先日、このブログを始めてから1年経ちました、というメールが届いた。どうやら1年続いたらしい当ブログ。1周年記念を謳った特別な更新は何もしないけれど、今後とも当ブログをよろしくお願いします(いつも見に来てくれる方々、本当にありがとうございます!これからも変な本ばっかり?主観たっぷりに紹介していきたいと思います。
さて、今回紹介する本はこちら。小説に明確なストーリー性を求めている人には向かない本だろう。
ル・クレジオ、豊崎光一 訳『戦争』(新潮社、1972年)
戦争が始まった。どこで、どうやってなのか、もう誰一人として知りはしないが、しかしそうなのだ。戦争は頭の裏側にいる、今日、戦争は頭の裏側に口を開き、囁きかける。数々の犯罪と罵りとの戦争、数々の眼差の狂熱、脳髄の思考の炸裂。戦争はそこにいる、世界に向って開かれている、世界を電線網で蔽っているのだ。毎秒、戦争は前進し、何ものかをもぎ取って、灰に帰してしまう。打ちかかるには相手が何であろうがいいのだ。戦争は夥しい数の牙と、爪と、くちばしを持っている。誰一人として最後まで立っていられる者はあるまい。誰一人として免除されまい。これなのだ、これは真実の眼なのである。
(前掲書、3頁より引用)
これがこの本の冒頭である。
普通「戦争」というと私達は武器を手にした戦いを想像するけれど、ル・クレジオが作品を通して「戦争」と表現したものは、我々を常にとり巻いているあらゆる状況の中に潜んでいるようだ。例えば、「眼差」、「言葉」、「ありすぎる物」、「欲望」、「衝動」、「思考」、「あまりにも多くの甘美さ、怖るべき甘美さ」……etc.
それは壁にはった紙に、花やバラ窓に書かれている。コップに、水の表面に、マッチの焔に、砂の一粒一粒に刻まれている。
(前掲書、6頁より引用)
実は、私はこの本をよく理解できていないままにブログの記事を書いている。書いて行けばそのうち何かわかるのではないか? というか、書きながら考えている。この行為自体があるいは「戦争」そのものかもしれないなんて思いながら。
戦争は、すべてを破壊することになるその風を起こした。灼けつくガス排気ポンプから出、一酸化炭素が肺と動脈の中に拡がる。口は円形に開かれて青灰色の煙の環を放出し、その環は踊りながら天井にまで昇ってゆく。唇は分れて致命的な一連の言葉、恐怖をおこさせる言葉を発する。これなのだ。これが戦争の風なのである。
(前掲書、4頁より引用)
この作品には一応名前らしいものが書かれる登場人物が二人いる。
ベア・Bと、ムッシューXだ。主にベア・Bの日常や思考の断片、手紙や手記など彼女によって書かれたと思われるものから本文が構成されている。その中に登場してくるのがムッシューXであるが、名前が表している通り、この人物には具体性がまったく感じられない。ベトナム戦争らしき描写も出て来るが、この作品は出来事を軸に「物語」が展開するような小説ではない。具体性・個別性を欠いた人物であるからこそ、後半混ざり合った様な奇妙な視点が挿入される。「ベア・X」なる署名が末尾にあるパラグラフがあるのだ。
漠然と読んでいるとベア・Bの印象として【TWAと書かれた赤いバッグを持っている】【青いビニールレザー装幀の小さな手帖】【そこに書かれた金文字SEMAINIER ≪PRATIC≫】という繰り返される描写が読者に刷り込まれる。この小さな手帖にベア・Bが何かを書きつけている。作中に登場する「あたし」という一人称はすべてベア・Bによるものだと思って読んでいく。すると突如こんな記述に行き当たる。
ときには都市の中心の、とあるカフェのテラスに、一人の娘がいるの。彼女は白いレインコートを身につけ、赤い旅行バッグを持ってて、そのバッグにはTWAと書いてある。彼女はコーヒーを一杯飲み、青いヴィニールレザー装幀の小さな手帖に何か書き込むんだけど、その手帖には、金文字でSEMAINIER≪PRATIC≫と記されているのよ。彼女が何を書いているのかあたしにはわからない。誰にもけっして彼女の書いてることはわからないでしょうよ。
(前掲書、304頁より引用)
この文章の後に署名として「ベア・X」と書かれる。つまりここでは「あたし」はベア・Xであり、ベア・Bではない。ベア・Bと思しき印象の羅列を有する存在は「彼女」という三人称で表現されている。これはどういうことなのだろう。ベア・Bという存在が、「見る」主体から「見られる」客体の存在に立ち位置をずらしているのだ。
「見る/見られる」ということ。
このことを意識することが「戦争」を読み解く鍵になっているように思えてならない。
結局のところ、そのことだわあなたに訊きたかったのは、あなたは可能だと思う?自分を表現しないところまで行くのが可能だと思う?きっと人間、何をしようが、いつもそれを、自分であることを求めてるのね、他人たちをやっつけること、世界を支配することを。
(前掲書、190頁)
SNSについてしょっちゅう考えていることがある。
私たちの身の回りに当たり前のように存在するSNSの存在はル・クレジオが提示する「戦争」のイメージに近いのではないだろうか?私はけっこう頻繁にTwitterのアカウントを消す。嫌になってしまうのだ。あの言葉の奔流の中は決して自由ではない。誰もが自己を表現することができるツールを前に、敢えて沈黙することの尊さを日々考える。Facebookでの幸せ(リア充)自慢にしても、Twitterの何気ないつぶやきも、意識的であるかどうかは別として「見られる」ことを前提に為される行為だ。
「見られる」ことを常に意識しながら私たちは他人の更新を「見ている」。戦争、自意識の嵐、自己表現の欲望の絶えざる衝突……。多すぎる言葉は暴力的に人を踏みつけてタイヤの跡みたいなものを残しながら消えていく。SNSの言葉は忘れられるのも早いのだ。たとえば、ちょうどこのブログの記事みたいに。
「見る/見られる」視線の応酬という戦争は、嵐のように猛威をふるい、そしてすぐに忘却の彼方へ消えていくのだ。