言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

悪夢と数珠つなぎの呪い―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んで

この小説は「悪夢」に似ている。それをみている間、確かに私を支配していた秩序が、目覚めとともに支離滅裂になって霧散する。嘘くさいとか、あり得ないとか、そういう言葉で割り切ることができない確かに存在した「悪夢」であったはずなのに、そこにあった時間や空間の確かさ(恐怖や説得力)は目が覚めるとあっけなく崩れ落ちる。たとえば「悪夢」の中で「私」は一人じゃない。「私」を見ている「私」が出て来ることも、一貫性のない「私」が数珠つなぎになって現われることもある。それは「悪夢」に登場する他人にもいえる。

今回紹介する本は、カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年)。

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長らく日本語訳が待ち望まれていたカルロス・フエンテスの長篇小説で、昨年はじめて日本語による完訳が出版された。1頁二段組みで1000頁を超える大著だ。今月はずっとこの本にかかりっきりになってしまっていた。全体が三部構成で、「第Ⅰ部 旧世界」「第Ⅱ部 新世界」「第Ⅲ部 別世界」より成る。語り手が一貫しておらず、「わし」「私」「お前」「そなた」「彼」「彼女」が入り乱れ、とても読みにくい。一体誰のことを語っているのだろう? と考えながら、そうして語のイメージからおそらくこの人物について語られているのだろうと見当をつけて、ひとつの筋をつかもうとするようにその人物を読もうとすると挫折する。同じ名前や特徴を持った人物は、あたかも別の時空間に何人も存在するかのように分岐し、しかもある部分ではその出来事が夢なのか小説内の現実なのか判然としなくなる。

 

広場は現代風のものに見える。遠近画法によって遥か遠くにかすんだように描かれた情景は、いったいいつの時代のものだろう。遠景は後光のないキリストと裸体の男たちが演ずる、聖なる劇場の前舞台のそれに呼応するかのように、輪となって遠いコーラスを響かせていたのだが。時間の中に消え失せたかのように、遠くに微細に描かれた情景。絵画空間における際立った遠近法のせいで、情景は遠ざかり、遥かな時間そのものと化している。

(前掲書、126頁より引用。セニョールが見ているオルヴィエートの絵画の描写であるが、この『テラ・ノストラ』という小説作品の全体について語っているように思えてならない。)

 

 

一応、小説の「あらすじ」のようなものを紹介してみるが、おそらくあまり意味がないだろう。小説は1999年7月14日のパリから始まり、同年12月31日で終わる。1999年を生きる隻腕のサンドイッチマンであるポーロ・フェーボはパリで起きる様々な異様な出来事を見ている。下宿管理人である90歳を超える老婆マダム・ザハリアの出産に立ち会う。子供は逆子で、「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」を持つ男の子であった。それから古い手紙を見つける、「そなたはその子をヨハンネス・アグリッパと名づけねばならない。」(25頁) 

ポーロ・フェーボがセーヌ川に落ちたところで1999年7月14日パリのエピソードは幕を閉じる。そしてここから先は、新大陸発見前後のスペイン(ハプスブルク家スペイン)が舞台となる。フェリペ二世(作中ではほとんどセニョールと表記される)を中心に妃であるイサベル(作中ではセニョーラと表記される)、先代の王であるフェリペ美王、その妃狂女王フアナ、宮廷に仕える勢子頭グスマンや年代記作家、宮廷画家をしている修道士などなど、様々な人物たちによって16世紀のスペインの暗黒面が語られる。かつてキリスト教異端者に加えた大虐殺、キリスト教会、ユダヤ人街、アラブ人街で三つの名前を持つ人物(おそらく古き良き時代、3つの文化が混淆していたスペインの象徴)が生きたまま火炙りにされる事件。「不動の永遠性」を志向するフェリペ二世は死の霊廟(エル・エスコリアル宮殿)の建設を命じ、そこに代々の王たち30人の遺体を安置する計画を進める。母である狂女王フアナは夫であるフェリペ美王の遺体を防腐処理して霊柩車に乗せ各地を遍歴し、息子の霊廟を目指す。ある時フェリペのもとに集まってきた3人の「遭難者」は、背中に十字、そして両足には各々六本の指を持っていた。3人のうちの一人が語る「新世界」の光景がそのまま小説の第Ⅱ部になっており、コンキスタドールによる新大陸進出がアステカ神話の世界を交えつつ描かれている。湖上都市テノチティトラン(アステカの首都、現在のメキシコシティに相当する)、トラテロルコ(メキシコの過去から現在に至る3つの時代を象徴する建物が並んでいる場所。メキシコの悲しい歴史の記念碑的場所で三文化広場と呼ばれる)という地名からその後のメキシコを彷彿とさせる。「忘却」の原理を巧みに用いながらイメージを膨らませ、とても長い時間を扱った様な語りだ。

