言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

捨て鉢の飛翔―ナサニエル・ウエスト『いなごの日 / クール・ミリオン―ナサニエル・ウエスト傑作選―』

今回紹介する本はこちら。

 ナサニエル・ウエスト 著、柴田元幸 訳『いなごの日 / クール・ミリオン―ナサニエル・ウエスト傑作選―』(新潮社、2017年)

いなごの日/クール・ミリオン: ナサニエル・ウエスト傑作選 (新潮文庫)
 

 

1930年代にアメリカで活動したナサニエル・ウエスト。あまり有名な作家というわけではなく、大戦後アメリカのブラックユーモア文学ブームの際に再評価されるまで長らく過小評価されていたらしい。私も今回初めて手に取った。主な作品に『バルソー・スネルの夢の生』『孤独な娘』『クール・ミリオン』『いなごの日』などがある。

今回紹介する本におさめられている作品は「いなごの日」「クール・ミリオン」と短篇の「ペテン師」「ウェスタンユニオン・ボーイ」。

当ブログでは「いなごの日」と「クール・ミリオン」について感想を書いておこうと思う。

 

そもそも私がこの本を手にしたのは、批評家の川本直よる「アメリカという名の悪夢――ナサニエル・ウエスト論」(『新潮』3月号掲載)という評を読んだことに端を発する。それまで、この作家のことは何も知らなかった。

 

一作毎に作風を変遷させて行った「規格外」の小説家ウエストを語るのは難しい。しかし、野暮を承知で無理矢理ウエストの小説に共通する点は何か、と考えると、それは全作品で「アメリカという名の悪夢」を描き続けたことにあると言えるだろう。それは抗議(プロテスト)などといった生易しいものではない。

(170頁)

 

性的な夢から始まったウエストの文学的冒険は、苦悩する人々を描いた寓話、「アメリカの夢」を信じる素朴な人々によって引き起こされるファシズムを通過して、遂に現実に起こる黙示録的な「暴動」に至った。

(176頁)

 

以上、川本直「アメリカという名の悪夢――ナサニエル・ウエスト論」(『新潮』3月号掲載)より引用

 

 

■「いなごの日」

 

 勤務時間の終わり近く、トッド・はケットの仕事部屋の外の道路から大きな騒音が聞こえてきた。革がきしむ音に鉄がジャラジャラ鳴る響きが混じり、無数のひづめの轟きがかぶさっている。トッドは窓辺に飛んでいった。

騎兵と歩兵の軍隊が通過していた。暴徒のような動き方だった。列はばらばらに乱れ、悲惨な敗北から逃走しているみたいに見える。騎兵のケープ、近衛兵の重たい筒型帽。平たい革帽に流れる赤い羽毛を飾ったハノーファー軽騎兵隊、みんなごっちゃに入り乱れてひょこひょこ上下しながら進んでいる。

ナサニエル・ウエスト 著、柴田元幸 訳『いなごの日 / クール・ミリオン―ナサニエル・ウエスト傑作選―』9頁より引用)

 

これが「いなごの日」の冒頭部分だ。この作品は駆け出しの絵描きであるトッド・ハケッとがみたハリウッドを描いている。カリフォルニア州ロサンゼルス市にあるこの地区は映画産業の中心地であり、街全体が映画のセットのよう。トッドのみる風景のいたるところに偽物や作り物があふれている。引用した冒頭部分、仕事中に窓の外で何事かがあったらしいと思って読むと実はこの兵士はみんな偽物、兵士の恰好をした役者たちが暴徒のように動いているだけで本物の戦闘がこれから起きるわけではない。

他にもこんな所がある。

 

平原の奥の方に巨大なこぶのような丘があって、その周りに英国軍とその援軍が集まっている。あそこがモン=サン=ジャンであり、ナポレオン軍はここを勇敢に守り抜こうと態勢を整えている。だがまだ準備は済んでおらず、舞台係、大道具方、小道具方、衣裳方、美術係等々が群がっていた。

(前掲書、163頁より引用)

 

迫真のシーン!!……に見せかけて、ほんとのところは規模の大きな偽物。この小説の場が「ハリウッド」であるからこそ可能な表現の方法だろう(しかし、ハリウッドだからと言ってこの作品には大物俳優なんかひとりも登場しない。ハリウッドという夢の周縁にいる貧しい人物ばかりが描かれている)。他にも「これでもか!」というほどに作り物が並べられている場面が散見する。とても面白い。「ガラス製のポインター、銀のビーグル、磁器のシュナウツァー、石のダックスフント、アルミのブルドック、縞瑪瑙のホイペット、瀬戸物のバセットハウンド、木のスパニエル」(43頁)

 

作り物に囲まれた場で暮らしながら、トッド・ハケットは「燃えるロサンゼルス」という絵を描き上げようとしている。この絵の中にトッドはハリウッドの夢の影で貧しく生きる「カリフォルニアへ死にに来た」人々を描こうとしている。この絵に対するトッドの意図はこうだ。「真昼に燃えている都市の情景」でありながら「身の毛のよだつ大虐殺というより明るい旗が屋根や窓からなびいているような感じ」、「燃える都市にお祭りの雰囲気」さえあり、「都市に火を放つ連中は休暇を楽しむ群衆」なのだという。

