言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

本を読むこと、本で読まれること―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想②

今回の更新は前回に引き続き、『ドン・キホーテ』後篇の感想を書いていく。前回の更新で今後書いていくことについて箇条書きにしておいたが、今回はひとつめ、「本」というものをめぐる諸々の話について書いていきたい。我々にとって「本」というものはごく当たり前の存在になっているのだが、よくよく考えるとこう、いろんな本を手に取っているというのは不思議なことであるように思う。

 

ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)

 

 

 

「そのうえ、このような勇ましくもキリスト教徒にふさわしい数多くの武勲のおかげで、ついに拙者は本に描かれ、すでに世界のほとんどすべての、あるいは大半の国々で印刷されて出まわるまでになりました。さよう、拙者の伝記がすでに三万部印刷され、天意がそれを妨げぬかぎり、これから千部の三万倍も増刷りされようとしておりまする。」

(『ドン・キホーテ』後篇16章、254頁、ドン・キホーテの台詞抜粋)

 

 

「本」というものをめぐる原作者と翻訳者、そして登場人物たちの意見と行動

ここでいう原作者と翻訳者について、基本的なことだけれど、一応はっきり書いておこう。原作者は前篇に引き続き、アラビアの歴史家シデ・ハメーテ・ベネンヘーリ、翻訳者はセルバンテスである。(そこに日本語への翻訳者として牛島信明が加わるという広がりは考えてみるととても楽しい。)歴史家であるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリがラ・マンチャ地方で資料を集めて、編纂した伝記が『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』つまり、「ドン・キホーテ」前篇である。それをセルバンテスが翻訳して読者に提示しているのだ、という設定で語られる物語なのだ。原作者が「歴史家」ということの意味は大きい。こうすることで、ドン・キホーテ(または郷士アロンソ・キハーノ)について語る時この人物は実在していたのだ、ということを強調することができるからだ。特に前篇はこの意味合いが大きかったが後篇になって多少崩れている。後篇世界において「ドン・キホーテ」前篇は出版され、広く読まれているのだという。おかげで、後篇世界ではいろいろな人が前篇に対して評価をくだす。そしてそれらの評価は書かれた歴史に対して、というよりも一つの小説作品に対しての批評になっている(どちらかというと、歴史家による云々という設定は後篇になると薄れ、前作や贋作の存在が際立つにつれ、『ドン・キホーテ』の小説性が際立ってくるように思われる)。

ひとつ、引用してみよう。ドン・キホーテの住む村にいる学士サンソン・カラスコの発言だ。

 

「あの物語の欠点のひとつと見なされているのは」と、学士が言った、「作者がそこに『愚かな物好きの話』と題する小説を挿入していることです。別にこれが駄作だからとか、書き方がまずいからというわけじゃない。そうではなく、それがまったく場違いで、ドン・キホーテ殿の物語となんのつながりもないからなんです。」

(前掲書、3章67頁より引用)

 

ここまで書いてしまうともう立派な「小説論」になっている。実はこの脱線作品である「愚かな物好きの話」に対して以前「ドン・キホーテ」前篇について感想を書いた時には積極的に意味づけをしてみた。しかし、どうやら発表された当時からこういった物語の脱線は歓迎されていなかったらしい。

少し離れているのだが、第44章冒頭で翻訳者によって原作者シデ・ハメーテ・ベネンヘーリの愚痴のようなものが紹介されるのだが、そこにはこの批評への弁解が綴られている。一部分だけ抜粋しておこう。

 

かくして原作者は、もともと宇宙全体でさえ扱うことのできる理性と才能に恵まれながらも、たえず物語という狭隘な枠内に身を置き、そこからはみ出ないように気をつけているのだから、そうした苦心をないがしろにしないでもらいたい、」

(前掲書310頁-311頁、44章、抜粋)

 

小説を書いていて、なんだか本文が散らかってくるな、と感じることがあるが、それについて作者が一々弁解している。「たえず頭と手とペンを、ただひとつのテーマについて書くことに、そして、ごくわずかな人物の口を介して話すことにさし向けてゆくというのはひどく耐えがたい仕事」(同じく44章より引用)とまで書いてしまう。

 

後篇の第三巻に掲載されている訳者解説も参考のために一応引いておく。

 

