言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

言葉をなめて齧る夜―オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』


装幀がかわいいな、と思った。ページをめくると、このカバー絵は、アリツィア・S・ウルバニャック(Alicja S.Urbaniak)の「秋」(Autumn)という作品であることがわかった。今回は2018年ノーベル文学賞を受賞したオルガ・トカルチュクの『昼の家、夜の家』という本の感想を書いていく。

 

オルガ・トカルチュク著、小椋彩 訳『昼の家、夜の家』(白水社、2010年)

 

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

 

 

 

家々は夢をみるのか?

この作品は「わたし」のみた夢の描写からはじめられる。「視線そのもの」である「わたし」は谷間の家々を俯瞰し、「つながれた一本足の動物みたいな木々」や、屋根の下の、眠る人びとの身体を見る。その後にも人家や教会、修道院など建築物の描写が登場するが、これが人間のメタファーということらしい(訳者あとがきより)。

 

わたしはマルタにこう言った。人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家、時間と空間のなかにしっかりと固定された家。もうひとつは、果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会も永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時にすんでいるのだと。

(「わたしのお屋敷」259頁より引用)

 

「昼の家」とは人間の意識を、「夜の家」とは夢や深層意識を指している。また前者は、現実世界や、世界の可視的な表面を示す一方、後者は、普段は目に見えない、しかし誰の日常にも確実に潜んでいる神秘をあらわしている。

(訳者あとがき、378頁より引用)

 

私にとってこの本ははじめて読んだポーランドの小説だ。

1998年に出版された著者オルガ・トカルチュクの長編第四作。本作でニケ賞に二度目のノミネート、英語版は2003年度の国際IMPACダブリン文学賞最終候補となったそう。

『昼の家、夜の家』はポーランドにおけるドイツ問題という歴史的、政治的な問題を扱いつつも、チェコとの国境に近いノヴァ・ルダ周辺の人々の日常生活や地元に伝わる伝説を書くことで、大局的な歴史が人々の暮らすごく当たり前の日常のすぐ下、足もとにある土地の出来事なのだという深い実感が込められている。

ポーランドは歴史(政治)に翻弄され、たとえば作品の舞台のひとつシロンスクは国境線の移動によってしばしば帰属を変更させられてきたという事実がある。そこから作者の構想する流動性、すべては不安定でたえず変わっていくものという世界観が生じてきたのだろうが、それはポーランド歴史観にとどまらず、人間観にまで敷衍する。日常生活を営む昼の家、夢をみる夜の家。赤土のせいで両手は赤茶色に汚れ、手を洗うと赤い水が流れる、雨まじりの雪が降れば粘土質の土壌にたまった雨水が大小の小川となって丘の上から家に流れ込む。なす術もなく、水は家の地下を通したほうがいい、ということになるそんな暮らし。これが昼の家。流れる水の音、あふれる水の音がきこえてきそうな昼の家。

夜の家という夢の中での視線の移動のように、人間も流れる水のようにまたうつろう。イエス・キリストの顔を与えられた聖女の伝説を書く修道士は女になることにあこがれ、自分ではない自分を望む。自分の中に鳥がいるような気がしてその羽ばたきに慄くアル中のマレク・マレク。人の考えがたまる(蓄積する)という髪、それでつくったかつらをかぶるということは、他人の考え方をかぶる勇気のいること。

流動性」というたえず変わっていくという不安定さは、自分が何者にもなり得るということと同時に、自分という存在が何か別のものになり変わってしまうということでもあるかもしれない。そしてその両方にはあまり意味がなくて、雨が降れば池の水があふれるような感じなのだと思う。「自分」という垣根の消滅、そのひとつのあらわれ方が夢だ。それは死に近いことでもあるのかもしれない。いつも世界の半分は夜で眠っている人々がいる、そしてもう半分は昼で生活を営む人々がいる。だれかが死ねばだれかが生まれる。そんなふうにして世界はできているらしい。

 

水はコンクリートの堤を越えて、池の表面からあふれ出し、ほとんど橋にまで届きそうだった。濁って赤く、どろどろと濃くて粘っこい水だった。いつものようなさらさらした流れではなくて、わめき散らすような水音が、いまにも悲鳴に変わりそうだった。黄色いゴム長に黄色いレインコートを身に着けたRは、幽霊に似ていた。途方に暮れた彼が、土手に走り寄るのが見えた。彼の魚が、暗褐色に泡立った深みのなかで、不安にさいなまれながら、死にかけているのも見えた。

(「雨」185頁より引用)

 

作品に登場するキノコの種類やその描写から、やはり東欧は野生のキノコを食べる地域なのだ、と改めて感じた。「マッシュルームは手ざわりのいいキノコで、人の指に撫でられるのが大好きだ。(中略)しかもこれは、数少ない、ぬくもりを感じるキノコのひとつだ。人の身体にぴったり寄り添うキノコなのだ。」(167-168頁)なんて書かれていて、とってもかわいい(だけれどこいつにそっくりなシロタマゴテングタケという死の職杖がマッシュルームの群生を、遠くから監視しているのだ「まるで羊の皮をかぶったオオカミみたいに。」)。

 

以下の文章がこの本の中で一番気に入っている。私が信じている文学の、小説の言葉というものについて鋭く指摘しているように思ったからだ。

 

だって、言葉と事物がつくり出すのは、象徴的な空間だ。まるでキノコと白樺みたいに。事物の上に、言葉が生えて、そのときようやく、意味を持つ。風景のなかで成長して、口に出して使われる準備が整う。そのときようやく熟れたリンゴみたいに、言葉を楽しむことができるのだ。においを嗅ぎ、ちょっと味を見て、表面をなめてみる。それから音を立てて半分に割り、はにかんだ、みずみずしい中身を調べる。そこまで向かって成長しながら、べつの意味で使われることだって、できるから。そうでなければ、言葉なんていっさい死んでしまう。

(「言葉」、225-226頁より引用)

 

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断片から成る一冊が断片の町ノヴァ・ルダを語る。家にいながら旅をすることができる本、それもガイドブックには載っていないような場所までも。

 

 

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