言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

時間の絶滅―ル・クレジオ『調書』

僕の舌には、嘔吐の味のようなものがあった。暑くて、あらゆるものがじっとりと汗をかいていた。自分でも覚えているが、僕は学生ノートを一ページ破り、その真ん中に書いた。

   蟻どもにおける

   ある破局の調書

ル・クレジオ 著、豊崎光一 訳『調書』(新潮社、1966年)、199-200頁より引用)

 

 

 

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今回の更新は、ル・クレジオ『調書』について。この変な小説について。

私が今回手に取ったのは1966年に出たもので、現在一般に入手できるものとは装幀がちょっと違う(引用箇所の頁番号などが現在入手できるものと異なっているかもしれない)。図書館カウンターで受け取った時には少しどぎまぎしてしまった。

 

 

調書

調書

 

 

今でこそノーベル賞受賞作家として世界的に有名なJ.M.G.ル・クレジオ。その彼が23歳の時に書いたデビュー作が『調書』だ。太陽や海、眼差といったル・クレジオ作品でお馴染みのモチーフはデビュー作からすでにあったもので、その変形や深化が彼の作家活動の地盤を形成しているのかもしれない。

 

『調書』について簡単に書いてみようと思う。この作品には「軍隊から出てきたのか、それとも精神病院からなのかよくわかっていなかった男」アダム・ポロが、街をぶらぶらしたり、海辺や動物園に行ったり、恋人と思しき人物に哲学談義を吹っかけたり、住居に出たネズミを退治したり、挙句、警察に捕まって精神病院送りになったりする様子が描かれている。描かれている、というよりは散りばめられている。A,B,C……と各章の頭にはアルファベットが付され、Rの章まで全部で18の章が存在する。それぞれの章にアダム・ポロの行為の断片がまるで痕跡のように残されているのだ。それぞれの出来事(行為)と出来事(行為)の間の時間関係がどうなっているのか、よくわからない。だから読者はよくわからない人物のよくわからない痕跡を、よくわからないままに追っていかなければならない(こういうはっきりしない読書体験を嫌う人も何かはいるだろう)。

ただ読んでいくとアダム・ポロなる人物はかなり変わったヤツであり、どうやら我々が「常識的な言葉」で包み込んでしまう以前の「世界」を見ているように思えてくる。我々の日常が日常として成立するためには、自分と周囲の間にある種の「暗黙の了解」が必要だろう。普通に暮らしていくぶんには意識する必要も敢えて言葉にする必要もない事柄というのは多い。そういった「暗黙の了解」によって多くの関係や感情には名前がつけられているわけだが、アダム・ポロが書き記したり、話したりする事柄はどうやら我々の「一般感覚的な言葉(認識)」からずれてしまっているように見える。

 

この小説を読んでいて私が一番強調したいことは、この小説には「時間が流れていない」ということだ。私もそうであるが、小説を書く人間なら一度は作品内の時間処理について考えるものだろう。小説を書くということは、広さはどうあれ世界を書く事であり、その世界には作者が当たり前だと思っている感覚が紛れ込む。例えば「世界には普通、時間が流れている」。しかし、アダム・ポロの時間の捉え方や、ル・クレジオの独特な描写によって、この作品には時間が流れていないのだ。その理由を以下のように二つにまとめて考えてみた。

 

 

この小説には何故時間が流れていないのか?

 

  1. この作品自体がひとつの「調書」(調査事項を記した文書)というスタイルをとっており、すでに誰かに記録として書かれ、固定化された世界を描いているから。
  2. ル・クレジオの描写のいたるところに「閉塞」「旋回という無限の巡り」「停止」「凍結」のイメージが喚起されるような描写があるから。

 

以下は少し長くなるが、この二つについて具体的に書いてみたい。

 

  1. この作品自体がひとつの「調書」ということ

この小説の仕掛けについて、最も端的の述べた部分はここだと思う。Oというアルファベットを付された章の冒頭部分である。

 

 

