言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

世界との接触、たとえば朝起きてちいさないきものを撫でるとか―ポール・オースター『冬の日誌』

生きるということがどんなことであるのか、ひと言で表現するのは難しいけれど、毎日なにがしかの文章を書きながら考えていること、それは生きるということが世界との絶えざる接触であるということだ。私は午前四時前に起きる、その時まずある感覚は全身のこわばりと痛み、それからなんとかベッドを抜け出して飼っている小動物の世話。撫でる、抱く、頭の上から耳の付け根のあたりを揉んでみる。朝食を整えたりする。朝食は「食べる」ために、毎日同じようなものでもきちんと用意する。もろもろの家事(洗濯と風呂掃除が最も腰にとって過酷)を終えてから仕事に行く。移動は車。自分の右足で間違いなく踏むアクセルとブレーキ、右足への絶大な信頼を持ってだいたい時速60キロメートルで動く。一日の大半は職場で過す。毎日だいたい1万5千歩ほど歩く。帰宅してから眠るまでの様々な事柄、たとえば読書と目のかすみ、書き物と頭痛、シャワーと水圧のこそばゆさ、小動物との遊びとくしゃみ。植物に水をやり、いらない葉や終わった花を落とす、ハサミを持つ右手の不器用さ、再びこわばり、そして就寝、ぼろぼろになって糸くずがたくさん出ているタオルケットに包まれる安堵。簡単にしか書けないが、これが自分の暮らしであり、自分の体が世界から受けとっている感触である。大袈裟なことなど何もない。ただいわゆる日常と呼ばれるものがある。そしてその「日常」の中の多くの感触は「体」が受け取るものであり、感覚も含めた総体が暮らしなのではないだろうか。

 

長々と書いてしまったが、今回ご紹介する本はこちら。

ポール・オースター柴田元幸 訳『冬の日誌』(新潮社、2017年)

 

冬の日誌

冬の日誌

 

 

 

実はこの大作家の著作を一冊も読んだことがなく、作者よりはむしろ訳者のほうを知っていた(私は柴田元幸さんを『MONKEY』の編集者として知っていたし、ナサニエル・ウエストの翻訳を今年に入ってから読んだはずだ)。今回この本に手を伸ばした理由は表紙に惹かれたから。こんな贅沢な本との出会いは久しぶりな気がする(もちろんブログに記事を書くくらいだから、内容もとても良かった)。

この本の内容を簡単にまとめれば帯にある通り、「人生の冬」を迎えた作家の、肉体と感覚をめぐる回想録だ。64歳になった著者の自伝であるが、思い出される自分のことを「君」という二人称で表現していたり、語られる人生上のエピソードが単に時系列で並べられているわけではないという面白さ。「体」にまつわる小さなトピックからより普遍的な人生の感慨に持っていくような書き方がとても印象的だ。たとえば顔についた傷跡を巡って。

 

君の傷跡一覧。特に顔の傷跡。毎朝、ひげを剃ったり髪を梳かしたりしようとバスルームの鏡と向きあうたびにそれらの傷が目に入る。それらについて考えることはめったにないが、考えるときにはいつも、それらが生のしるしであることを君は理解する。顔の皮膚に彫り込まれたもろもろのギザギザは、君という物語を語る秘密のアルファベッドだ。なぜなら傷跡一つひとつが治った怪我の名残であって、怪我一つひとつは世界との思いがけない衝突によって生じたのだから――つまり事故(アクシデント)によって起きる必要のなかったことによって。アクシデントとは取りも直さず、起きなくてもよいはずのことなのだ。それは必然性ある事実ではなく、偶発的な事実である。けさ鏡を見ていて訪れた、人生はすべて偶発的なのだという認識――ただひとつ必然なのは、遅かれ早かれ終わりが来るとういこと。

(前掲書、7頁より引用)

 

傷跡にはそれぞれ、その傷を負った時のエピソードがある。しかし、覚えのない傷もある。そういう「起源」のわからない傷跡に対して「君」は妙な話だと思う。「君の体が、歴史から抹消された出来事の起きた場であるなんて」(9頁)

起源と言えば、「君」という人物がどこから来たのか、という存在についての問題がある。この結局はよくわからない問題に「君」が出した結論は自分の一個の肉体の中には無数の文明が(わかりようのない先祖たちの移動と混淆)あって、それぞれが自分の肉体の上で相対立している、肉体はそういう「るつぼ」なのだというもの。

「手」に関する記述も面白かった。もしかしたら「手」というものが世界との無意識の接触をいちばんやっているのではないか。作者はジェームズ・ジョイスをめぐる逸話を紹介する。一人の女性が『ユリシーズ』を掻いた手と握手させてもらえませんかと頼んで来たことに対してジョイスはこう答えたという。「マダム、忘れてはいけまん、この手はほかにもたくさんのことをやってきたのです」(151頁) 

 

いかなる詳細も語られないのに、卑猥と婉曲の何たる傑作。すべてを相手の想像力に委ねるがゆえに効果はいっそう増している。彼女が何を見ることをジョイスは望んだのか? 《中略》いかように空白を埋めようとも、ポイントはとにかくひどく醜悪と思える行為、とうこと。君の手もむろん同じようにそうやって君に仕えてきた。誰の手だってこういうことをやってきたのだ。だがたいていの場合、手たちは思考をほとんど必要としない営みの遂行に忙しい。

(前掲書、151頁より引用)

 

思考を介さない手の動き、それが実のところいわゆる「日常」の暮らしの主な担い手なのかもしれない。このブログ記事を書いている手は今朝、小動物の糞を拾い、料理をし、尻を拭き、自動車のハンドルを握り、パソコンのキーボードを叩き、ひとにささやかな贈物をし、粘着テープと苦闘した。その時、その一瞬一瞬が世界との接触なのだ。考えていないだけど結構な大事である。無意識な手は暮らしを、そして人生を、もっと大きく言えば歴史を作ってかたちづくる。だが手は――手に限らず体のいたる部分は――いちいちそんなことなど考えていられないほど忙しいのだ。

 

世界との接触から人生をとらえるなら、当然「体」のことを書かねばならない。「体」があって、それが世界の感触を受け取ったり、世界に対して何らかの干渉をする。そして何らかの感情を引き起こすきっかけを作り出す。この本に私は「生きていること」「暮らすこと」の実感や肯定を強く感じたのだった。

 

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