第Ⅲ部別世界では再び、フェリペ二世を中心としたスペインに戻る。ここで明らかになるのは「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」という作中何度も繰り返される特徴の発端が実はローマ帝国ティベリウス帝の時代、イエス・キリストが活動していた頃)にまでさかのぼる、ということだ。これはあたかもローマ帝国から延々と引き継がれてきた「呪い」のようなもので、スペインを介し、メキシコにまで受け継がれてしまっていた。「呪い」は単線ではなく、メキシコに受け継がれるのと同時に世界各地にまで引き延ばされている。だからこそ、小説冒頭の1999年パリにも「左右の足には各々六本の指、背中のくぼみに盛り上がった赤い十字」を持つ子供が生まれているのだ。

 

――わたしはもっと謙虚な人間でした。目を開けたのは、三冊の本を読むためでした。遣り手婆さんの本と、憂い顔の騎士の本、それに色事師ドン・フアンのそれです。信じてください、フェリペ。本当にその三冊のなかにわれらの歴史の運命を見出したのですから。

(前掲書、1038頁より引用)

 

フェリペ二世という歴史上の人物、フエンテスによって創作された多くの人物に加え、スペイン文学の作品である『セレスティーナ』『ドン・キホーテ』『セビーリャの色事師と石の客人』の登場人物まで現われ、同一の空間で語る(ちなみにカフカの「変身」を思わせるテキストや、登場人物たちがどこか異なった存在に変身しているように見える描写がある。さらに後半、有名なラテンアメリカ文学の作品に登場する人物たちも現れる)。メキシコ皇帝マクシミリアン一世(1832-1867年)の即位と処刑、メキシコ最初のスペイン植民都市であるベラクルスが1914年に今度はアメリカによって占領されたことまで語られている。そしてフェリペ二世、セニョールの死と、彼自らが建造を命じた「死の霊廟」の三十三階段を昇ってゆく印象的なシーン、その果てに辿り着く1999年の≪死者の谷≫(マドリード近郊にあり、スペイン内戦でフランコ川の戦死者を追悼する大きな十字架が聳えている場所。スペインのために戦死した者たちのための、聖十字架の記念碑)。

 

引き離された二つの時間の一致。ひとつの人格を完成させ、ひとつの運命を完遂するためには、いくつかの生が必要なのだ。不死の人々は自らの死以上の長い生命をもっていた。しかしそなたの生命ほど長い時間を持つことはなかった。

(前掲書、1073頁より引用)

 

最後は再び1999年、隻腕のサンドイッチマンであるポーロ・フェーボが過ごすパリの12月31日。この作品の中で最も新しい時間はこの地点である。おそらく2000年はおとずれない、というかおとずれる前に小説は終わり、最後はこんなふうだ。

 

パリの教会に十二の金の音が鳴り響くことはなかった。しかし雪は止んだ。翌日には冷たい太陽が輝いた。

(前掲書、1079頁より引用)

 

雪が止み、印象的な太陽の輝き……あたかも冒頭の1999年7月14日に引き戻されるかのような余韻とともに小説は幕をおろす。

 

と、あらすじ(のようなもの)を書いただけでこの分量になってしまった。ブログ記事ひとつで終わらせたいところではあったが、続きは次回に持ち越しとしよう。次回以降は、もう少し作品の内容に踏み込んでみたい。たとえばこういうことを書こうと思っている。

「この作品に見られる二重になった円構造」「唯一のものと多様性」「人物の秘匿性」「可能性の選択と抹消」について。

カルロス・フエンテスはこの作品の枝分かれ的存在として『セルバンテスまたは読みの批判』という書物を著した。一元的な「読み」ではなく、多様な読み、「異端的読書」という可能性が、今われわれの住んでいる世界の認識を作っているのではないだろうか。汲めども汲み尽くせぬ長篇を前に、あれこれと考えるのもひとつの呪いかもしれない。

 

――そなたは千日と半分と申したな? しかし五十あるエピソードの二十とおりの話ということになると、半日分が足りないではないか。

――それは決して満たされることはありませんよ、フェリペ。半日分というのはこの本の無限の読者のことですから。人がこの本を読み終えると、もうひとりがその一分後に読み始め、それを読み終えると、また一分後に別の人間が読み始めるんです、それをずっと続けていくと、ウサギとカメの昔話のようになり、誰ひとり競争に勝つことができません。本は決して読み終えることができないのです、本は万人のものだからです。

(前掲書、839頁-840頁)

 

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