「飲食店」というべきところを時々うっかり「ごはん屋さん」と言ってしまう。私の中で両者の意味はほとんど変わらない。「ごはん屋さん」にはラーメン店も蕎麦屋もファミレスも喫茶店も、天丼かつ丼海鮮丼、コーヒー紅茶ケーキ……なんでも食べる物は全部ひっくるめて入っている。ごはんとは、動物の生存に必要不可欠のもの、一日2~3回食べるのが理想とされているもの、できればおいしく食べたいもの。……とは言っても、人間の場合はちょっと複雑で〈食との間合い〉みたいなものは人それぞれなんだなと思う。わたしはあまり食に興味がない。嫌いな(苦手な)食べ物はある。だが反対に「好物は何か?」と訊かれても答えられない。基本的に何を食べても深い感慨が起こらないというか、よほど嫌いな物以外、全部が同じようにしか感じられない。こだわりが無さ過ぎて困っている。なんて貧しい味覚なんだろう。かなしすぎる。こんな人が果たして「食エッセイ」を読んで大丈夫なのか?といくらか不安に思いつつ手に取った本。
小山田浩子『小さい午餐』(twililight、2024年)
本書は2019年1月から2021年1月までの約2年間、新潮社「考える人」のサイトに毎月掲載された、初めての連載「小さい午餐」をまとめたもの。お昼を外で食べた時に見たこと聞いたこと感じたこと、そして味わったものについて書かれたエッセイだ(「書いていくうちにどんどん虚実が混ざってエッセイでありながら私小説でもあり、でも確かに体感したこと」と本文にあった)。
いろいろなごはん屋さんが登場する。ラーメンやタピオカや回転寿司、途中コロナ禍があり弁当を買いに行ったりもする。それから海外へ出張した際に食べたものについても。広島にはお好み焼きの出前があるらしいというのには驚いたし、実は食に関することというのはローカルな要素がふんだんに盛り込まれているのではないだろうか、と読みながら感じた。だから旅と言えばセットで食の話題がついてくるのか、と一人納得もした(勿論、旅は食だけではないし、食ばかりクローズアップされると私はちょっと嫌な気持ちになる)。
この著者の文章になると、一人でごはん屋さんに行くことが異世界への旅みたいに読めてしまうこともあって、かなり面白かった。よく知っているはずだけど新鮮というかなんか変というか……。テーブルの上にこまごまとある物(割り箸や調味料)、あちらこちらから聞こえてくる話し声の真っただ中に自分はいる、そんな自分を異物のように感じつつも目の前の食べ物を「おいしい!」と頬張り、なぜか突然「帯状疱疹」について思い出したり、セルフサービスの冷水機から四角い透明な氷がたくさん入った水を汲むときに旅情を思ったりする。そして子供の頃のことや、今は思い出さんでいいことが浮かんできたりする。ごはん屋さんにいる一人一人、すべての人には個別の記憶や背景がある、事情がある。そういう「個」がたくさん詰まっているのがごはん屋さんだよな、と思う。スマホを見ている人、文庫本を読んでいる人、おしゃべりしている人。普段何気なく自分のいる場所について、その風景について、こうやって言語化されないと見えているつもりで全然見えていないことが結構あるのかもしれない。その書かれた微細な事柄の蓄積がごはん屋さんを異世界に見せてしまうのか(いや単にごはん屋さんという場が私にとってはじめから異世界なのか……?)。読みながら、日常を言語化したい欲望がむくむく湧いた。
「個」がたくさん詰まっているはずの場所が空洞になった時期があった。それがコロナ禍だった。当たり前にいていいはずの「個」が許されないものへと変容した。「他人の目」の存在を嫌でも感じた時期だった。世間というものは、まなざし、まなざされる中でできた場所だと改めて考えさせられた。悪く言えば勝手な決めつけとそれによって生じる感情でけっこう世界はできていて、今ここでこんなことをしても大丈夫だろうか?とおどおどきょどきょどしながら行動する。普段でもいくらかあるこの感触がコロナ禍で増大していた。著者の言う自分の中にこびりついたように存在する「正しい母や妻のあるべき像ジャッジ委員会みたいな人」って私にもいるなあ……と思う。全然悪いことなんかしていないのに、自分はこんなんじゃだめだと思う。正しくないと思う。でも「正しい」がどんなものなのか説明できない。
コロナ禍の一番ひどかった時からおそらくいくらか経っているだろうごはん屋さんの様子にじんわり温かい気持ちになった。そこは徐々に空洞ではなくなって「個」が満ちてくるのだ。同じ店に以前来た時のことが思い出されて心の中に満ちる。店内には「久しぶり」と言いながら人が集まってくる。
そうだここのレンゲは分厚いんだよなそれが欠点ちゃ欠点なんだけどでも欠点というほどでもないわなあ、そうだったそうだったと思い出しながらキャベツとモヤシをしゃきしゃきしゃきしゃき食べる。お久しぶりーといいながらお客さんが入ってきた。まず男性、次に女性、最後にもう1人女性の3人連れ、「あらー、お元気です?」女性店員さんが嬉しそうに言う。
(前掲書、175頁より引用)
ごはんを食べながら本を読むことには賛否両論ある(今は本よりスマホかもしれないけれど)。私としては、この本はごはんを食べながら読むと大変かもしれないと本気で思う。わりと容赦なく笑わせにくるのだ。汁物なんか食べながらこんな言葉に遭遇したら小さい誤算どころではない、大きすぎる誤算が生じる、にちがいない。
「牛肉専用の味蕾」、回転寿司のジャンルは「定食屋よりはカラオケとか遊園地に近い」、「なぜかパプリカの残響にポポポポーンというウサギなどのキャラクターのコマーシャルが空耳される」とか……笑ってもいいのか、これはなかなか「ディストピア」では?
「毎日飲んでいると悲しいような寂しいような気持ちになってなぜかディストピアという単語が浮かんでくるのが欠点」だと小山田さんの言うお手製ドリンクが気になって仕方なかった。今度作ってみようかな。