言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

「現実サイズ」とは違った日和――滝口悠生「わたしの小春日和」

 

滝口悠生「わたしの小春日和」(新潮2012年12月号)

今期の芥川賞ノミネート作家、滝口悠生。

その作品「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」については以前書いたので、今回は敢えて「わたしの小春日和」(新潮2012年12月号掲載)を掘り出して感想をまとめておこうと思います。

実は心ひそかにデビュー作から新潮で見ていたので久しぶりに昔の作品を読み返してみたり、なのでした(微笑)

 

主人公の私(行夫)は8月半ばで巣鴨にある会社を辞め、奇妙な方法で新しい職を探している。その方法というのはとにかく歩き回ったり、手当たり次第に知っている番号に電話をかけまくるといったもので全くもって成果はない。そんな中、私は友人の結婚パーティー出席のため、一時実家に戻る予定があったが、妻とのちょっとした口論によって試験的な別居生活をすることになり、そのまま実家に滞在することのなった。

これがきっかけとなり、馬場や坂口といった昔の友人たちと再会し、過去のことを思い出す。昔、不良として近所では有名だった「安西加代子」なる人物について思い出した「私」は加代子の長男である安西洋平と接点を持つことになる。安西加代子は現在「私」の実家の近所に子供二人をつれて戻ってきているのだ。安西加代子とその子供洋平を巡って「私」の物語は進行する。これは過去と現在が風景描写を介して織り交ぜられて語られた小説だと思う。この混ざり方の自然さが読者を小説世界に引き込むのかもしれない。

(この作者の独特な時間の書き方、なるほど新潮デビュー後1作目ですでに発揮されているのかもしれなかった……笑)

 

中盤でふと思い出すのは、冒頭の「私」の就職活動の特異さだ。安西洋平がほふく前進で「私」の実家の前を這っているのが判明するのだが、その後で私も彼と同じように地面に寝転がって見たのだ。そうして見えた「現実サイズ」とは違う世界がそういえば子供の頃にやっていた遊びを思い出させる。安西洋平もそうしたいつもと違う世界で遊んでいたらしい。

「この数ヶ月、自分の行動や状況について、なんでなんでと自問し続けたが、「なんで」と対になるような答えは必ずどこかに嘘が混ざった。」

(新潮2012年12月号87頁より小説本文引用)

 

「私」は現実を「現実的に」「現実サイズで」考えることができないでいるのかもしれない。そのせいで就職活動の入り口にすら立てない。迷走する。結果としてそれが妻、伊知子との離婚の原因になってしまう。

しかし、現実サイズだけがこの世界のすべてではないのではないか? とも思える。
「わたしの小春日和」、このタイトルはラストで安西加代子主演で行われる演劇のタイトルだが、この演劇のエピソードは安西加代子が学生だった頃のささやかな思い出に着想を得ている。そのエピソードというのが安西加代子が自転車で転倒した時に木を見て、生まれて初めて幸せを感じた、というだけの些細なものである。

スケバンスタイルの不良だった安西加代子にとって、この地味な出来事はいつもと違う視点だったのかもしれない。

いつもと違う視点(=現実サイズとは異なる物の見方)から特別な感情を得る、普段はうまく言えないだけで、実は案外私たちの日常の中にある感覚を描いた作品なのだろう。