言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

パースペクティヴ――磯﨑憲一郎『往古来今』

今回ご紹介する本はこちら。

磯﨑憲一郎『往古来今』(文春文庫、2015年)

 

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

 

 

この本をはじめて目にした時、なにかが違うような違和感を抱いた。往古来今? 古今往来ではなく? この違和感は単に自分の語彙力の無さに起因するらしいことが文庫の解説を読んでわかった。参考までに書いておくと、往古来今という言葉は前漢に編纂された思想書淮南子』斉俗訓「往古来今、之を宙と謂い、四方上下、之を宇と謂う」とあるそうだ(金井美恵子さんによる文庫の解説によると「新明解四字熟語辞典」(三省堂)に載っているとのこと)。往古来今、時間と空間の限りない広がりを表すこの言葉ほど、この短篇集を的確に表現したタイトルはないのではないだろうか金井美恵子は解説でこの小説を「物語の広がりを連想させつつ、小説を読むという甘美で贅沢な幸福(と言ってもいいかもしれない)の時間を読者に与えてくれる、小説と呼ぶにふさわしい小説である。」(前掲書、199頁より引用)と称している。

金井さんの解説“『往古来今』を読む”より少し引用しておきたい。

 

 小説を読むということは(あるいは書くということは)、私たちの持っている様々な記憶の中の、言葉で書かれた本や、映画や、町や公園や川や山といった空間で出来た世界の、無数の輝いてざらついていて、しかも平板な断片が、今読んでいる小説と、何枚もの布地(テクスチュアー)としてところどころで縫いあわされ、混じりあいつながっていることを(それは、裏返しだったり、重なり具合がずれて、幾重ものヒダになっていたりもする)確認することだ。(前掲書、199頁より引用)

 

私たちの記憶が、世界と自己の接する時に軋みながらたてる音や響き(世界と君との闘いでは世界を支援せよ、とカフカは書く)、光や風、声や色、形、匂い、味、手ざわり、皮膚に伝わるなまなましい感触といったものとの邂逅によって、ほとんど不意に立ちあらわれるものである以上、記憶も、そしてなにより小説も、いつだって水のようにあふれる(川や流水や海の波、地下水)他者の侵食に接している。

(前掲書、200頁より引用)

 

これ以上の言葉で、私は礒﨑憲一郎『往古来今』の魅力を伝えることができないように思う。この小説は実際に自分で文字を追っていかないことにはなにも立ち現われない。よくある特定の作品に対して(多くはカフカなのだけれど)あらすじや、ストーリー、解釈を求めてこのブログを訪れる人がいるのだけど、それは小説を読むたのしみのほんの表層でしかないと思う。読むことでしか見ることのできない世界というものは確かに存在するのだな、と『往古来今』を読んで改めて思ったのだった。

 

じっさいにはこの連絡を書いている最中はただ、段差や転調を作者の意図として書かずにいかに前に進めるか、どこまで小説に忠実でいられるか、だけを考えていたように思う。

(前掲書、著者あとがき196頁より引用)

 

そうは言ってもこれからこの本を手に取ろうか迷っている人のためにざっくり概要を書いて紹介しておきたいと思う。

この本には5つの短篇小説が掲載されている。

「過去の話」「アメリカ」「見張りの男」「脱走」「恩寵」それに著者のあとがきと解説だ。

5つの作品はそれぞれが繋がりあっているような、繋がり合っていないような絶妙な距離感を保ちつつ、それでも一応作品としては個々に独立している。新しい短篇を読み始めたはずなのに、何故か前の作品で見たような風景に再会し、さらにそれが往き過ぎてしまうことになんの焦りも感じない。ストーリーを追う、ということではなくて単に車窓から後方に往き過ぎる風景をながめているような旅のそんな感覚に似た作品である。行き過ぎてゆくものすべてを旅行者は写真におさめることはできないし、おさめたいとも思わない。車窓の風景は車窓の風景として、漠然と記憶に残ったり残らなかったりする。

 

ここからは私が特に気に入った作品である「見張りの男」についての素描になると思う。

「私」が生まれ育った町の風景、大きな川があり、けっして交わることのない二本の線路があり、「私」の祖父が架けたらしい赤く塗られた鉄骨のトラス橋がある。この赤い橋を渡ると道は山に向かい、その山頂近くに百足胎児で有名な俵藤太の末裔が城を築いたという話がある。城が築かれてから百年が過ぎ、源平合戦の頃、城主は四代目の時代を迎えている。その領主が見おろしたのと同じ山頂、同じ角度から「私」は城下町を見下ろしている。

 

夜、山頂から見下ろすと、平地には青白く照らされた粗末な小さい家々と水田があった、黒い水面には満月がその細長く歪んだ姿を晒していたが、空のどこを探しても月そのものを見つけることはできなかった。その先には河原を寝床にしている源氏の軍営が見えた、暗闇の中ときおりうっすらと浮かび上がる人や馬、牛車の影は米粒よりも小さいというのに、点々と灯された篝火だけは見つめているとこちらに迫ってきて、まるで目の前で燃えさかる炎のように近くにあった。領主が見下ろしたのと同じ山頂、同じ角度から、私は城下町を見下ろしている、源氏軍が待機していた川原には鉄橋が二本平行に走っている、その先には私の祖父が架けた赤い橋がある。

(前掲書「見張りの男」101頁より引用)

 

私はこの部分が特に大好きだ。はるか昔の風景、火、それが大きく迫ってくる炎のようにみえるという距離の変化、そして気がつけば現在の風景が連続して描かれている。ここを読んだ時に「見張り」というタイトルの言葉にニヤリとしたし、時空間の広がりに感激した。

この後、実はこの領主の顛末は『吾妻鏡』に書かれていることが語られる。この町には領主に関する伝説が二つあり、そのうちのひとつが長い間信じられてきたために領主をまつる神社がある。神社の裏手の雑木林、そこで板切れと段ボールを使って秘密基地をつくった子供時代の思い出、そこにいた友人のうちただ一人はっきり思い出せる「彼」の逸話。彼は元相撲取りで今は郵便配達人である。ある日ふと、誰かにじっと見つめられているような気がしてこう思う。「俺は俺自身を見張っている……まったく馬鹿げていると自らを嗤いながらも、口にしてみたその言葉には妙に腑に落ちるところがあった」(前掲書、119頁)

「彼」の逸話から急に「私」の視点に戻ってくる。「私」も「彼」のように生きた可能性だってあったのではないか、と。しかしそんな無責任な発言をして咎められるのは誰なのか?

「理解者は往々にして遠くにいる。」(126頁)

最後は「百年前のプラハに生きた一人の人物」(別の作品の叙述から勝手にカフカが連想させられる)について描かれ「彼ほど徹底して自らを見張り続けた人生を生きた人間は現れていない、彼こそが唯一の生存者であり勝利者だったが、彼と共に暮らした人びとの中でそのことに気づいた者は誰もいなかった。」(127頁)と小説は閉じられる。

 

遠くにいる「理解者」とは誰なのだろう。それは時代を超えたところの存在する他者かもしれないし(『吾妻鏡』を読みその伝説を享受する我々や、カフカの作品を享受する我々)、昔の出来事を回想する自分自身かもしれない。あるいは他者の人生についてあれやこれやと想像し、それがある選択によっては自分自身の人生であったかもしれないなどと考える自分の思考かもしれない。

遠くから自分を見張る自分というのは記憶の領域では可能である。この「遠く」という言葉を使って表現される記憶の遠近感もこの小説の魅力であると私は思う。