言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

でもまずはきのこを見つけなくては。―ロン・リット・ウーン『きのこのなぐさめ』

先日、あまりに悩み過ぎて頭から虹色のきのこが生えたので、そのきのこが何者なのか気になり図書館できのこ図鑑を調べていた。自分の手が図鑑を引き抜いたために大きな隙間のできた書架をふと見ると、そこに倒れそうになっている本があったので思わず手を伸ばしてしまったのだ。それが今回紹介するこの本との出会いだった。

 

ロン・リット・ウーン著、枇谷玲子・中村冬美訳『きのこのなぐさめ』(みすず書房、2019年)

 

きのこのなぐさめ

きのこのなぐさめ

 

 

 

「悲しみの心象風景をさまよう内面世界への旅と,驚きと神秘に満ちたきのワンダーランドをめぐる旅をつづけ,魂の回復のときを迎える,再生の物語.約120種類のきのこが登場.」(本書の紹介文より引用)

 

一体なんだろう? ページを開くと、ところどころに見たことのないきのこのカラー写真がある、あ、これ、トガリアミガサタケってこういうきのこなんだ……、アミガサタケというのは、たしか前に読んだ翻訳小説に出てきた「憧れのきのこ」のはずだ。

などと思っているうちに、自分がこの本を見つけたこの状況は、もしかしたら「きのこオタク」が野生のアミガサタケを見つけた時と似ているのではないだろうか? それでそのまま貸出処理をして、家に持ち帰ってじっくり読むことにしたのだった。

 

マレーシアの人の著者は、文化人類学を学ぶ留学先のノルウェーで出会ったエイオルフという男性と結婚しノルウェーに移住したのだが、結婚生活のある日、仕事に出かけた夫がそのまま勤務先で急死してしまう。そのかなしみの中、ふと参加したきのこ講座をきっかけに、きのこの深い世界を知り新たな人間関係を作り上げていくことで著者が人生を取り戻す、と本書の内容を簡単に説明するとこんな感じになる。しかし本書は単なる癒しの記録(経験談)ではなく、それでいて単なるきのこの解説本でもない。人類学的視点からの冷静な文化比較と著者の考察が効いた不思議な一冊なのだ。きのこについて書いた本の中にマルセル・モースの贈与論やアルノルト・ファン・ヘレップの通過儀礼を見つける日が来るなんて思ってもみなかった。

特に興味深かったのは、毒きのこの線引きに関することで、これほどはっきりしていることもないだろうと思われるがちだが、実はグレーゾーンが大きいそうだ。言ってしまえば国によって線引きが異なっており、世界共通の毒きのこリストのようなものは存在しないらしい。

 

「あるきのこが食用か毒かという問いは、きのこに実際どんな毒があるかだけでなく、様々な毒性を持ちうる物質に対し国がどんな姿勢を示すかによるのではないか。」(144頁引用)

 

日本で愛されてきたマツタケの学名を巡ってひと悶着あったらしく、あやうく「吐き気を催すようなきのこ」と名付けられそうになっていたこと、マツタケの匂いを「汚い靴下」のようだと見なすアメリカの菌学者がいることなどを知って笑ってしまった。匂いを表現する際、多くの場合「〇〇のようだ」と分析的に書かれるが、この比喩の部分には発話者の文化的背景や経験、価値観などが反映されていないか気をつけてみる必要がありそうだ。ある古いデンマークのきのこの本ではシロヌメリカラカサタケ(Limacella illinita)がこのように書かれていると本書で紹介されている。

「弱臭で、まず小麦粉の匂いと漠然とした大地に匂いがし、底流にはメンソールやテレピン油の匂いが漂う。そこに吊した肉、鶏小屋、びしょぬれの犬、汗、汚れた洗濯物、さらに清掃していない公衆便所のような嫌な匂いも加わる」(183頁より引用)

 

テレビのグルメリポートで話される言葉の貧弱さには辟易するけれど、きのこの味や匂い、それからワインやチーズやコーヒーなんかについての専門家の言葉も可笑しいと思ってしまう。だけれどそれを単に「可笑しい」と一蹴するのではなくて、実は専門家というのは、深い経験からある特定の言葉(たとえば「花のような」)に同じ感覚を重ねていたりする(門外漢にはわからない)。

 

サブカルチャーの内部で微妙なニュアンスの共通言語をシェアしていると、外部にいた時の間隔をあっという間に忘れてしまう。部外者は、ばら、灯油、バター、馬の生皮、さくらんぼ、それにアスファルトといったワイン・トークなど空虚な上流気取りに過ぎないのでは、と疑念を抱きがちだ。(……)混乱を招くのは新しい用語ではなく、新しい専門的な意味を持つ「一般的な」言葉だ。様々な概念の新しい使い方を理解できた時、人は文化的な障壁(バリアー)を乗り越えたと言える。

(210頁より引用)

 

文化人類学的な視線で「きのこ界」を眺めると面白い発見が色々あるらしい、その発見の一端をちょっと齧ってみることができるのが本書だと思う。特に「野生のきのこを食べる文化圏」の翻訳小説を愛好する人にとっては必読書だろう。私は読みながら、オルガ・トカルチュク(ポーランド)を思い出していた。(意外にも本書で紹介されるノルウェーの食卓にきのこが並べられるようになったのは19世紀かららしいが。)きのこの知識は何より実践で身に着けられるものだと著者は書いていて、「実践」というのは味わうことや匂いを嗅ぐこと触れること、とにかく五感をフルに活用することだ。そうやってきのこを理解しようとしたことが、夫を亡くしたかなしみのために麻痺していた感覚を取り戻すのに役立ったのかもしれない。「悲しみの迷宮をめぐる旅」と「きのこの道を歩く旅」が互いにリンクしていく、奇跡的な本だった。

 

思わず「かわいい!」と思ってしまった部分を引用しておく。重たいテーマを扱いつつ楽しんで読めたのは著者のユーモラスな文章の力だと思う。

 

きのこを擬人化するなんて馬鹿げているのは分かっている。けれどもついきのこのことを、日常生活に当てはめて考えてしまう。特にアミガサタケは見つけるのが難しいので、私たちと隠れんぼをしているようだ。森の中で半日かけてきのこを探した後に、結局は車のすぐそばに生えていたといったことも、一度や二度ではない。彼らにようやく会えた時には、何だか彼らがくすくす笑うのが聞こえてくるようだ。きのこの目からは、私たちが見つけるのが上手くもなければ賢くもないのが丸見えだろう。

(163頁より引用)

 

実は私は野生のきのこを食べる文化圏に属しているのだが、きのこ仲間について本書で言及されている通り、自分のきのこの在り処を他人には決して教えない。もし教えるとしたら、その人は本当に信用できる人。このことは国を問わずきのこ界に共通の暗黙知なんだろうか?

 

※実際に頭から虹色のきのこが生えたかどうかはご想像にお任せします。

 

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