Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

噴出する〈往古〉―パスカル・キニャール『いにしえの光〈最後の王国2〉』

前回の記事に引き続き、パスカルキニャール・コレクションより〈最後の王国〉シリーズについて。今回はシリーズ2冊である『いにしえの光』の感想を書いていこうと思う。

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ちなみに〈最後の王国〉シリーズとは、

 

最後の王国とは:哲学的思索、文学、歴史、人類学、精神分析、生の断片――それらを分かちがたいひとつの思考作用(ノエシス)としてとらえ、〈人間〉という存在を再検討する、無数の断片からなる、小説/詩/評論の枠を超えた新ジャンル。

パスカルキニャール・コレクション、パンフレットより引用)

 

 

パスカルキニャール 著、小川美登里 訳『いにしえの光〈最後の王国2〉』(水声社、2016年)

 

 

ふたつの時間―― 一方で流れ去り過去となる時間、歴史や文化、習慣などの系譜額を作り出す時間と、もう一方では過去の源にとどまり続け、決して古びることのない永遠の往古(いにしえ)――をめぐる哲学的、人類学的、文学的な考察。

(前掲、パンフレットより引用)

 

と、これを読んでわかる通り、この本は「時間」についての省察をまとめたもの。

複数の断片からなる形式の作品で、言葉によって何かを説明したり説得したりするというよりも、言葉によってわきあがるイメージを示すことで、絶えず現在に噴出しようとする不定過去(アオリスト)=〈往古〉と呼び得る時間の存在を書き出そうとしたように私には思えた。読んでいる間(その時間が一番たのしく、しあわせ)、言葉にできない何かが、断片と断片の間を繋ぐようにイメージされる、それが何かはわからないけれど読みえ終えてから一番はじめに思ったのは、この目に見えないし言葉にできないものこそ〈往古〉と呼ばれるものではないか? ということ。

 

〈往古〉という非-地(アトピア)。

不可視の光景はさすらっているが、それは目に見えない分、どこにもとどまらない。

(前掲書、229頁より引用)

 

キニャールは〈過去〉(passé)と〈往古〉(jadis)を区別する。

〈過去〉とは時間の連続した流れの一部、もしくは流れ全体を指す。言語によって変えられるもので、ひとは回想によってしばしば過去を変える。それに対して〈往古〉とは、非連続性に彩られた過去、過去の過去・すべての過去の起源である過去を指す。キニャールはしばしば「水源」のようなものとしてイメージしている。この「水源」から流れ出しているのが〈過去〉という連なりであり、「現在」のわれわれはその流れの中にある〈往古〉の痕跡であると言える。

 

アスペクトaspect)という言語学の用語がある。これは「ある見地からみた様相」のことであり、動詞に言及すればその動作が「点」(単発事件)で表されるか、「直線」(連続または繰り返し)として表現されるものかを問題とする。時について考えれば、「時制」という言葉が用いられる。それによると、「過去」に「点」で表される事件は〈不定過去/アオリスト〉、過去にある事件が起こり(点)その結果が現在にまで及んでいる(直線)のが〈現在完了〉である。

不定過去(アオリスト)とはギリシア語で使われる文法用語で、範囲が不確定の(完了でも継続でも反復でもない)、単にあることが起ったということを表す時制。

 

不定過去は直線で表すことができない、あくまで「点」。ここにキニャールは「水源」のイメージを重ねているのだろう。本来、時間とは方向性を持たない。そこにわれわれが過去→現在→未来というように名づけることで、「流れ」のようなものを想定している。たとえば歴史を考える時など。それで時間は流れている、という感覚を当たり前のものだと思っている。けれど本当にそうだろうか? 第二次世界大戦という人間性の終焉ともいうべき出来事と同じくしてラスコーを始めとする古代の洞窟壁画が発見されるという事実を目の前にして? キニャールの問いかけはこんな所から始まっているらしい。

1802年のある日のグローテフェンド、楔形文字を解読、

1821年のある日のシャンポリオンヒエログリフを解読、

いずれも、〈往古〉の痕跡の研究、そしてその発見、それによる歓び。

 

 

ワインの一本一本は、交換不可能な一年である(交換可能なものなど、通貨以外に本来何もないことをここで付け加えるべきであるが。実際、通貨以外のものはすべて交換不可能である)。

過ぎ去った唯一の過去、言いあらわし得ない過去がもたらす喜びとはつまり、幸福感のことである。

みずからに定められた生の時間を乗り越えて、死者たちがわたしたちに喜びをプレゼントしてくれるのだ。

(前掲書、93頁より引用)

 

瓶の中の〈往古〉。

 

現実が滅び落ちた深淵の淵から、記憶が思い出を連れ戻すとき、思い出は沈黙にそぼ濡れている。

一切の騒音が洗い流されたかつての場面から、死者たちは戻って来る。

(前掲書、289頁より引用)

 

書物とは、語りかけるひとりの死者である。

(前掲書、160頁より引用)

 

一冊の書物の中に存在する〈往古〉から還ってくる死者たちとの遭遇。それは読書をしている時に、あるいは遺跡の発掘調査をしている時に、古代文字を解読しようとしている時に、起こり得る出来事だ。手に取るあらゆるものが〈往古〉の痕跡かもしれない。われわれの存在自体もまた。

〈往古〉(jadis)というフランス語は、Ja-a-disと分解され「すでに/あった/日々が」と翻訳できるそうだ(143頁)。それを想定した時にふたつの思考の道筋があるように思う。それは、〈往古〉の現在への噴出、そして起源〈往古〉への回帰。こうして時間は円環し、はじまりもおわりもない、永遠というものが感じられはしないだろうか。さらに人間が認識し得る噴出も、回帰もすべて言葉によるのだから過去は忠実な再現などではなく、それをめぐる解釈の反復が絶えず人間の前にひらかれている。

 

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