言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

人物の秘匿性 / 可能性の選択と抹消―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

二段組みで1000頁もある大長編小説『テラ・ノストラ』。この作品にはものすごく膨大な時間が流れている。時系列(直線的な時間理解)で整理して読めば、アステカ文明イエス・キリストが活動していた頃のローマ帝国、15~16世紀のスペインの「新大陸」発見という黄金期、それから、19世紀のメキシコ皇帝マクシミリアンに、20世紀に入ってから起きた様々な闘争(アメリカによるベラクルス占領)、スペイン内戦により犠牲になった者たちのための記念碑、そして1999年12月31日までの時間が詰め込まれていることがわかる。「トラテロルコの三文化広場」という場には3つの悲劇的な記念碑があり、それが現在のメキシコという場にかつて流れた時間を刻み付けている。

ただ単純に作品自体が「長い」というだけで、これだけの時間を描くことはできなかっただろう。これほど多くの時を作品内に収めるための方法として「人物の秘匿性」と「可能性の選択と抹消」ということについて考えてみたい。

 

三つの時間、過去、現在、未来の収斂。すべてが完結し、すべてが始まる。

(前掲書、736頁より引用)

 

■人物の秘匿性

 

この小説内で「セニョール」と書かれればたいていフェリペ二世のことをさし、「先代のセニョール」などと書かれていればフェリペ美王をさすことになっているのだが、小説のはじめのほう(第Ⅰ部 旧世界、「セニョールの足元」)の訳注にはこうある。

 

この小説でセニョールと称される人物はフェリペ二世をイメージしているが、歴史的人物としてではなく、ハプスブルク家の歴代の王を統合したような複合的な存在である

(前掲書、49頁訳注より引用)

 

「歴代の王を統合」?

読み始めた時にはなんのことかさっぱりわからなかったが、少しずつわかってくることは近親婚を繰り返したこの王家の血の濃さだ。それ故に王家には特徴的な顔の形質があり、何度か描かれているし、特に王の肖像画を描くことについて書かれているところでは強調されている。それに加えてフェリペ二世は様々な身体的な「欠陥」も受け継いでしまっているのだが、そういう「欠陥」だけでなくもっと大きな存在として王家的なものを受け継ぎ濃縮した存在なのである。そんなフェリペ二世は「セニョール」とハプスブルク王家の集合的存在として表記されている。

どの登場人物もそうであるが、この作品には人物の「個性」が強く描かれてはいないと思う。ある人物を書いても、それは何かもっと大きなものの表象であり、個別的具体的な役割を演じることはない(例えば勢子頭グスマンはコルテスの表象のような存在である)。この書き方のことを私は「人物の秘匿性」と言いたいのだけれど、例えばフェリペ二世は青年、中年、老年の三つの時代が描かれているのだが、「セニョール」と書かれているだけで本当にフェリペ二世の過去や現在が描かれているのか不安になってくる部分が多い。「セニョール」ではあるけれど、それが本当にフェリペ二世という一貫した個人史なのかどうか判然としない。敢えて直線的に描かないことで、この作品の特徴である「円環的時間」を描き得たのではないか、と思った。

王家の人々の肖像を描いたコインの描写も「人物の秘匿性」という点において印象深い。

1999年12月のポーロ・フェーボのエピソードに古いコインが登場する。

 

そなたがコルドバ革の長いケースを開けてみると、そこには白いシルクの下敷きの上に、古銭が収納されていた。そなたはそれを丹念に撫でまわしたせいで、すり減って見づらくなった、忘れ去られた王や王妃たちの肖像を一層すり減らしてしまった。

(前掲書、1059頁より引用)

 

そなたはいま一度、小銭箱を開けた。コインに刻印された、すり減って消えかかった横顔を見た。狂女王フアナ、フェリペ美王、慎重王と呼ばれたフェリペ二世、エリザベス一世、カルロス二世痴呆王、マリアーナ・デ・アウストリア(カルロス二世の母)、カルロス四世、メキシコのマクシミリアンとカルロータ、フランシスコ・フランコといった過去の亡霊たち。

(前掲書、1064頁より引用)

 

