言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

又聞きの人生―滝口悠生「高架線」(『群像』2017年3月号掲載)

今回は『群像』2017年3月号に掲載されていた、滝口悠生「高架線」という小説の感想を書いていきたいと思う。地上より高いところを電車が走る「高架線」。そこから風景を眺める瞬間を彷彿とさせるような、きゅうに目の前にパーッと小説全体が開けて見える瞬間には本当に感激した。とは言っても、私の住んでいる地域は高架線はおろか、電車すら走っていないのだけれど、そういう事実にぶちあたるたびに、ああ小説って経験を超えるんだな、と思ってしまう。なんとなく、高架線からみた風景を知っているような気にさせられるのだ。

この小説家の書く作品はどれも「語り」がおもしろく、気がつくと夢中になって読んでしまっている。作品の語り手たちは一体誰に向かってこんな面白い話をしてくれているのか、本当にあきれるくらい長々としゃべりまくっているのに面白い。

 

 

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

群像 2017年 03 月号 [雑誌]

 

 

2017年9月30日追記:単行本が発売されました!

 

高架線

高架線

 

 

たいていの「長い話」はつまらない、途中で飽きてしまうものだ。たとえば自分の来し方なんか語るともう語り始めた時点で聞き手を飽きさせてしまう。

自分の人生を語ってみようと思って話し始めてみると不思議なことに誰の人生も似たり寄ったり、おかしい、自分の人生上の苦労や喜びはもっと個別的で具体的なもののはずなのに、どうして他の人が語る他人の話と似てしまうのだろう? ……というような経験はないだろうか? 自分の個別的で具体的なはずの人生がまるでテンプレートにはめられたような「よくある話」になってしまうということ。どうしてこんなことになってしまうのかと言えば「自分の人生を語る」という自分語りにはある一定の形式があるからではないだろうか? 自分の人生を語ってみよう、そう思った途端よほど慣れている人を除いて多くの人の頭の中には何年何月何日に、○○町に生まれて××という学校を卒業し、それからその後就職したり退職したりという職歴を語るか、または無職歴なんかを語ってみる、そこにどうしてそういう経歴になったのかという自分なりの理由づけを加えて……みたいなテンプレートが浮かんでくるからだ。しかし、こんなテンプレートに当てはめる意味はきっとない。こんな話型で語る人生なんて、みんな硬直してしまっている。

今回紹介する滝口悠生「高架線」という小説はこういう硬直というか、語ってしまうことで決定されてしまうような一般化を、面白く回避している。どのようにしてか? それはやっぱり「語る」ことで回避しているのだけれど、「語る」人間はいつの間にか他者の人生について語っているのだ。その語られた他者の人生がなんとなく繋がっていくとストーリーみたいなものが浮かび上がってくる。だけれど、語られた人物は読者の前に直接姿を見せることはほとんどない、これがこの小説の面白いところだと思う。私はそういう人物たちの語られた人生を「又聞きの人生」となんとなく呼んでいる。小説上とても大切なエピソードなのに、そこで語られる人物は読者の前にはいない。あくまで別の人物が見聞きし整理した「語り」を通して読者にもたらされる人生。だからどこまで「本当」なのかも実はよくわからない。

小説には冒頭に登場する新井田千一に始まり、七人の語り手が登場する。それぞれの立場からいろいろな人生の出来事を語り継いでいくという構成をとっている。もちろん前提として、語り手が自身の立場や来歴を語る部分はあるのだが、いつの間にか話がずれていき、別の人間について(あるいは突然映画のストーリーについて)語ってしまっているのである。語り手たちを繋ぐものは「かたばみ荘」という木造二階建ての古いアパートで、語り手たちのおしゃべりや語られる人生はここに凝集されていく。そういうことが可能なのは「かたばみ荘」に独特なシステムがあるからだ。「かたばみ荘」は仲介業者(アパートの管理会社)を通さないため家賃が3万円と安いのだが、仲介業者を通さないがために自分が退去をするときには次に入居する人物を大家(万田夫妻)に紹介しなければならない。

 

部屋には元住人の、そして代々の住人の暮らしの跡、傷だの、匂いだの、汚れだのが、至るところに残っていた。けれどそれらを残した住人たちも、辿っていけば、知り合いの知り合いの知り合い、ということになり、自分だけの部屋というよりは、自分たちの部屋、私たちの部屋と言いたかった。

(前掲書、10頁より引用)

 

