言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

大地と時と人と―パール・バック『大地』

パール・バックという人の作品をはじめて手に取った。

岩波文庫で全4冊ある長篇小説『大地』である。

パール・バック著、小野寺健 訳『大地』(全四巻、岩波文庫、1997年)

 

大地 (1) (岩波文庫)

大地 (1) (岩波文庫)

 

 

作者がアメリカの女性作家という情報を聞き知っていたのでページをめくって「???」、あれ? 登場人物の名前が王さん? ……何だか恥ずかしい私とこの本の出会いである。自分の馬鹿さ加減と普段は意識していない偏見丸出しぶりが痛ましい。日本人作家がジミーさんやダイアナさんやニコライさんを書いてはいけないのか?!と我ながら突っ込みを入れたくもなる笑。久しぶりのブログ記事はパール・バック『大地を読んだ感想を書こうと思った。

 

パール・バックは1892年アメリカのウェスト・ヴァージニア州にあるヒルスボロという町で生まれた。父は宣教師で任地が中国であったことから、パールは生後三か月の時に両親とともに中国へ渡った。以後、9歳の時に短期間一家で帰国した時と17歳になってカレッジに入学するために帰国するまでアメリカに行くことなく、もっぱら中国で育った(文庫解説より)。中国はパール・バックにとって自分自身の一部となっていたのだろう、なるほどそれで、中国を舞台にしたこの長篇小説が書けたわけだ。(……と浅学な私がひそかに納得するのでした。)

 

『大地』(三部合わせた原題は『大地の家』)は、第一部「大地」、第二部「息子たち」、第三部「崩壊した家」の全三部からなる。第一部「大地」は1931年にアメリカで出版されると瞬く間にベストセラーとなった。パール・バックは1938年にノーベル文学賞を受賞している。

ストーリー性の豊かな作品で、長編でありながら、読み始めるとどんどんページが進んでしまうような本だった。物語のあらすじを簡単に書くと、第一部「大地」では貧しい百姓であった主人公の王龍が、当時町で栄えていた金持ちの黄家の奴隷であった阿蘭を妻として迎え、二人で力を合わせて困難(飢饉や水害盗賊いろいろあった)を乗り越えていき、やがてたくさんの土地を持つ有力な地主になっていくというもの。そして第二部「息子たち」、第三部「崩壊した家」では資本家となった王龍の息子たち、そして孫たちが大地を離れて頽廃的な生活を送る様が描かれている。厳密に史実を検討していくとあちこちに矛盾があるようだが、物語のはじまりは清朝末期であり、終わりはだいたい1930年頃。この間の中国は国民政府の成立、国共合作、五四運動、辛亥革命……など、政治的・社会的動乱期であり、思想風俗の変化も急激に起こった。作中では「纏足」や男女の「結婚観」の変化が顕著に描かれている。太陰暦から太陽暦に変わろうとしていたり、前に畑だったところが絹織物の工場になっていたり……。

 

私が最も印象に残ったのは「人と土地の関係のあり方」だ。

 

春が過ぎ、夏が過ぎ、収穫の季節が訪れ、冬を前にした秋の暑い日差しのなかで、王龍はかつてその父がもたれていた壁を背に座っていた。いまの彼は、もはや食べ物と飲み物と土地のこと以外、何も考えていなかった。しかし土地といっても、もうそこから上がる収穫のことやそこに蒔く種子について思い煩うことはなく、土地そのものについて考えるばかりで、ときどきかがみこんでは手で土をすくうと、それを握りしめて座っていた。指のあいだの土は、命にあふれているような気がした。彼は土を握ったまま、満ちたりた気持でうつらうつらとその土を思い、そばにある棺を思っていた。土はすこしもいそがず、やがて彼がそこへ帰ってくる日をやさしく待っていた。

パール・バック著、小野寺健 訳『大地(一)』岩波文庫、1997年、463頁)

 

ちょっとびっくりしたのだけれど、一族の墓が作られる場所は畑、それも高台になった良い場所が選ばれる。土と共に生きた王龍が死んで土に帰るというのは(それに「土はすこしもいそがず」という大らかさが大地と生きた人らしい)彼らしい結末だと思う。ちなみに彼の位牌に刻まれた言葉は「霊肉の富、ともに土より出でし王龍」(第二巻、71頁)というものだった。

