言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

まるでこの世界は迷路じゃないか―ボルヘス『伝奇集』

今回はボルヘス『伝奇集』より「バベルの図書館」と「八岐の園」という短篇小説について書いていきます。

 

 

■「バベルの図書館」

 

 

(他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。

 

 (ボルヘス鼓直 訳『伝奇集』より「バベルの図書館」冒頭部引用)

 

この作品の図書館は「宇宙」あるいは「世界」の隠喩である。広大な、それこそ無限と思えるほどの蔵書をもつ六角形の回廊から成る図書館での人々の振る舞いは、それこそ「宇宙」を理解し、説明しようとしてきた(そして今もし続けている)人間の営みに他ならない。あらゆる本を所蔵しているということが、人類にとって世界の秘密をすべて手中に収めたような歓喜を与えたり、その膨大な蔵書から一冊をみつけようとしたり、蔵書にある法則を見出したり、でもどんなに探究しても蔵書のすべてを汲み尽くすことはできないと悟るや否や、絶望して蔵書を破棄してしまったりする。しかし人間が世界に対して行ったこの「破壊」は世界の広大さに比べると微々たるものでしかなかったり。

印象的な『創造者』のエピローグにもある通り、人間は宇宙のすべてを理解することも書き出すこともできないのだ。以下、ボルヘスが「自伝風エッセー」でこの作品について述べた部分を引用しておこう。参考までに、この作品はボルヘスが後に「濃厚な不幸な九年」と呼ぶことになるブエノスアイレス市立図書館勤務時代に書かれたものである(あまりに閑職だったため、勤務時間中に読んだり書いたりしていたのだとか……笑)。

 

「わたしのカフカ風の物語『バベルの図書館』La Biblioteca de Babelは、この市立図書館の悪夢、ありはデフォルメとして書かれたものであり、その中に見られるある種の詳細な記述には、何ら特別な意味はない。例えば、物語の中に記録した本や書棚の数は、文字通りわたしの手近にあったそれを用いたのである。犀利な批評家の中には、そうした具体的な数字に頭を悩ませ、ご丁寧に神秘的な意味を付与している者もある。」

牛島信明訳『ボルヘスとわたし―自撰短篇集―』(新潮社1974)192頁-193頁より引用)

 

 

■「八岐の園」

この作品もまた、架空の書物(しかもその書物は一冊の書物であると同時に迷路である)を題材として書かれている。しかしこれは架空の書物への書評ではなく、その書物をめぐる「探偵」的な謎解きの形式をとる。

作品の大部分は青島(チンタオ)の大学(ホフシュール)の元英語教師である兪存(ユソン)博士の陳述からなる(しかも冒頭の二ページは欠けているとされる)。読み進めていくと兪存なる人物はドイツ帝国のスパイであり、英国に仕えるアイルランド人のリチャード・マッデン大尉に追われていることがわかってくる。

スパイとしての任務遂行のため(この理由は最後に明らかになるのだが)兪存は、スティーヴン・アルバート博士の家へ向かうことになる。その家への道順について周りにいた子供立ちが言うには「その家はここから遠いよ。でも、この道を左へ行って、交差点に出る度に左へ曲がれば迷うことなんかないよ。」(『伝奇集』125頁)とのこと。

兪存は、この道案内がある種の迷路の中央にある広場をみつける一般的なやり方であることを見抜いている。まずこれが第一の迷路だ。そしてその迷路の先にアルバート博士がいて、彼が見せてくれる「八岐の園」がまた迷路なのである。迷路の先にある迷路だ。

そして実はこの「八岐の園」というのが、兪存の先祖である崔奔(サイペン)なる人物が残した一冊の書物であり、子孫たちはそのテキストの矛盾(第三章で死んだはずの主人公が第四章で生きているという具合)を理解できず、駄作として扱っていた。

崔奔は生前、一冊の本と迷路を作ろうとした、誰もがこれをふたつの仕事だと思ったが、実はひとつの仕事なのである。アルバート博士の研究によって「八岐の園」は「見えざる時間の迷路」であり、一冊の本であると同時に迷路であることが証明される。

つまり、ある人物のある行動の選択によって、未来は分岐することになるわけだが、その選択の可能性だけ時間が分岐し、増殖し得る、ということを崔奔は書いたのだ。本来なら切り捨てられて描かれないはずの時間もすべて書いてしまう、ここから「八岐の園」の小説の矛盾が発生しているという。「~かもしれない」というものと、それに続く結末を全て書いてしまうと確かにある人物が死亡した場合と死亡しなかった場合で物語の時間が分岐してしまう。崔奔は「時間」という語を一切使わずにそれをテーマとした迷路を作っていたのだった。

 

この作品が面白いのは、この後である。「八岐の園」の謎が解けた後で、アルバート博士は言う。「時間は永遠に、数知れぬ未来に向かって分岐しつづけるのですから。そのうちのひとつでは、わたしはあなたの敵であるはずです」(137頁)

兪存を追ってきたリチャード・マッデン大尉が来訪する→兪存がアルバート博士を射殺する→兪存がマッデン大尉に逮捕される→絞首刑の宣告を受ける、というひとつの可能性としてのシナリオだけがこの作品の後半に続く。もしかしたら、こうはならなかったかもしれない、別の未来像だってあるはずなのだ。そのことはこの作品に十分すぎるほど匂わされている。スパイとしての任務のため、兪存はアルバート博士を射殺したが、先祖の残した謎を解いてくれたアルバート博士は別の見方をすれば兪存の友でありえたのだ……。そしてたぶん、書こうと思えばそういうシナリオも書けてしまうのだ。

 

最後に、アルバート博士の言葉を引用して終わろう。

 

「あなたのご先祖(崔奔)は均一で絶対的な時間というものを信じてはいなかった。時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。」

(『伝奇集』136頁より引用)

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