Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

今、この手触りからふいに―ポール・オースター『内面からの報告書』

今回紹介する一冊、ポール・オースター『内面からの報告書』は『冬の日誌』に引き続き、私にとって二冊目のポール・オースター作品となった。

妙なこともあるもので、年齢も国も違うポール・オースターという大作家と自分が似たような記憶を共有していることを知る。幼少期に抱いた強烈な印象というものは、必ずしもいつも有効な記憶ではないけれど、時々意外なところで意外な物事と結びつき、ぱっと浮かび上がってくるらしい。……ピーターラビットのおとうさんが、肉のパイにされてしまった!!幼少期のそんな読書体験を、皿やカップに描かれたピーターラビットの絵を見て反芻した日々。その日々をさらにこの本を読むことで反芻することになるとは。

 

ポール・オースター 著、柴田元幸 訳『内面からの報告書』(新潮社、2017年)

 

内面からの報告書

内面からの報告書

 

 

 

「内面からの報告書」「脳天に二発」「タイムカプセル」「アルバム」という4つのパートあらなる一冊で著者のポール・オースターがかつて経験した色々なことを思い出したり感じ直したりするノンフィクション作品だ。

 

……大きな世界の中の小さな世界。でも大きな世界はまだ見えていなかったから、小さな世界はそのころ君にとって全世界だった。

(前掲書、10頁より引用)

 

子供の頃、自分の回りには「謎」ばかりがあった(その謎の多くは大人になってもそのまま残されていたりするけれど)。それなのにどうして今現在「大人」であるつもりの自分ほど不安を感じてはいなかったのだろう。それは世界に対して納得していたからではないだろうか。子供には子供なりのロジックがあった。子供時代とはその範囲の中だけで生きれば良かった時代(とは言ってもその範囲内が常に安全だとは限らない)なのだと思う。

そういう感覚を、大人になってからもう一度探って行くのは楽しそうだ。この本は著者にとってそういう一冊なのだろう。訳者はあとがきで「内面に――内面と呼ぶに相応しいものが誕生する以前までさかのぼって――何が起きていたかを思い出し、生きなおそうとしている」と書いていた。

 

「脳天に二発」は著者が子供の頃に見て印象に残った映画2本(『縮みゆく人間』『仮面の米国』)について書かれている。その映画について今どう思っているか、ではなくて「あの頃どう思ったか?」を映画のあらすじと書きながら探っていく手つきが本当に面白い。「タイムカプセル」という章ではかつての妻に書き送った手紙を抜粋しつつ若い頃の自身へと手を伸ばそうとしている。最後の「アルバム」という章はそれ以前の本文の抜粋に写真をつけたもので、ここまで読み通してきてからページを捲っていくとまさに「アルバム」を見返すような楽しさを味わうことができた。

「内面からの報告書」は12歳までの記憶、その頃の自分は何者だったのか? どうして今の自分のように考える自分になっていったのか、その考えは自分をどんな場所へ連れて行ったのかが印象に残っているエピソードをもとに掘り下げられていく。たとえば六歳のある土曜の朝、突然「君」(本書の中で作者はかつての自分をこう呼ぶ)をおそった説明不能な「幸福感」。「人種」という問題にぶつかる以前に感じていた貧富の差について「君」はこう思っていた、「人生はある人間に対しては優しくある人間に対しては残酷だった。君の心はそれゆえに痛んだ。」(9頁)。社会や政治を語る必要などないほど世界を単純にとらえていた「君」の心は、それでもすでに様々な不条理にあふれていた。貧しい黒人たち、朝鮮半島で起きた戦争に行った人々の「黒ずんだ、切断された足指」。人々が当たり前のものとして何も感じなくなってしまっているもの、または見たくないために黙殺しているものに「君」の心はストレートに動いた。「同じ現実に対する二つの相容れぬイメージ」(54頁)のどちらが「正しい」などと判断することなしに、併存させることができた素朴さ。大人が怖いというものが必ずしも怖いものではなく、良いというものが必ずしも良いと思えるようなものではなかったという感覚。二項対立とも違う、対立以前の奇妙に混淆した感情は私にも経験があるように思える。

 

子供の頃の私にとって「外国」とはアメリカとソ連のことだった。外国イコール、で対立するふたつの国家を結びつけ想像することができてしまっていた(あの頃世界は日本とアメリカとソ連しかなかった。なんて小さな世界だろうと思う)。

こんな私のつまらない感慨はさておき、子供だった「君」にとってとてつもなく繊細な問題だった数々の事柄(たとえば寝小便のことと、ピーターラビットのことと、死ぬということや、ユダヤ人であることと帰属意識の問題など)が書かれた一冊だった。

 

君のもっとも初期の思考。小さな男の子として、どのように自分の中に棲んだか、その残滓。思い出せるのはその一部でしかない。孤立した断片、つかのまの認識の閃きが、ランダムに、予期せず湧き上がってくる――大人の日々のいま、ここにある何かの匂い、何かに触った感触、光が何かに降り注ぐさまに刺激されて。少なくとも自分では思い出せるつもり、覚えている気でいるが、もしかしたら全然、思い出しているのではないかもしれない。もしかしたら、いまやほとんど失われた遠い時間に自分が考えたとおもうことをあとになって思い出したのを思い出しているだけかもしれない。

(前掲書、7頁-8頁より引用)

 

ここ数年、「大人の童話」という言葉をよく耳にするようになった。しかし、そもそも「童話」とは「こどものために作った物語」(広辞苑)をさす言葉だったわけだから「大人の童話」という言葉は大きな矛盾を含んでいる。それなのにどうして「大人の童話」という言葉がこれほど一般的に使われるようになったのだろう? と考えてみると、案外おおくのひとが、子供時代の得体の知れない奇妙に混淆した感情に気がつき始めていて、そしてそういうものは「大人」になってみないとどうにも語れないのだということを実感しつつあるからだと思える。子供のころ受容していたもの(出来事や物語や感情など)にわざわざ「大人の」とつけて咀嚼し直したいという欲望は身近なものなのかもしれない。生きれば生きた分だけ、辿り直すことができる。生きなおそうとするって、そういうことなのかな? と考えてしまった。人生のどこかでこの本を読んだという瞬間が、あとからどんなふうに辿り直されることやら。あるいはどんなに辿っても行き当たらない瞬間になるのかもしれないけれど。

 

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