言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

命の続く限り―ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

40歳になったら死のうと思っていた。だがそれが数年先に迫って来たとたんに、老いというものを肯定したくなってきた都合のいい人間が私である。まったくもって自分勝手に生きてきたわけだが、そろそろまともな人間になろうと思った矢先に発生したのがコロナ禍である。多くの世界から分断されてしまったような、100年くらいは続きそうな孤独の中で、まともな人間になるのは諦めてやっぱり一人で本を読んでいることにした。それでずっと頭に浮かんでいた「コロナの時代の愛」という言葉から、そういえばそんな本あったじゃん!(いや、ビミョーに違わないか?)と思って本書を手に取った。

今回は、ガルシア=マルケスコレラの時代の愛』の感想を書いていきたい。500頁もあったことが信じられないくらい、夢中になって読んだ。

 

 ガブリエル・ガルシア=マルケス著、木村榮一 訳『コレラの時代の愛』(新潮社、2006年

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 

 

 

51年9カ月と4日、男は女を待ち続けていた……。

愛が愛であること。その限界にまで、かくも緻密、かくも壮大に挑んだ長篇。満を持して、いよいよ日本に上陸。

 

夫を不慮の事故で亡くしたばかりの女は72歳。彼女への思いを胸に、独身を守ってきた男は76歳。ついにその夜、男は女に愛を告げた。困惑と不安、記憶と期待がさまざまに交錯する二人を乗せて蒸気船が、コロンビアの大河をただよい始めた時……。内戦が疫病のように猖獗した時代を背景に、悠然とくり広げられる、愛の真実の物語。1985年発表。

(本の帯文より)

 

 

これでだいたい物語のあらすじは紹介できたように思う。一言で書いてしまえば、これはフロレンティーノ・アリーサという男の愛が51年9カ月と4日経ってようやく成就するという話。相手の女性の名前はフェルミ―ナ・ダーサ。彼女ははじめフロレンティーノ・アリーサと手紙や電信を使って激しい恋をするのだけれど、結局当時国内で猛威を振るっていた伝染病のコレラを食い止めた名医フベナル・ウルビーノ博士と結婚して、それなりに幸せな結婚生活を送った。こう書くと、男のほうがただただストイックに女を待っていたように思われそうだけれど(すべてフェルミ―ナ・ダーサへの愛のためだと信じていたからある意味ストイックだけれど)、半世紀のあいだに男は622人にのぼる女性と関係を持ち、〈彼女たち〉と題したノートに記録していたりする(最終的にそのノートは25冊ほど溜まったらしい)。

こんなありえない話をありえる現実の中に置く語りの魔術。

「およそ現実離れした恋物語を縦糸にして、独立後四、五十年たち、没落の一途をたどっているかつての上流階級や新興成金の登場、あるいは文明の利器である電話、電信の普及、川を航行する船会社、当時の医学、とりわけ伝染病に対する措置などが丁寧に書き込まれている。」(訳者解説より)

 

この本を読み始めた読者が最初に出くわすのが、ジェレミア・ド・サン・タムールという人物の謎めいた自死だ。この人物と他の人物とのかかわりは時々、ごくさりげなく描かれている(フェルミ―ナが従姉と肖像写真を取りにいった写真館や、カフェ・デ・ラ・パロキアという店で行われたチェスの歴史的トーナメントなど)。医者としてあるいは友人として、ウルビーノ博士がジェレミア・ド・サン・タムールの死を目撃するのだが、やがてその死が当人によって計画されていたものだと知れる。

 

その年の一月二十三日に彼(ジェレミア・ド・サン・タムール)は満六十歳になった。そこで、精霊を信仰しているこの町のもっとも重要な祭りであるペンテコステスの日の前夜を最終期限と決めた。

(前掲書、31頁)

 

 

60歳になったら死のう。彼はこうして自ら「死」という限界に到達してしまった。その同じ日、本書のヒロインと長らく結婚生活を送ってきたウルビーノ博士が驚くほどあっけなく死んで(「この恥知らずめ」と博士は叫んだ。オウムはまったく同じ声でこうやり返した。「お前のほうがもっと恥知らずだよ、博士」/70 頁)、半世紀待った男フロレンティーノ・アリーサの愛が実現する。

 

どうして冒頭にジェレミア・ド・サン・タムールの死を書いたのだろうと読みながら疑問に思っていたが、読み終えて考えてみるに、生物としての限界「死」にどう対峙するかということではないか?と思った。

ラストシーン、72歳の女と76歳の男は蒸気船に乗って川を下っていた(まず遡ったので下りは帰路)。いよいよ終わりというところまできて、今度は「このまままっすぐ、どこまでもまっすぐに進んで〈金の町〉まで行こう」(501頁)と言ってなんとまた川を遡ろうとするのである。どこまでも果てしなく航行できそうな川。「可能性」にふくらんだイメージに満ちたうつくしいシーンだと思った。川を遡ったり下ったりするというのも象徴的で、これは時間を遡ること(記憶)と、未来に目を向けること(期待)と重なるように読める。はっきり言って、いつ死んでもおかしくない年齢になるまで、ふたりの時間は経ってしまった。その間にいろいろなことがあって男の社会的成功(カリブ河川運輸会社という密林の木を薪にして川を航行する船会社)の裏側では取り戻しようもないほど自然が破壊されてしまってもいる。たくさんの動物が消えていった。しかし、それすらも取り戻そうとするかのような限界を知らないふたりの生の力、あるいは愛を、終わりのほうに広がる幻想的な風景にみる思いがした。

 

船長はフェルミ―ナ・ダーサに目を向けたが、その睫は冬の霜の最初のきらめきをたたえていた。次いでフロレンティーノ・アリーサに目を戻すと、その顔からは揺るぎない決意と何ものも恐れない強い愛が読みとれた。限界がないのは死よりもむしろ生命ではないだろうか、と遅ればせながら気づいた船長は思わずたじろいだ。

「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」

フロレンティーノ・アリーサは五十三年七カ月十一日前から、ちゃんと答を用意していた。

「命の続く限りだ」と彼は言った。

(前掲書、502頁)

 

 

その他、本書の魅力は時間と空間を生み出して満たしていく「生」の確かな手触りと強度を持った様々な登場人物たちだ。その存在感がありえない話をありえるものに見せてしまう。

愛について、一見重そうなテーマと時代背景を持つ本書だがユーモラスな語りに思わず笑えるエピソードがたくさん書かれている。たとえば、ふっといなくなってから3~4年後にひょっこり見つかる陸カメが「生き物というよりもむしろ幸運をもたらす鉱物のお守りのよう」だし、「フェルミ―ナ・ダーサがはじめて小便の音を聞いた男性は夫だった。」にはじまる小便の思い出や、フロレンティーノ・アリーサが禿げと繰り広げた大いなる戦いなど、ささやかなことが大げさに語られていたりもして、久しぶりに長篇小説を読みながら笑った。