言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

時に挽かれるもの―オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』

今回は自分にとって三冊目のポーランドの小説、オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の感想を書いていこうと思う。

 

オルガ・トカルチュク著、小椋彩 訳『プラヴィエクとそのほかの時代』(松籟社、2019年)

 

 

ドルノ・シロンスクの国境の村タシュフ付近、ポーランド南西部に位置する架空の村プラヴィエクを舞台に、84の断章で描かれる、(おもに)人間の日常が、ポーランドの激動の二十世紀を浮かび上がらせる。

(前掲書、訳者解説より、361頁)

 

 

自分が暮らす領域に、どれだけの物があるのか、そしてどれほどの時間が流れているのかと思わず考えた。毎日使うからよく知っている物、見慣れた物、懐かしい物、人からもらった物、人に贈る物、今は埋もれている物、これから見つけ出す物……。

それから動物、植物、キノコ。それぞれに付随する膨大な時間の蓄積が、私の日常だ。

自分の日常には、他者の時間もたくさん含まれている。というか、そういう時間も全部含めて、この不完全な断片の「私」は生きているのかもしれない。そして死ぬということは、この関係性がばらばらに崩壊してしまうこと。

 

人はじぶんが動物よりも植物よりも、とりわけ、物よりも濃密な生を生きていると思っている。動物は、植物や物よりも濃密な生を生きていると感じている。植物は物よりも濃密な生を生きていることを夢に見る。ところが、物は、ありつづける。そしてこの、ありつづけるということが、ほかのどんなことよりも、生きているということなのだ。

(前掲書、59頁より引用)

 

 

作品に出てくるほんの小さな要素かもしれないが、私は読みながら、コーヒーミルの存在が気になって仕方なかった。そのコーヒーミルはある工場で、木と磁器と真鍮をひとつの物に組み合わせただれかの手によって存在することになった。そして毎日昼前にコーヒーを挽くある家にやって来て、温かくて生き生きした両手がミルを抱きしめていた。それから戦争があって、コーヒーミルはあちこち点々することになる。「世界の混乱を、からだいっぱいに吸い込んだ。」(60頁)混乱、破壊、絶望を経験した。やがてこの作品の主要な登場人物であるミハウがコーヒーミルを見つけ、リュックサックに隠して持ち帰った。その娘が家の前のベンチに持ち出し、遊ぶみたいにハンドルを廻してみた。

こういうコーヒーミルの存在があった。

ミシャは遊びのひとつとして空っぽのミルのハンドルを廻すけれど、母親のゲノヴェファはコーヒー豆を入れて挽いた。遊びが終わり、挽くということがコーヒーミルの存在の仕方になる。そしてこの家族の日常を作っている。

コーヒーミルのハンドルを廻すことで豆を挽きながら、日常の断片はできていく。これは「時間」が関係していることだ。時間がコーヒーミルのハンドルを廻している。時間に挽かれていくコーヒー豆とはなんだろう? それは、じぶんが存在することを知っているもの、ゆえに時間と死から自由ではないものすべてではないだろうか。

 

彼女はまるでコーヒー豆のようにちいさな自分が、宮殿みたいに巨大なコーヒーミルの漏斗の中に落ちていくような気がした。真っ黒い口の中に飛び込むと、そこは機会が豆を挽く只中。痛い。体は塵になっていく。

(前掲書、138頁)

 

 

時間は容赦ない。あとに残りそうなすべての痕跡を拭う、すべてを塵にして再生不能なまでに破壊しつくすのかもしれない。そして誰も時間から自由ではないのだ。

だからこの作品に登場するあらゆる存在は一回限りのものとして生きて、死んでいく。生者にはわからないけれど、死んだものにもたぶん続きがあって、それはもしかしたら水霊や悪人かもしれない。天使は人間と違った仕方で存在している。

 

作品の舞台となっているプラヴィエクという架空の村はポーランドの縮図のようなところ、大国に蹂躙されて、時には国土さえ変更になってしまうという断片化された「時」を歴史に持つ場所だ。コーヒーミルが豆を挽くみたいに、時間に挽かれて粉砕され、断片になったものどもが「太古」の意味を持つ「プラヴィエク」に降り積もっている。そんなふうに読んだ。本作が断章から構成されていることもまた、著者の時間の表現なのかもしれないと思った。

 

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