アダムがのちにどんな風にその続きを語ったか、それはこうだ。彼はボールペンで黄色い学生ノートに書きこんで、それを丹念に記述したのだが、そのノートは、ちょうど手紙を書くときのように冒頭に「なつかしいミシェール」と記しておいたものである。ノート全体が発見されたが、半ば黒焦げになっていた。いくつかの個所は、そのページがバスケット・シューズや台所の残り屑など、あれやこれやを包むのに使われたり、またトイレットペーパー代りに使われさえしたため、さらには焼け焦げがあるために、脱落している。だからそれらの個所は再生されないだろうし、その欠如は、長さや特性の点で原文とほとんど変わらぬ白い空間によって示されるだろう。

ル・クレジオ、豊崎光一 訳『調書』新潮社、1966年、186頁引用)

 

『調書』という作品にはアダム自身が書いたというノートの部分と、アダムという存在を「彼」という人称代名詞で表現して「調書」を作成した人物の存在を想定することができる。「書く」ということ、「書かれる」ということ

ノートを書くアダムと、調書に書かれるアダムという二つの存在が見えてくる。「書く」「書かれる」ということについて作者は意識的であったように思えるのは、アダムの台詞にこういったものがあるからだ。

 

「重要なのは、いつ文字に書いてもおかしくないような仕方でしゃべるってことだ。そうすりゃ、自分が自由でないことが感じられる。人間は自分が自由であるかのようにしゃべる自由はないからな。」

(前掲書、37頁より引用)

 

やや長い最後の章でアダムは心理学の学生たちと思しき集団にあれこれと質問され、学生たちは何かをノートに書きつけている。この作中最後の出来事があるいは『調書』という作品全体の構造についての暗喩かもしれない。誰かが書いたアダム・ポロという存在についての「調書」には、参考資料的な位置づけなのか、アダム・ポロ自身による記述も含まれている。「書く」という行為が入れ子構造になっている。そして「調書」という形で読者の前に固定された作品『調書』が存在している。一見するとアダムの連続した日常の出来事に見える記述も実は第三者によって裁断され、「調書」に記されるために整えられたという設定が仕込まれているように見えてならない。だから作中のアダムは明確な時間軸の内に落とし込まれていないし(何せすべて調査結果の断片なのである)、アダムが何人もいるかのように読んでしまっても成立してしまうのだ。

 

同時性とは時間の全面的な絶滅であって、運動の絶滅ではない。

(前掲書、183頁より引用)

 

この作品から私が得る印象が、アダム・ポロの特異な物事の捉え方を表しているといっても良いのかもしれない。確かに行為(運動)は描かれている、時間は流れていないかもしれないが。

 

ちなみに少し脱線するかもしれないが、アダム・ポロの特異な時間感覚に浸っているとページの途中にいきなりこんなのが出てきたりする(写真)。この本文の断絶は、アダム・ポロの時間感覚とは異質なものだ。アダム・ポロの感覚ではないもの、つまり乱暴に言い換えてしまえば、我々読者にとって普通の時間感覚と思われるもの。アダム・ポロの感覚を描いた中に突如、読者の感覚を視覚的に表現し、混入させたものだと思う。

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2.ル・クレジオの描写が喚起する印象によって止まる時間

 

 

この小説は決して概念的ではない。「時間が止まっている」などとはどこにも書かれていない。書かれていないのに読んだ結果そんな風に思えてしまうということは、やはり描写に仕掛けがある。「時間が止まっている」などと書いてしまっては面白味のない設定の羅列になってしまう。ル・クレジオはあくまで具体的な物事を書くことに力点を置いているように見える。その物事の描写だけであたかも時間が止まっているかのように見せてしまうという筆力だ。

たとえば、「窒息」「閉塞」「停止」「凍結」「旋回」という語が反復されているとしたら?

