言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

シンメトリーと軽度のアナクロニズム―ボルヘス『伝奇集』

今回の更新でひとまず、ボルヘスの『伝奇集』については終わりにしたいと思う。いやいや、随分長々と語ってしまった笑。でもなんだかんだ言って、やっぱりボルヘスは『創造者』が一番良いように思ってしまいます(汗)勿論、『伝奇集』も楽しめましたが。

今回扱う短篇小説はいずれも「繰り返し」がひとつモチーフになっているように思います。これもボルヘスの得意なところなのでしょう。ボルヘスらしさ? と言いますか。

 

■「南部」

 

「現実はシンメトリーと軽度のアナクロニズムを好む。」

(『伝奇集』「南部」238頁より引用)

 

我々が目の前に広がる世界を「現実」として認識するために無意識のうちに好んで用いている方法が「シンメトリーと軽度のアナクロニズム」なのではないか? と考えた。いわば思考の癖として、こんな認識方法を用いて世界に日常という名前を与えているのではないかと。作品のラストの部分で、実は全部夢ではないのか? と示唆されているようにも読めるが、夢というよりは「可能性」ととらえたほうが面白い気がする。

 

この小説の主人公、フアン・ダールマンは、母方の祖父であるフランシスコ・フロレンスの生き様を自らのアイデンティティの拠り所にしている。この人物はかつてブエノスアイレスの前線でインディオの酋長カトリエルの率いるインディオ達の槍に貫かれて死亡した第二歩兵部第所属の軍人だった。

フアン・ダールマンは心からアルゼンチン人になりきっており、かつてフロレス家のものだった南部の農場の建物を買い戻す。

1939年2月下旬のある日の午後、ファン・ダールマンは『千夜一夜物語』を手に入れて、早くそれを見たい一心で急いでいたため、不注意から窓のふちで額を切るという怪我を負う。そしてその傷がもとで死の淵をさまようことになる。敗血症で死にかけるのだ。

惨めな入院生活を耐え、どうにか一命を取り留めて回復することができた。退院するあたりに冒頭で引用した言葉が出てくる。つまり「シンメトリーと軽度のアナクロニズム」。ダールマンは辻馬車で病院に来たが、退院も辻馬車であることにふと思い至るのである。

ここから先、読者も読みながら作品の至る所にシンメトリカルな構造を見出し、またアナクロニズムも感じてしまう部分が出てくる。ラストはダールマンとならず者が「決闘」をするところで終わるのだが、その時小説の最初のほうで読んだ「南部」が思い出される。荒々しい武人として最期を遂げた先祖と、南部。まるでそれに導かれるように彼もまた決闘のためにナイフを片手に野外に出ていくのだった。

 

印象的な部分のみ引用しておこう。店でファン・ダールマンが決闘を挑まれた部分だ。その店の店主はダールマンが武器を持っていないという理由で決闘をとめようとしたのだが、その時のこと。店内にいた酔い潰れたガウチョの年寄りが印象的に描かれている。

 

ダールマンが南部――彼の南部――の権化だと思った、あの酔いつぶれていたガウチョの年寄りが、隅から抜き身のナイフを投げてよこしたのだ。ナイフは足許に落ちた。決闘を承知せよ、と南部がダールマンに迫っているかのようだった。」

(前掲書、245頁)

 

「二人は外へ出た。ダールマンは希望もいだかなかったが、恐怖も感じなかった。ナイフの決闘で、野外で、相手を攻めながら死ぬのも、梁に刺された病院の最初の夜だったら、彼にとっては救い、喜び、祝いごとになっただろうな、と敷居をまたぎながら思った。あのとき自分の死をえらぶか夢みることが可能だったら、これこそ自分がえらぶか夢みた死だったにちがいない、と思った。」

(前掲書、246頁)

 

ちなみにこの「南部」に書かれている窓による額の怪我は、ボルヘス自身の経験がもとになっている。メモ程度にボルヘスの「自伝風エッセー」から引用しておこう。

 

「1938年――父が死んだ年――のクリスマス・イヴに、わたしは大変な事故にあった。階段をかけあがっていた。突然、何かがわたしの頭皮に触れた、と思った時にはすでにペンキを塗ったばかりの、あけ放たれた開き窓で頭を傷つけてしまっていた。応急手当にもかかわらず傷は化膿し、わたしは一週間ばかり、高熱にうなされ幻覚に悩まされて、眠ることもできずに横たわっていた。ある晩、ついに言語能力を失ってしまい、大急ぎで病院にかつぎこまれ、ただちに手術を受けた。敗血症に冒されていたのだ。そして一ヵ月余り、まったく意識不明のまま生死の境をさ迷った。(後になってこの体験を『南部』El Surの中に書くことになる。)

ボルヘス著、牛島信明 訳、『ボルヘスとわたし―自撰短篇集―』新著者1974より「Ⅱ自伝風エッセー」191頁-192頁より引用)

 

 

■「結末」

雑貨屋の亭主であるレカバレンという半身不随の人物がベッド上で見た出来事として小説は書かれる。ある時雑貨屋にやってきた黒人の男、そしてその黒人を追ってきた人物(マルティン・フィエロ)。この二人の決闘話である(ボルヘスは幻想的な作家という側面の他に、ナイフやならず者、決闘を題材とする側面も持っているらしい)。

マルティン・フィエロは「おれが人を殺るのは星のせいだ。いままた、そいつがこの手にナイフをにぎらせやがる」(226頁)と言う。

黒人の弟はかつてマルティン・フィエロに弟を殺された。そういった情報はすべて二人の会話から読者に提示される。会話、ということは当然、レカバレンにも聞こえているだろう。そこでこれは復讐劇でもあるらしいと知ることができる。しかし復讐の先にはなにもないのだ。黒人はフィエロを殺す。窓の向こうのその様子をレカバレンがベッド上で見つめている。

 

「黒人は身じろぎもしないで、相手の断末魔の苦悶を見つめているようだった。彼は血のりのついたナイフを草でぬぐい、振り向きもしないで、人家のあるほうへゆっくりと去っていった。復讐という仕事を終えたいま、彼は何者でもなかった。より正確にいえば、彼はあの相手の男になっていた。もはや行くべきところは地上になかった。人を殺してしまったのだ。」(『伝奇集』228頁より引用)

 

復讐を遂げた人間が、今度はただ復讐のために狙われる存在になる。いわば負のリレーのように「復讐」を引き継いでしまう、そんな光景を見ているレカバレンはしかし何の感想も述べてはいない。あるいは冒頭に書かれている日常の「些事」の一コマとしてただ見ているだけなのかもしれない。

「動物のように現在に生きることに馴れている彼は、空を眺めて、月の暈は雨のしるしだと思った。」(前掲書、224頁)ちょうど、こんな具合に。

 

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