狂女王フアナが、まるで王家の過去未来を縦横に生き続けているような夢想的な描写、そして上記のような肖像のすり減ったコインのことを考えると、登場する人物たちは「転生」という明確な言葉で表現できるかは別として、なんとなく個別性を消された集合体として存続していくようなイメージが浮かんでくる。「遭難者」として登場する3人の青年たちが繰り返す、「一体自分は何者なのだろう?」という疑問によってさらにゆらぐ個別性が、人物たちの単なる個人史を超える範囲にまでイメージを膨張させている。「遭難者」のひとりが、先代のセニョールと重ね合わされたり。

 

 

■可能性の選択と抹消

 

狂女王フアナが、宮廷画家であるフリアン修道士に肖像画を書くように命じるこんな場面がある。少し長くなるが引用しよう。

 

――フリアン修道士、他の誰とも似ないように、世継ぎの王の像だとはっきり分かるように、描いておくれ。特にこの宮殿の寝所にこっそり忍び込むような、不届き者と似せてはなりませぬ。

 (中略)

――志操の強さですか、奥様? それを表現するにはさまざまな異なったかたちがあります。貴女様はどちらがお望みで? 青年のかつてのお姿か、今あるお姿か、あるいは将来のお姿でしょうか? また生まれた場所か、運命を決した場所か、それとも今ある場所でよろしいでしょうか? 奥様、どういった場所と時間において描きましょうか? 私の芸術はたいしたものではありませんが、貴女様がお望みの変化や組み合わせを取り入れることくらいは可能です。

(前掲書、326頁-327頁より引用)

 

肖像画」というものは、ある特定の個人そのものを描いたものではない。特に「王家の」ということになれば、そこには多くの選択があり、絵画に取り入れられるものと切り捨てられるものがかなり意図的に存在するはずだ。

「他の誰とも似ないように」という注文に対して、フリアン修道士の答えは「時間」と「空間」を変えるということだった。個別性の消された王家の肖像において、「他とは違う」ことを的確に表現するにはそうするしかないのだろう。「肖像画」はイメージであり、権力保持のため一貫した血筋というものを強調しようとすればするほど、どの肖像も似たものになっていく。

 

――理詰めでものを考えるべきだぞ、グスマン、何ゆえにわれわれは一連の事実のみを真実として受け入れたかじゃ、なぜならば、かかる事実が決して特異なものではなく、平凡でありふれたこと、飽きるほど繰り返される一連の筋立てのなかで、際限なく何度でも起きうることだ、ということをわれわれはわきまえているからじゃ。まさに際限なく何世紀にもわたって、かかる事実が数珠繋ぎとなって出てくるのを、わが鏡のなかに見てみるがいい、よく見るのじゃ。何ゆえにわれわれは幾多のイエス、幾多のユダ、幾多のピラトの中から、唯一、三人を選び出して、聖なるわれらの進行の物語としたのかということじゃ。

(前掲書、277頁より引用)

 

可能性の存在としては何人でも同じ人物がいる。だけれど我々の時間感覚においては、同一の瞬間にある特定の存在は「唯一」、たったひとりしかいない。だけれど本当は何人も何人もいる可能性としての存在の中から、ひとりひとり選び出して固定することで我々によく馴染のある時間感覚による一連の筋立てが完成する(この一連の筋立てとその理解の仕方が「物語」と呼ばれるものなのだろうと思う)。そして人々はこの筋立てで物事を理解したいと願う。

王家の肖像、何人も何人もいる歴々の王たちの時間の中で、自分がたったひとりの「自分」であるという信念があるとすれば、そこには確かな手ごたえとして可能性の選択と抹消の過程がある。何かを自分の物とし、別の何かを排除してこそ強固な「自分」が作られる。それが権力の誇示だとすれば、「セニョール」というハプスブルク家の集合の中で「フェリペ二世」という「自分」の存在はとても危ういものになるだろう。肖像画のところで述べた通り、時間と空間の組み合わせでしか、他と違う自分を作り上げることができないのだから。

「可能性」の存在(ありえたかもしれないもの)、選ばれなかった未来もあるということ、そういう「余白」みたいなものがあるからこそ、この作品は豊かなイメージを含んだ時間を広げていけるんじゃないか? と考えている。

 

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