象と、現実は実際には大きくずれており、しばしば「私」を幻滅させることになる)。

 

その明くる日になったら、すぐにも一時二十二分発の、美しい素敵な汽車に乗りたいと私は考えた。私は、鉄道会社の広告や周遊旅行の案内などでこの汽車の出発時刻を読むとき、胸をときめかせずにはいられなかった。その時刻は、午後のある明確な一点に、一つの楽しい切れ目、一つの神秘的な印を、つけているように思われた――その一点から時間は軌道をはずれ、なるほど依然として夜に、また翌朝にと人を導いてはゆくけれど、しかしそれはもうパリの夜や朝ではなくて、汽車が通る町々のなかで、汽車のおかげで私たちの選べる、とある町の夜であり、また翌朝なのであった。

(『失われた時を求めて』第一篇「スワン家の方へ」第三部土地の名・名、集英社版2巻361頁より引用)

 

私にとってはこの広がりがとても魅力的な作品なのだ。

プルーストの人間理解の仕方(「人は一定不変の連続した存在ではなく、たえず目の自分が死んで異なった自分に生まれ変わる」(訳注)という考え方。)は「私」というものを確固とした実体と捉えるヨーロッパ近代と対立するものだ。そしてもし、プルーストの考えるように世界を捉えるなら、私は部屋にいたままにして、何度も何度も現在時を失いながら、失われた時を生き直すことができるのかもしれない。この感覚はとにもかくにも『失われた時を求めて』を実際に読む時間というものを経験しないと得られない。そして何度も何度もそういう時間を生きていたくて、繰り返し読み返す本になってゆくのかもしれない、時を失いながら――。

 

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