言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

二重の円 / 唯一と多様―カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

 

 

前回に引き続き、今回もカルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』を読んだ感想を書いていきたいと思う。

カルロス・フエンテス 著、本田誠二 訳『テラ・ノストラ』(水声社、2016年)

f:id:MihiroMer:20170329205839j:plain

 

前回記事↓↓

mihiromer.hatenablog.com

 

■二重の円構造

 

 

この作品の構造が「円環」になっているということは、同じイメージが何度も反復されることや、「回帰」への志向を感じさせる記述があることから、小説を読み始めてかなり早い段階でわかってしまう。この「円環」構造についてはいろいろな人がいろいろなところで言及しているので割愛するけれど、今回私は作品を形作る円が「二重」になっているように思われてならないのでそのことを以下にまとめておく。

ふたつの円を仮定する。「大きな円」と「小さな円」。

この二重の円の上を作品内の時間は回っている。一つ目の「大きな円」とは例えば、ローマ帝国の時代から現在まで受け継がれている「呪い」(背中に十字、両足の指にはそれぞれ六本の指)の歴史、そしてそれが1999年12月31日で閉じられる世界であるようなこと。適切かどうかはわからないが、「繰り返される歴史」としての円環を考えることができると思う。世界史全体の反復だ。加えて、この作品で最も多く語られている新大陸発見前後の時間に人類は世界認識において、とても大きな発見をした。それは地球がまるい、ということだ。それ以前の人々は、船出をして大海原をどこまでも真っ直ぐに突き進んでもあるのは、海の終端であると信じていた。海面が滝のようになり、深い所へ落ち込んでいる、それが世界の終端だった。地理的にもはじまりがあり、終わりのある世界認識の中で人々は暮らしていたのだ。ところが、大航海時代になると、どうやら地球は平面ではなく、球体であり真っ直ぐに航海していっても世界の終わりには辿り着かない、いやもしかしたら一周して出発した地点へ戻って来るのではないか? という世界認識に切り替わっていった。これらが私の考える「大きな円」である。それに対して「小さな円」とは何か? というと、それはもっと個別的な物の円環で、言ってしまえば「大きな円」という世界の前提によって囲まれた世界の内部で生起する様々な反復だ。世界に存在する多くの個が描く輪のようなものとでも言おうか。たとえば、ハプスブルク王家の存続。

 

――(……)フェリペ、よく聞くのよ、私たちの王家が消滅することはありません。そなたのお父様はそなたの後を継ぐだろうし、お爺様はお父様を、曾爺様はお爺様を、という具合に、初代に至って誰もいなくなるまで継いでいくからよ、(……)そなたのもとにある以外をよく面倒をみるのよ、誰にも盗まれないようにしなさい、彼らこそそなたの子孫となるのだから。

(前掲書、310頁より引用)

 

私達が普通する世代の認識とは異なり、完全に逆行していて気味が悪いのだが、これも円環のなせる業だろう。一見すれば世継ぎのいないフェリペ二世はハプスブルク王家の終端になってしまいそうだが、狂女王フアナ(フェリペ二世の母親)によればそうならない。終端まで辿り着いたら今度は発端まで戻ればいい。そうして発端まで戻ったらまた終端まで進めばいい。始まりと終わりを繋ぐことで「永遠」を担保するという考え方はひとつの円を描いているように見える(終端→発端、この場合円を逆回りにめぐっていることになるが。こういう円環の逆回りは三十三階段にも見られる。昇って行けば「死」へ、地下墳墓へ下って行けば「生」へと向かうことになっている)。狂女王フアナと思われる語り手が別の時代(マクシミリアン一世)を語っていることから、何度も転生し、過去と現在と未来をめぐり続けているように感じられる部分もある。

他に「小さな円」として思いつくのは、フェリペ二世やセレスティーナ、ルドビーコといった主要な登場人物たちの「転生」とも言うべき個人的な反復だろう。セレスティーナに関してはその存在がはっきり「分岐」している。二人のセレスティーナが同じ時空間にそろって、それぞれの時の生へ分岐していくようにも読めるし、未来のセレスティーナ(魔女セレスティーナ)が過去のセレスティーナ(処女セレスティーナ)へ回帰していくようにも見える。不思議な場面だ。

 

少女は血塗られた石の上で転倒した。父親が少女を起こそうと走り寄った。その前にセレスティーナが駆け寄って少女の頭を撫で、手を差し出した。少女は涙をいっぱいためてセレスティーナの手に口づけした。少女が顔を上げると、子供っぽい唇にはセレスティーナの傷がくっついてしまった。セレスティーナは自分の手を見た。それはたしかに自分の手に違いなかった。穀物倉庫で行われた婚礼での、嬉しくも恥じらいを含んだ花嫁の手だった。すでに拷問の痕跡は消えていて、少女の唇には傷のタトゥーが輝いていた。

(前掲書、748頁より引用)

 

灰色の目、唇のタトゥーという特徴を他のセレスティーナへ受け渡すことで、新しいセレスティーナに個の生命を生き直させるのだろうか。新たなセレスティーナは、特徴を受け渡した旧いセレスティーナと同じ運命(同じ円)を辿るのかもしれないが、存在している時間は少しずつずれていく(このずれを伴って我々は1999年7月14日の「約束」を読む事になる)。こうして時間から時間へ旅をしているのかもしれない。

 

この作品には反復が非常に多いので、例を挙げ続ければきりがなくなってしまうからこの辺で切り上げるけれど、ひとまず私は世界を包むような「大きな円」とその内側で反復する「小さな円」的な存在の二重構造で小説が書かれているように思った。

 

■「唯一」と「多様」

 

死の霊廟たるエル・エスコリアル宮の建造を命じ、そこに歴々の王の遺体を安置したフェリペ二世が志向したのは、「不動の永遠性」であった。それは言い換えると「硬直した死の世界」といえるかもしれない。遺骸という硬直した存在、まるで時間が流れていないかのように延々と続くフェリペ二世の独白は読んでいて暗澹とした気持ちになる(この作品の、こうした独白による時間の停滞は読んでいて正直苦痛だった)。

「不動の永遠性」を保ち続けるために、フェリペ二世は「唯一」のものを尊ぶ。1であること、オリジナルしか存在しないという意味での「書かれたもの」へのこだわりだ。しかし、私たち読者はグーテンベルク活版印刷が15世紀に開始されたのを知っている。セルバンテスの『ドン・キホーテ』(後篇)の中に、印刷所を見学する遍歴の騎士ドン・キホーテが描かれているのを知っている。さらに彼の冒険が書かれ、印刷され、そして冒険のさなかにも広く読まれてしまうことを知っている。たくさんの複製が作られる中で読みの多様性が生まれ、唯一書かれたものを信奉する「信念の騎士」の存在がゆらぐのを知っている。

新世界の発見によって、「唯一」信奉されてきた現実がゆらぐ。「多様」な現実の前に、「唯一」の世界が崩れていく。小説の中でフェリペ二世はそういった現実に直面し、権威が少しずつ失われていく。唯一の世界が崩れた先には無数の、多様な世界が広がっている。フェリペ二世によって火炙りにされた「生命のミゲル」のあとに「三人の遭難者」が現れるのはなかなか象徴的なエピソードなのかもしれない。

 

関連記事↓↓

 

mihiromer.hatenablog.com