人間が大地に干渉して、土を作る。作物を育てることで食を得て、その作物を育てるのに人糞さえ撒き、さらに死ねば躯が畑の土に帰る……。こういう徹底して人間が干渉した大地の在り方と、外国(西洋)の大地の在り方の違いを王龍の孫にあたる王元という人物が第三部「崩壊した家」(岩波文庫3~4巻)で考察している場面がある。王元という人物は土から離れた生き方をする王龍の息子世代より土に近い人物として描かれている。父王虎が軍人なのに農業に興味を持ってしまって、革命騒動に巻き込まれて成り行きで留学した外国の地で、農業について学ぶ。

 

白人たちを養っている大地は元(ユアン)の民族を養っている大地とはおなじものではあっても、じっさいにその上で働いてみた元は、それが彼の祖先たちの葬られているあの大地とおなじではないのに気づいたのである。この国の大地は新しく、人間の骨が埋まっていない。そのために人間のものになっていない。この新しい民族にはまだ死んだものの数が少なく、彼の祖国の土とはちがって人間の肉体の精髄がじゅうぶんしみこんでいないのだ。

(前掲書、四巻、69頁)

 

元の国では土地は征服されて、人間が主人になっていた。山々の森林はとうの昔に裸にされ、いまでは雑草まで刈りとって人間用の燃料にされてしまっている。人びとは乏しい大地をだましだまし最高の収穫をあげることに専念し、こうしてぎりぎりまで酷使した土地に、こんどは自分の汗を、排泄物を、死骸を、何から何までぶちこんだ結果、もはや土地の処女性などはこれっぽっちものこってはいない。人間が人間を原料にして土を作っているのだ。人間がいなかったら土はとうの昔に疲弊して、空っぽの、子を産む力もない子宮同然になっていただろう。

(前掲書、四巻、70頁)

 

 

さて、こういう考察をした王元はどちらの大地に属すのだろうか?

彼は子供の頃から経済的には何一つ不自由のない生活をしてきた。自分は農業に興味があるのに、父には軍人になるようにと厳しい教育を施され(面白いことに、この父はさらにその父王龍に百姓になることを強制され、そのことに反発して出て行った経歴がある)、古い習慣に則って無理矢理結婚させられそうになったことに猛反発して家出、西洋的な都会の生活を経験してその思想にも触れる。従兄が革命思想の持ち主だったり、同じく母と都会で暮らしていた妹も自由な結婚をするなど「新しい時代」を生きている。けれど王元はその新しさの中にも(新しい都市、そして西洋風の家)、反対に祖父王龍の暮らした田舎の土の家にも完全に馴染むことができない。色々な価値観に触れて生きてきた王元は、新しい価値観に共感を抱くこともあればそれに嫌悪することもある。西洋的な新しさを嫌悪すると同時に祖国である中国への愛に目覚めるけれど、その国の負の部分をみれば嫌悪したくもなる。こうして、新しさと古さの間を振り子のようにゆらゆら揺れながら、彼はやがてどこにも属せない自らの孤独に気がついてしまうのだ。

 

(……)彼は何となく中途半端な、孤独な位置にいるのだった――いわば、この西洋式の家とあの土の家のあいだなのである。彼には真の家はなく、この家にも土のいえにもなじみきれないその心は、じつに孤独だった。

(前掲書、4巻、336頁)

 

土地から離れて生きることを選んだ世代たちの、そして変化の激しい時代に生きなければならなくなった世代の不安定さがにじむ。王元がどんなに農業について勉強してもそれは「勉強」でしかなく、「暮らし」にはなりえないのだ。

けれどそれは必ずしも不幸なことではない、と信じたい。王元は王元なりに自分らしい生き方をみつけていかなければならないだろうし、おそらくそうしていくのだろう。父、王虎が死に臨む場面で物語は終わるが、あるいはその死によって終わるものと、その後の世代によって続いていくものや新しく始まるものがある。親の財産を食いつぶして滅びに向かっていく家の子供たち孫たちの姿は、たとえ家が滅んだとしても彼らひとりひとりは滅びずにいて、そのことが古い価値観である儒教的な家意識を更新し、新しい時代に生きていくことそのものを表しているように思える。

 

「人と土地の関係のあり方」は国によって時代によって違うだろうし、何が正しいというわけでもなく、反復する価値観もあれば刷新されていくものもある。急進的な価値観の変化は希望と暴力を生む。そんなことを考えながら本を閉じてわが身を顧みると……確かに親の財産を食いつぶして根無し草になった感はあるなぁ……と(笑)またしょーもないことを考えてしまったところで、久しぶりのブログ記事を終えたい。