言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

糸玉の中心、ほどけどもほどけども―谷崎由依『囚われの島』

私はこの作品をすぐれた幻想小説として読んだ。

谷崎由依『囚われの島』(河出書房新社、2017年)

初出『文藝』2016年冬号 

囚われの島

囚われの島

 

 ※当ブログでの引用は初出『文藝』掲載時のものであることを予めお断りしておく。

 

 

全体が三章構成になっており、第一章と第三章は現在の日本社会を舞台に、真ん中の二章がかつて養蚕で栄えた村の勃興と零落を描いている。小説世界の現在(第一章と第三章)において、この村は廃村とされている。

簡単に小説のあらすじを書いてみる。主人公は静元由良という新聞記者の女性だ。困難を抱えた家庭に育ち、父はおらず、母は兄ばかりを偏愛していた。由良は会社の上司である伊佐田(妻子のある男)とかつて父を奪った女と同じことをしている自分に気がつきつつも、不倫関係を持ってしまっている。由良は繰り返し見続ける気がかりな夢を抱えていた。それは小舟に乗って水上を渡り、島に近づいて行くというものだ。ある日、盲目の調律師である徳田俊に出会ったことにより、この「夢」が核心に近づいて行く。そしてその核心こそ「終わり」なのだ。徳田俊もまた、島の夢を見続けていた。彼の場合はずっと島にいる夢で何年も何かを待っている、というものだった。誰かが小舟で近づいてくる、だけれど船が着いたことはまだ一度もない。毛糸玉を解いていくように、ふたりは対話を重ねて夢を解いていく。だけれど、毛糸玉を解いてしまえば結局解いた先に何もない。

徳田は部屋で蚕を飼っていた。蚕糸研究所を訪ねて養蚕について知っていくうちに蚕という生き物が人工的な存在で交尾をせず、みずからのうちに刻まれた遺伝情報を恒久的に保ち続けることを知る。このことから「父」の不在、海辺の蚕都が由良の中に浮かびあがる。徳田と自分の不可解な一致が夢を解く鍵になるように感じはじめ、由良は徳田を助けたいと思うのだった。蚕の糸をたぐるように、またギリシャ神話で英雄テセウスアリアドネの赤い糸玉を頼りにミノタウロスの迷宮を脱出するようにして、由良は夢を解いていく。それが徳田を救うことになると信じているかのように。

 

この手のなかの糸の先にあるものは何だろう。深入りしてはいけない、と警告する。けれどもう無理だ、と何かが言う。

 その通りだった。無理なことだった。糸玉は疾うに転がりだしてしまったのだ。

(『文藝』2016年冬号、94頁より引用)

 

私がこの作品に強く幻想性を感じるのは、主人公が営む社会生活と、かつての蚕都、盲目の調律師の存在がギリシャ神話(クレタ島の物語、赤い糸)と、蚕にまつわる伝承を素材に繋がっていくためだ。作品内にはオルターエゴ(いまここにいる自分ではない、もうひとりの自分)という言葉で説明されているけれど、この言葉で定義されている以上に風景の描写によってそれぞれの物語が深い所で繋がっているように思えた。

描写で特に印象的なのは「月」で、これもこの小説を幻想的にしていると思う。

 

 

しらじらとまるい球体が、夜空にあいた穴のようにはっきりとあった。高いところにある月を、左右にならぶビルの硝子が囲んで映し出している。幾つもの像のまんなかで、天蓋に浮かぶそれは似姿たちよりいっそ朧で、掴みがたく、それゆえに唯一の月だった。

(前掲書、79頁-80頁)

 

いま空は、目をあけつつあるんだ。新月は、閉ざされていた瞼そのものだった。どこにも見あたらなかったひかり。かつてひらかれたことのなかったその目が、今夜、ここで、あいていく。

(前掲書、104頁より引用)

 

「月を、探してたの」由良は夜の街をジョギングしながらビルの硝子に映る月を追っている場面がある(79頁)。硝子に映る月の、無数の輝きが眩しく、けれどもそのどれもが偽物なのだ。夜の街はまるで万華鏡の中だ。とても綺麗な場面で印象に残っている。月が万華鏡に入れられた色紙の切片、またはビーズのようにばらばらに砕けてきらめくイメージが浮かぶ。破片の光はしかし偽物で、天頂には満月がひとつ。その満月がまるで「目」のように描かれている。空高くから地上を見下ろすこの「目」は一体だれのものだろうか。この小説世界の地上すべてを見下ろすまなざしは人間の視点を越えていて、まるで「ふへんの神さま」のまなざしのようだ。この視点が小説全体を幻想的にしていると思う。

目をあけつつある空、夜空にあいた穴などと表現される月の存在は、目の見えない薄明の世界を生きることと対になっていて、とても面白く読んだ。

 

最後に、この作品に引用されている万葉の東歌について。

 

たまがわにさらすてづくりさらさらに なにそこの子のここだかなしき

 

「かなし」という言葉は「哀しい」とも「愛しい」とも通じる。どうしてこの子はこんなにもいとしいのだろう。いとしく、かなしいという感覚に何故か共感してしまい、この万葉の歌が忘れられなくなってしまった。人と人との関係性、いやそれだけでなくて、もっと広く人と何かの何らかの関係性にはこの「かなし」がぴったりとはまってしまうことがあるのではないだろうか。

この歌を、古来、蚕を飼うのは女性の仕事であったことと重ね合わせて読んでしまえば、まるで女性の「庇護欲」の表出が小説作品全体に流れているように思える。上司、伊佐田への由良のまなざしや、徳田を助けたいという思いなど、母親の庇護を十分に受けることのできなかった由良の庇護することへの強い欲望を感じてしまう。そんな由良のまなざしは第二章で蚕を育てるすずちゃんという登場人物のまなざし、または、すずちゃんをはじめ蚕飼に追われる女たちの子供の面倒をみる二章の語り手のまなざしにうっすらと重なる。

 

「迷宮はね、いつも抜け殻なんですよ。人間がその入り口を通って、ふたたび出口から抜けられたということは、それはもう、迷路ではないんです。すでに解かれてしまったあとだから。中心に居座っていた謎は、そのときには消えてしまっている」

――糸玉と、おなじですよ、毛糸の玉を幾らほどいてみても、なかからは何も出てこない。糸の道が繰りたたねてあるばかりです。

(前掲書、158頁より引用)

 

中心があると思って糸を手繰る。けれどもすべて手繰ってしまえば、もうそこにはなにもない。空洞ではなかったはずなのに、解いてみればなにもない。