言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

水の変幻、その感触―小山田浩子『ものごころ』

今回は小山田浩子さんの『ものごころ』を読んだ感想を書いていこうと思う。

見えないものを、あるいは見えなくなってしまったものを見ようとする小説の試みを強く感じる一冊だった。

 

小山田浩子『ものごころ』(文藝春秋、2025年)

 

 

本書は「はね」「心臓」「おおしめり」「絵画教室」「海へ」「種」「ヌートリア過ぎて」「蛍光」「ものごころごろ」の9篇の作品を収めた短篇集だ。植物とかキノコとか虫とか、人間以外の動物を書いた著者の文章が以前からとても好きだった。帯文に〈植物が生え、花が咲き、虫や動物が乱舞する〉とあって、これは絶対好きなやつに違いないと思い読み始めたら、やっぱりたまらなく好きだった。帯文の続きはこうだ。

〈言葉の奔流、超高精細な描写による色あざやかな「子供の世界」へ〉

 

子供の頃はどうしてあんなに一日が長かったのか。それは感覚するものが多かったからだろうか、とよく考える。「慣れ」というものは人生を少し生きやすくしてくれるものだけれど、大人になるにつれてだんだんとこの世界に慣れてしまうことで、多くのものが見えなくなり感じられなくなっていくのではないか。ヤゴやトンボを見ても傷を負った犬を見ても花でもキノコでも、気持ち悪いとか綺麗だとか怖いとかかわいそうとか、なんだかありきたりな言葉しか出てこなくなるような気がする、こういう紋切り型以外の感慨を抱いたとしても誰に言ったって伝わらないのがわかるから言葉にすることもない。この感じが日常生活の実感であって、ある意味そういう状況に抗っているのが小説家なのだと思う。

大人になると慣れたり諦めたりして認識の外に追いやってしまうようなことも、子供は確かに感じている。著者の微細な描写が、もしかしたら子供の頃に自分が感じていた感覚ではないか? と思えてくる。一見特異な感覚のようでいて、よく考えたら確かにそうだったかもと思わせる、この本を読んでいる時間は、何故か懐かしい読書の時間になった。本書に書かれているのと同じ経験はしたことがないはずなのに、読み進めていくと、なんか覚えのある感触に出くわす。その度に懐かしさがこみ上げてくるのだ。その懐かしさの中には、実は後ろめたい感触も混ざっていて、例えば手の中でトンボの頭がもげた時のこと、捕まって保健所の車に乗せられ連れていかれる犬を見ていたこと、口に入れて遊んでいたおもちゃの一部を飲み込んでしまった時のこと……こういう私が経験したことは全然書かれていないのに、何故か強烈に喚起された。こういう力のある「超高精細な描写」なのだった。

 

収録された作品のあちこちに「水」のイメージが満ちている。そんな水のように言葉もとっぷり満ちている。そこに浸かっていると、ふいに呼び水のような言葉がきて話題の転換が起こり、気がつくと別の回想や話題の中に私は流されている。雨とか川とか水たまりとか海とか、同じ水でもそれぞれに違った感触があって、作中にちりばめられている水の感触はとても多彩で豊かだった。雨になったり川になったり海になったりする水の変幻自在さを思った。絵の中で雨が降っている。時にこの風景は夢なのか現実なのかと不安にさせられたりもした(「おおしめり」という作品には現実と幻想が言葉になってあふれそうなほど満ち満ちている)。

 

そもそも小説は見えないものを見ようとする営みなのかもしれない。

「心臓」という作品では〈生きている〉ということが胸に載せた手の上下の動きとして提示され、トンボの翅を透かして見る風景があって(「はね」という作品で何かを透かして見る先は思い出の見え方みたいだなと思った、透かしてみるのも覗き込むのも)、一本見つけるとつぎつぎ目に入る思わぬところに生えているキノコがあったり(この意外さにうひゃってなる)、肉眼で見るのと動画を撮影しようとして画面越しに見るのとでずれてしまう経験がある。蛍が光って飛んでいる夜ってこんな風景だったのか、川の上流に向かって泳いでいくヌートリアが「川の波が揺れるのを切り拓いて泳跡が私に向かって広がってくる」という感覚が過ぎてしまった時間を視覚化しているように思える……。変わっていく人間関係の当たり前のことだけれど切ない感じ、自分がかつて行こうとしていた方角を見ている犬が印象に残っている。

 

フジツボのおいしさ度、姫リンゴくらい?」「思い立ったら吉日饅頭」「安心の前入れ」など、「海へ」という作品に出てくる自家製の言い回しにクスっと笑う。

 

「いいからこっち側持つから。思いだろォ?犬は重いんだよ……猫は軽いんだけどよォ、猫は半分空気でできてっからさァ」「猫は半分は空気?」「調子いいとき、猫ちょっと浮いてっからなァ、今度よく見てみろ。よし、じゃあこれでいこうやァ」

(前掲書収録「心臓」37頁より引用)

 

 

そりゃないよ、とわかりつつも、こんなふうに世界を見ることができていたら生きることがきっと楽しくなるにちがいない。いや、やっぱ浮いてる時ある、モルモットとかも。

 

 

このブログ記事を書こうと計画していた日は朝から雨が降っていた。その雨が、図書館に行くのに車を走らせている間に土砂降りになった。運転をしながら、そういえばこの本もあちこち雨が降っていたり川があったり水の気配に満ちていたな。そんなことを考えていたらカーナビが「豪雨のおそれがあります、運転には充分注意してください」いやいや、「おそれ」じゃなくて今まさに豪雨に包まれてるんだよ!ハンドルを切った時、上流へ向かって流れに逆らい泳ぐヌートリアの姿が思い浮かんだ。と言っても、私はヌートリアを見たことがない。あくまで小説の描写(泳跡が素敵)と読んだあとネットで調べてみた写真の動物が過ぎていった。ここで白状しておくと、「ヌートリア過ぎて」という作品を初めて文芸誌で読んだ時には、この「ヌートリア」なる生き物が小山田浩子さんの創作物だと思っていた。

 

本を読んでその本について何か書こうと考えている、その時の自分が置かれた状況や抱いていた感情は何故か強く記憶に残ったりする。

ちなみにブログを更新した日も雨で、所によっては雪になった四月も終わりの北海道東部。