言葉というものはイメージを伴うもので、小説は言葉でできている。いくつか引用して今回の記事を終わりにしたい。勿論、引用した部分以外にも、読みながらひっかかってくる描写が山ほどある。小説は読まないことには経験することができないと私は思うので、気になった人がいるならば是非一読してみることをおススメする。

あらためて『調書』という作品の文章は、脈絡がないように見せかけて、実は綿密に計算されて作られたものであることを再確認した。

 

昆虫どもがますます殖え続け、無数の影で天井を蔽い、焔の上に崩れ落ち、煮えたぎる蠟の花弁に足をのせてパチパチと音をたて、やすりで花崗岩の岩の壁をこするように空気をこすり、ありとある光の痕跡を一つ一つ窒息させながら、あわただしくうごめくさまを眺める。

(前掲書、12-13頁)

ほんとのところ、こういったことすべてが嫌いなわけではなかった。なんともものすごい暑さで、あらゆる物音は一つ一つ窒息し、まるで空気が厚みを増して雲に変貌しているようなのだ。」

(前掲書、20頁)

「巨大な魚は半時間のあいだ湾の中を回り、回るたびごとにその描く環を大きくして行った。魚の作る渦巻形は少しも完全なものではなかった。それはむしろ狂気の形象であり、一種の錯乱を現実の形に描いているものであって、暗い獣はその中で、冷たくまた暖かい海流の層に、いつ果てるともなく、盲目の鼻で衝きあたりながら、迷子になっているのだった。」

(前掲書、63頁)

檻の中で彼ら(三匹のやせた狼)が行っている旋回運動は、その規則正しさのゆえに、周囲の空間においてただ一つの実際に動いている点となっていた。動物園の他の部分はみな、そこにいる人々や他の檻を含めて、一種恍惚たる不動性の中に沈んでいた。周囲では人々は、いやこの狼の檻という鉄と木の棒でできた釣鐘形にいたるまで、突然凍結し、耐えきれぬ硬直のうちに固着していた。」

(前掲書、73-74頁)

 

アダムは、このように、望む時に、清潔な、人目につかぬ死を死ぬことができる唯一人の人間のように見えた。肉の頽廃や腐敗のうちにではなく、鉱物の凍結のうちに不感無覚で消えていきつつある、世界で唯一の存在と見えたのだ。

 方晶系化した世界の中心でダイヤモンドのように硬く、角ばって、砕けやすく、幾何学的構図によってその姿勢を定められ、その純粋への意志に閉じこめられ……(以下略)

(前掲書、64-65頁)

 

 

そういえば、以前私はル・クレジオの小説における過去の回想の描写についてこんなことを書いた。

 

過去と現在は絶えず錯綜する。思い出される過去、ル・クレジオの書き方はまるで回想を生き直しているようにも見える。と、いうのは回想として描かれる風景描写の密度が現在時制下の風景描写と変わらないのだ。

(過去記事「過去を生き直す眼差し」↓)

mihiromer.hatenablog.com

 

 

ル・クレジオが描く過去の回想の密度は小説作品内の現在時制下の風景と変わらない。そんな風に私は思っていたのだが、どうやらこれはル・クレジオの独特な時間の書き方、語の配置や反復の魔力のようなものにハメられていたものらしい(笑)ル・クレジオは自在に小説の時間を止めてしまいさえするのかもしれない。

 

 

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以下、私的なメモ(twitter/@MihiroMerでつぶやいたこと)

ル・クレジオ『調書』を読んだ。これからもう一回ちゃんと読み返すけれど、ひとまず読んでわかったことは、ル・クレジオが扱うモチーフって新しい作品までぶれてないってことだ笑。そしてこの人の書く文章はたぶん誰にも似ていない。

 

「たったこれだけのこと」(たとえば出来事として)を書くのに必要な語彙力について考えてしまった。私が面白さを感じる小説って、描写の厚みがハンパないような気がする。今私が何を書いても空疎に見えてしまうよ~。

 

眼、眼差。見ることの暴力性みたいなものも感じてしまう。かなり難解で読むのに時間がかかってしまったけれど、変わった読書体験ができた。たぶん、ある世界を初めて文字にしなければならないとしたらアダム・ポロみたいな記述になる。価値や法則が常識という名前でカテゴライズされていない状況。