互いに深い知り合いではないが、同じ部屋に住んだことがあるという、または住んだことがある人物の関係者であるといったゆるやかな連帯意識。

かたばみ荘の住人は、小説の中でこんなふうに移り変わる。

新井田千一→片山三郎→七見歩(三郎が失踪していた期間の家賃を肩代わりしていた。)→峠茶太郎。そしてどうも新井田よりずっと以前、1974年頃にかたばみ荘の住人であったという日暮純一。「かたばみ荘」というアパートの一室に流れた時間と、その上に乗っかっていた暮らしの変化。そういうものを見せていながら、住人がそのまま「語り手」ではなかったりする。上にあげた「かたばみ荘」の住人の中で読者の印象に強く残る片山三郎という人物は、小説の語り手として設定されていない。終始「語られている存在」である。失踪事件を起こして小説から姿を消し、電車の上り線と下り線でクロスするように描かれた後、気がつくとメインが下り線に乗っていった片山三郎となり、いつの間にやら秩父でうどんを打っている。そのうどん屋がなくなってしまってからはインドに行っていたりと、とにかく読者の前に直接現れない。

こんな具合に作品の「いま」「この」空間に決して現れない人物がけっこうたくさんいることに驚いた。片山三郎の他に、新井田の若い頃の文通相手で25歳の看護婦である成瀬文香、田村光雄、小夏、佐々木柚子子、松林千波……。彼(彼女)らが読者の前に出てきて自らの来歴を直接語ることはない(成瀬文香に関してはそもそも読者に印象づけられたイメージとして存在してさえいない)。だれもが別の人間の口から語られた存在として描かれている。だから読者が「又聞き」みたいにして知った彼らの人生が、まぎれもなく彼らの人生そのものかどうかはわからないし、そもそも問題ではない。大切なことは、こういう語りの構造によって表現された広がりだ。「かたばみ荘」のシステムが生み出したゆるい連帯と重なり合いながら、語りはどこまでも広がっていく。

小説の「語り」にとても意識的な作品だからこそ、「書かれなかった事柄」までぼんやりと浮かび上がらせることができる。この書かれなかった事柄、というのが読者の前に語り手として登場しない者たちの人生で私が「又聞きの人生」とでも呼びたくなった、確かな話ではないけれど、確かに存在しているらしい誰かの生きてきた時間と空間なのだ。

 

七見奈緒子です。三朗が失踪の顛末を話している間、私がうどんをすする音、ついでに鼻をすする音、熱くて汗をかいて、はーはーいっている音なども、ずっとしていた。

だいたいそのような成り行きだったのだけれど、もちろんこれは私が覚えている限りの話であって、三郎がその時話していた話とはきっと齟齬もある。話というのはそういうもので、人が違えば内容も変わる。立場が変われば言い分も変わる。

(前掲書、67頁)

 

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以下、読みながら私がTwitterに呟いていた雑感(メモ程度に)。↓↓

 

 

 

滝口悠生「高架線」(群像3月号、350枚!)を読み始めた。登場したのかしてないのか、はっきりしないふうに人物が書かれていてとても面白い。文通を通して語り手の中に根付いた女性(?)とか、幽霊現象みたいな三郎とか笑。あと語り手たちは誰に向かって語ってるの笑、おれ?あ、ども、すいません。

 

今日も引き続き、滝口悠生さんの小説「高架線」を読んでいた。また読み終わらなかったけど微笑。退去する住人がその後その部屋で新たに暮らす人を紹介しなければならないという、謎のルールのある「かたばみ荘」というボロアパートを軸に、「暮らし」というものの移り変わりを描いている?

 

人が生きていれば当然流れていく時間と、それに乗っかるみたいにして存在する空間。住人の移り変わりや彼らの生活の変化に、平凡な感覚だが、言われてみればそうだよなと思わず頷いてしまうような雑感。語り手は自分のことを語っていたはずなのに、いつの間にか別の人間について語ったいたりする。

 

他者の語りがそのままある特定の人物の人生そのものではないのは当たり前で、そのことが自体が何か移り変わりというか、変転というか、決して固定され得ない存在として連なっていくような。

 

読んでて微笑ましいのは、明らかに昭和の匂いのする人物が平成元年生まれで、語り手がいちいちそのことを強調してたりすること笑。こういうディテールに幸せを感じたりもする。大事に読もうと思う。

 

滝口さんの「高架線」を読み終えた。読んでいる間がいちばん幸せな感じ。小説の最後のほうで「俺たちの」部屋の秘密がわかるんだけど、部屋から出てきたアレがマジもんだと相当ヤバいことになってしまう。ところが作品の構造上、なんか嘘くさく見えてしまい、おかげでなんとなく多幸感が残り終わる笑。

 

映画が出てきたあたりからラストのほうで明らかになる諸々の設定が「作りすぎ」な気はしたんだけど、好きな作家は内容ばかり読んでしまうな……たまには良いか〜。面白かった、ありがとうごちそうさまでした。振り返ると登場人物が結構大人数になってて驚き。

 

『死んでいない者』より濃密な生活が描かれていたかも。それも他者が語るもんだから、ちょっとずつズレてる気がして本当のところはよくわからないというのが、なんかワクワクした。アホな感想だが今日はここまで。おやすみなさい。