作り物の風景であるハリウッドの中に生きる人々を、絵描きは自ら構想する絵の中に描きこむ。暴動を起こすカリフォルニアへ死にに来た群衆の絵。そして暴動の先兵たちの前を何人かの男女が逃走している。その中には絵描き自身の姿もある。

物語の最後、トッドはハリウッドの群衆に飲み込まれる。個人ではなく群衆になることで暴徒と化した人々の暴力の渦の中で、トッドは「燃えるロサンゼルス」について考える。

(ここでふと、私は冒頭を思い出すのだけれど、そこにも暴徒のような動きをする偽物の兵士たちが書かれていた。この作品は始まりも終わりも暴徒と化した群衆が描かれている。)

暴徒のような動きをする兵士たち(偽物またはフィクション)→それを窓から見るトッド(本物または現実)→トッドの描く絵「燃えるロサンゼルス」(作り物、現実ではないという意味で偽物)→トッドを飲み込む暴徒と化した群衆(本物または現実)という作品構造が浮かび上がってくる。

「本物」と「偽物」などという単純な二項対立ではなしに、現実の中に作り物の風景や表情(これも舞台設定がハリウッドならでは。役者の表情は作り物だ)が捩じ込まれていくような面白さがこの作品にはあると思う。

 

狩られる鳥も、何分か息をひそめて隠れていた末に、全面的な、何も考えぬパニックに陥って隠れ場所から飛び出すとき、その捨て鉢の飛翔に開放の喜びを感じるにちがいないのだ。

(109頁より引用)

 そういえば「いなごの日」ってなんだろう? ということをここまで書き忘れていたが、聖書によるとそれは終末の日のことである。一番有名なところでは新約聖書ヨハネ黙示録。世界の終わりには、いなごの大群が押し寄せている。

 

■「クール・ミリオン」

 

「我らがヒーロー」であるレムことレミュエル・ピトキンが立身出世を目指してニューヨークへと旅に出る物語。ニューヨークに行けば、きっと失われた家や財産を何倍にでもして取り戻すことができる……一発逆転だってありうる……! 

 

若者の気持ちをウィップル氏も理解し、勇気づけようと試みた。

アメリカは機会の国だ」氏は真剣そのものの顔で言った。「正直で勤勉な者をこの国は支えてくれるし、人がその両方の徳を持つ限り決して見捨てはしない。これは見解の問題ではなく、信条の問題だ。アメリカがこのことを信じるのをやめる日は、アメリカが失われる日だ。」

(前掲書、288頁より引用)

 

そんな「アメリカン・ドリーム」を疑わない少年レミュエル・ピトキン(17歳)はウィップル氏の激励を胸に故郷のヴァーモント州オッツヴィルを、ニューヨークへ向けて旅立つのだが……。

アメリカン・ドリームを徹底して暗転させた」この作品は、たしかに黒い笑いを浮かべながら読む種類の小説だった。ピトキンの冒険はカール・ロスマン(カフカ「失踪者」に登場する主人公)の放浪に似て不条理な悲劇に見舞われ続ける。しかも当初の目的には一切辿り着けない。冒険を続けるうちにピトキンの身体は少しずつ損なわれていく。「クール・ミリオン」には「レミュエル・ピトキンの解体」という副題がつけられている。

はじめは歯、次に目、指、頭皮、脚……。入れ歯(ピトキンはわずか17歳にして総入れ歯になってしまう)や義眼を何度も落とす「我らがヒーロー」は、冒険の途中でついに自らの命まで落としてしまうのだった。

「我らがヒーロー」は最後までアメリカン・ドリームという幻想を捨て去ることができなかった。いや、何度も疑ったのだ、そして自分自身を「落伍者」と呼び、幻想を捨て去ろうとさえしたのだ。しかし。

 

「オムレツを作るには卵を割らないといけないのよ」ベティは言った。「そういうことはね、目を両方なくしてから言いなさいよ。ついこないだ新聞で、目を両方なくしたのにそれでも一財産築いた人の話読んだわよ。どうやってだかは忘れたけど、とにかくそうしたのよ。それに、ヘンリー・フォードのことを考えなさいよ。四十歳で一文なしで、ジェームズ・クーゼンズから千ドル借りて、返したときには三八〇〇万ドルになってたのよ。それがあなたときたら、まだ十七なのに落伍者だとか言って。レム・ピトキン、あんたには呆れるわよ」

 ベティはレムを慰め、励ましつづけた。やがてあたりも暗くなり、陽が沈むとともにひどく寒くなった。

(391頁)

 

なんて残酷なんだろう。励ましが、こんなに残酷に聞こえることがあるなんて。

何度も、何度でも、周囲が「我らがヒーロ―」レミュエル・ピトキンを励まし立ち上がらせるのだった。そしてその果てに彼の「解体」が待っているのだった。