言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

よみあとの余韻―黒田夏子『組曲 わすれこうじ』

ちかくのもの,手にとれるものでも遠まわりにかけばついやした言葉のぶんだけはるけくなるようで,そのものとの間にある時間もふかくなっていくような錯覚の連続に,ほとんど恍惚としながらよんだ.

 

黒田夏子組曲 わすれこうじ』(新潮社,2020年)

 

組曲 わすれこうじ

組曲 わすれこうじ

 

 

 

 

いずれにしろ人はぜんぶの時間を持ちあるくしかなく,そこには記憶も記憶まがいも記憶ちがいも見さかいなくほうりこまれている.たぶん生まれるまえの時間も死んだあとの時間も,いれこいれこにいつのまにか身のうちにやどりついてしまっている他者の時間も,作中人物の時間も,一にちで四万六千にちぶんの日の時間も,手なおしをかさねて描線のみだれてきた時間もつぎつぎとほうりこまれつづけて世界はとてもいっぱいなのだった.

(前掲書所収「時間どうぶつ」166ぺーじより引用)

 

 

組曲,と題にあるくらいだから「だい1きょく」「だい2きょく」と続いていく17のてのひら小説を収めた1冊で,そのうちのいくらかは,文芸誌に3つずつくらいのっていたのを読んでいておぼえてもいたが,ばらけていたものも1冊にまとまれば互いにあわくつながりあっているらしく,かさなりあうところが濃いかげのようにどっしりと地にすわってひとつらなりの世界観をたしかにかんじさせる.とくにだい3きょく「みだれ尺」,だい7きょく「身がわり書き」,だい13きょく「はぐれうた」,だい14きょく「時間どうぶつ」,だい15きょく「かたしろ往来」が好きで,そのきょくばかりを回るみたいになんかいもよんだ.この1冊がわかりやすい紙のつづりであるかむずかしいものであるかは,よむ者によってかんがえのちがうことだからなんともいいがたいが,よむことそのものにいくらかのさいわいをかんじる者にとっては,またとないことばがんぐであり,よむたびごとに変幻する者がおもいだし手にとり,またかつて手にとったがんぐ,蒐集され引き出しにおさめられた縮尺模造の,その現実とはちがうおおきさ,尺が「幼年」から「なんさい」とかかれ,やがて「七十さい」まで自在にのびちぢみする時間の尺とかさなりあうようでたのしい.

 

         *

 

あまりことばをまっすぐにしてしまうと,おもしろみもへってしまうようで心ぐるしくもあるが,これだけはとおもって,よみあとの余韻をかいてみたいのが「みだれ尺」というてのひら小説だった.物語はなんらかの事情で「二代まえの血族」にひきとられ「養育がかり」にそだてられた者の視点で風景や玩具を描く.そだてられた者の時間は幼年から七十さいまでのびたりちぢんたりしながら,やはりそれぞれの視点から手にとるもの目にみえるものが描かれていく.手ばこの中の百ばかりある蝋ざいく,野菜や果実をかたどったと思われるそれぞれの大小の決まりごとのなさを,幼年と二代まえの蒐集人,そして二万四千にちごの持ちぬしがおもしろがっているところから「みだれ尺」というてのひら小説ははじまり,ふしぎのくにのありすや,がりばーりょこうきといった大小がいくども変転する物語について語られ,縮小や拡大がとめどなければいずれ無へとまぎれてしまうので中途半端であることが存在の要件であるとすれば,有限とはなんとたのもしい囲いかとかかれる.

 

でたらめな比率の蝋ざいくのひしめく中から,かつて幼児のゆびさきひとつに載った赤い食用果が取りだされて七十さいのゆびさきもそれを載せる.そのなんの必然性もない縮小率が祝われる.

(前掲書所収「みだれ尺」36ぺーじより引用)

 

時をへだてて,おなじものを指先に載せているが,幼児のゆびさきと七十さいのゆびさきの大きさがちがうので,載せられた赤い食用果の大きさも変わってみえる.おそらく小さな幼児のゆびさきに載せた時は大きく,七十さいのゆびさきに載せた時は小さくなる.その縮小率が祝われるというのだから,この時のへだたりというか時間の経過はさいわいなことなのだろうとおもわれるし,中途はんぱな縮尺拡大率の蝋ざいくが無へとまぎれず引き出しやら手ばこから出てくることも,なんとなく言ほがれる.

 

言葉をほどいていくということをかんがえているうち,けっきょくぶろぐにかくよみあとの余韻もほどけてこういう記事になった.そもそも管理人がぶろぐでよくやる「引用」ということをこのよみあとの余韻でやろうとすると,てんとまるがめんどうくさくおもわれ,ならばわーどそふとの「すべて置換」でひとおもいにおきかえてしまうことにすれば,ぶろぐの記事もこう自分らしくない文しょうになってしまう.訂正をすすめる赤い線がいっぱいにでてくる.

 

ほどけた言葉というのはたとえば,

 

たてよこのおなじな紙のひとひらから鳥のすがたをたちあげるのはうつくしい発明だが,手ほどきはまず,千ねんむかしの戦士たちの頭部をまもりかつは身ぶんを示したりあいてを威嚇したりするための獣のつのめく装飾を立てた被りもので,鳥よりはずっと手かずも少なく,直線に折っていくだけでいい工程だった.」

(「台木の鼻」89ぺーじ引用)

 

や,

 

十三まいづつの四系統に,どこにも属さない,なぞめいて不穏なふんいきの図がらの一まちをくわえた五十三まいひとくみのかーどは,折れ目などはなかったもののすでになよびかに手ずれていたから,べつに幼年の手に合わせて買われたというのではなさそうだったが,持ちあるき用の製品ででもあるのか,のちにあそびなかまの家などで見たのよりひとまわりふたまわり小さかった.

(「ひながた早春」26ぺーじ引用)

 

まっすぐにいえばおそらくは折り紙やとらんぷになってしまうものを遠まわりにいう,ついやした時間の贅沢を,この紙のつづりはいつまでもあじわわせてくれる.