「『ドン・キホーテ』は小説のなかで行われた批評である」(アルベール・ティボーデ)とか、「あらゆる散文のフィクションは『ドン・キホーテ』のテーマのヴァリエーションである」(ライオネル・トリリング)といった認識は、いまやわれわれの共有するところであろう。そして、こうした認識との関連において言えるのは、『ドン・キホーテ』は自己省察の小説reflexive novelであることである。セルバンテスにあっては書くこと、つまり小説を作るという営為が絶えず反省され意識化されて、その過程が読者の前にさらけ出される。」

(後篇第三巻430頁、訳者解説より引用)

 

「読む」「読まれる」という関係や、それによって生じる新たなテクスト(贋作の存在や批評)、そしてそれらがまた読まれ、語られ、書かれるということ。「ドン・キホーテ」に含まれる小説を作るという営為は世紀を越えて、なんと我々の読書生活にまで忍び寄ってくる。現に私は今、『ドン・キホーテ』(後篇)を読んで感想を書いているのだから。

 

作中には「ドン・キホーテ」前篇を読んだ者と読んでいない者がいる。未だ前篇の物語を読んでいない者がドン・キホーテに出会った場合、そのリアクションは前篇でドン・キホーテに出会った人々と同じようなものになる(つまり、なんか奇妙な恰好をした変な奴がいるぞ!くらいの)。そういう人に加えて後篇ではすでに「ドン・キホーテ」を読んで知っている人々が登場し、公爵夫妻をはじめとした彼ら「ドン・キホーテ」前篇の愛読者たちは、ドン・キホーテを見て驚くよりもいかに彼を愚弄して面白い物語を演じさせるかを考える。

ここまで主に読まれた「ドン・キホーテ」について書いてみたが、物語も後半になるとドン・キホーテも読んでいる。彼が目を通したのは偽物の自分について書かれている物語、つまり「贋作ドン・キホーテ」である。(本編では「ドン・キホーテ続篇」という言葉があてられているが、ブログではわかりやすくするために敢えて贋作と書くことにする。)

彼は、人々が読んでいた「贋作ドン・キホーテ」を目にしたり、通りを歩いていてふと見かけた印刷所で『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(つまり贋作)の校正が行われているのを目撃することになる(この印刷所へドン・キホーテが行ったというのは面白いと思う。それまで本の印刷がどのようになされているのか知らなかったドン・キホーテがここではじめて本づくりの現場を目撃するのだから)。

 

「贋作ドン・キホーテ」によると偽物のドン・キホーテは前篇の最後に予告されていた通りサラゴサで開催された馬上槍試合に出場している。それに出るように仕向けたのは、偽物のドン・キホーテのごく親しい友人であるドン・アルバロ・タルフェという人物なのだが、なんと第72章において、ドン・キホーテはこの人物に出会ってしまう。

 

「それにしても奇遇ですね。だって、正直に申しあげますと、わたしはあのドン・キホーテをトレードのヌンシオ精神病院に治療のために入れてきたんですよ、それなのに今こんなところで、もうひとりのドン・キホーテがわたしの知り合いの男とはまったく異なるドン・キホーテがひょっこり目の前に現れるのに出くわすとは。」

(72章、381頁-382頁、ドン・アルバロ・タルフェの台詞)

 

ちなみに「贋作ドン・キホーテ」を知ったドン・キホーテは、その物語が偽物であることを証明するためにあえて予定を変更してサラゴサには行かず、バルセローナに向うことになる。

 

「そういうことなら」と、ドン・キホーテがひきとった、「拙者はサラゴサには一歩たりとも足を踏み入れぬことにいたそう。そうすれば、その新しい物語の作者の嘘を天下にさらし、彼の描くドン・キホーテが拙者ではないことを、余の人びとに知らしめることになるはずじゃ。」

(59章、181頁-182頁)

 

そもそもドン・キホーテは本(騎士道小説)を読んでいる存在だった、それがいつしか本(「ドン・キホーテ」前篇)で読まれる存在になり、その中で再び本(「贋作ドン・キホーテ」)を読んでいる。そしてその姿が再び本(「ドン・キホーテ」後篇)で読まれ、広く翻訳されているのだ。なんという広がりをもった「本」なのだろう、とこの構造の成立がただただ不思議でならない、というのが私の正直な感想である。

 

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