今回は前回に引き続きル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』より「童児神の山」と「水ぐるま」という短篇作品を2本紹介したいと思う。
ル・クレジオ 著 豊崎光一、佐藤領時 訳、『海を見たことがなかった少年』(集英社文庫、1995)
海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (集英社文庫)
- 作者: ル・クレジオ,J.M.G. Le Cl´ezio,豊崎光一,佐藤領時
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1995/06
- メディア: 文庫
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どちらの作品も「束の間の越境」を経験する少年の物語だ。「自分」を離れることの楽しさ、怖さを読んでいて感じた。束の間の越境、言い換えれば「ちょっといなくなる」という感覚は前回の更新風に言えば、子供の感覚に属するものだろう。子供たちは時々日常の外側へと平気で乗り出していく。大人になってしまうと自分の時間に生活が圧し掛かってくるせいか、この「ちょっといなくなる」ことが難しくなってしまう。簡単に日常の外側に抜けられない。私の大好きな「蒸発」(?)も生活がかかればそう易々とできなくなる(だから本を読むのかもしれない、読書は大人さえも簡単に違う世界へ連れ出してくれることがある)。
今回紹介する作品はどちらも小説の構造が面白い。そしてその構造からル・クレジオが密度の濃い描写で広げていく風景は美しく、何度でも読んでしまう。
■「童児神の山」
主人公の少年ジョンは六月の光に連れられてレイジャルバルミュール山を登る。ジョンが山を眺めると、まるで山のほうからも彼を眺めているような「視線」を感じていた。けしてゆるやかで楽しい登山ではなく、熔岩と玄武岩の鋭い岩壁に齧りつくように登る。風にあおられながらなんとか頂上に辿り着いたジョンは不思議な石を見つける。
そのときジョンは、今しがた小さな谷になった石塊をよじのぼっていたときと同じ身慄いを感じた。石ころはまさにこの山の形をしていたのだ。疑う余地はなかった――幅の広い角張ったふもとの部分も、半球形の山頂も同じだったのだから。
(前掲書、141頁より引用)
山の頂上で、自分が今しがた登ってきた山のミニチュア版みたいな石を見つける。ここから先の描写の広がりが圧巻だ。繰り返し登場する「視線」というモチーフの意味もここでようやくわかる。
ジョンは、目がかすむようになるまで顔をその黒い石に近づけた。熔岩の塊は大きくなり、彼の視線をすっかり埋めつくし、彼のまわりに広がっていった。ジョンは徐々に、自分が躰と体重をなくしてゆくのを感じた。今や彼は、雲の灰色の背中に寝そべって漂っており、そして光が全身をくまなく貫いていた。
(前掲書、141頁)
ジョンがこれまで麓から山を眺めた時、山のほうから感じていた「視線」。神的なこの「視線」をジョンとともに読者は体験することができる。山とジョンの大きさが「小さな石」を介してすり替わっている。はじめは山がジョンを圧倒的な大きさで包んでいた、その山とまったく同じ構造をした石を見下ろすことでジョンは、今度は山よりも大きくなって「視線」でそれを包み込むのだ。山のほうから感じていた「視線」、この非日常的な感覚を非日常的な「視線」の側から読者は辿り直すことになる。ここに少年の越境がある。
この視線を使った越境のあとで、彼は不思議な子供に出会う。あるいはこの子供が「童児神」なのだろう。山の頂上でひとりで生きているという子供は現実的な存在ではない。だが、ジョンとこの子供の間にある「人間」と「神」の境界線はすでに視線を使って乗り越えられていた。山の上という非日常的な場に「ちょっと行ってみる」ジョンの冒険は、生活の場という物理感覚以外の点でも不思議な越境を経験して、最終的に「人間の領分」に戻って行く。何度か登場する彼の「新品の自転車」の人工的な輝きは、レイジャルバルミュール山の神的な光に対して「人間の領分」を鮮やかに描いている。
■「水ぐるま」
夜明けから夕暮れまで、太陽の運行とその時間的変化とともに立ち現われてくる「ヨル」という神話的な世界。その中に一瞬だけ入り込むジュバは神話の王であると同時に熱い真昼の太陽に焼かれた労働者なのだ。牛を引いて夜明けとともに労働に赴く少年ジュバ。彼の牛が円形の道を歩き、水ぐるまの歯車装置を始動させる。水ぐるまに組み上げられた水が大地を潤す。その時間の推移の中で、太陽は昇り、沈む。まるで水ぐるまの回転によってすべてが引き起こされているかのような円環した時間を感じる。日のめぐりは水ぐるまのようにぐるぐる回る。巡る、繰り返す。そんな円環だ。単調な労働生活が少年の時間の中に昨日も今日も明日も存在し続ける。そんな時間の中にヨルが現われる。
彼の父によると、ヨルは「死者たちの霊だけのための都市」である。ずっと昔その都市をおさめていた若い王の名はジュバと同じ名前だった。
それから、太陽が車輪と牛の歩みに導かれて、ゆっくりのぼってゆく一方で、ジュバは眼を閉じる。熱気と光が心地よい渦となって彼をその流れに乗せ、広大な輪に沿って引きさらってゆく。その輪は実に広大で決して閉じることがないように思える。ジュバは白いハゲタカの翼に乗り、雲のない空のとても高いところにいる。
(前掲書、164頁より引用)
これがジュバの越境だ。いつの間にか空の高みにいるジュバはまるでヨルの支配者として群衆のざわめきやまばゆい光に包まれているように見える。
しかしヨルの出現は束の間である。太陽が沈んでいくと、ヨルは静かに崩壊していく。
大地では影が長くなり、太陽は徐々に西に、神殿の左方に降りてゆく。ジュバには、建造物が揺れて崩れてゆくのが見える。それらは雪のようになだれ、水ぐるまの歌が空と海で重々しさと嘆きを増す。空には大きな白い円、大きな波があって泳いでいる。
(前掲書、171頁より引用)
ジュバは今やヨルの廃墟で一人きりだ。緩やかな波動が壊れた大理石の上を通りすぎ、海の表面を乱す。円柱は水底に横たわり、石と化したこの大きな木の幹は藻のなかに埋まり、会談は呑みこまれてしまっている。もうここは男も女もいず、子供たちもいない。都市は海の底で揺れる墓場さながらで、波が寄せてはディアーナの神殿の階段の最後の数段を岩礁のように打っている。単調な音、海のざわめきは相変わらず続いている。それはまだ軋み、唸りをあげる大きな歯車の動きであり、一方轅につながれた番(つがい)の牛は円形の歩みを緩める。
(前掲書、171頁より引用)
空が印象的な描写が続く中で、死のイメージを喚起させる「海の底」の描写。今まで描かれた「生きていた」ヨルのイメージが途端に死に染まり、太陽もあるいは海の底に沈んでいく。そもそも「死者たちの都市」だったヨルが静かに言葉通りのイメージに落ち着いていく。しかし、水ぐるまの円運動に支配されているこの作品の時間はぐるぐるとまわる。
たぶん明日になれば大きな木の車がまた回りだして、牛がゆっくりと喘ぎながら、円形の道を歩きだせば、たぶんそのとき都市はふたたび真白な姿、太陽の照り返しのように震えるこの世のものとも思われぬ姿を現すだろうか?
(前掲書、171頁-172頁)
一日の労働を終え、再び牛を引いてジュバは道を急いで「生者たちの待つ家々の方へと歩いてゆく」(173頁)のだ。
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