言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

重要な曖昧さ――滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』

あとがきまで読み終えたあとで本の表紙に戻り、そこに描かれた人物の膝の上で握りしめられた手をみる。みてしまう、どうしても気になってしまう。その意味が、この本を実際に手にとって最後まで読んだひとにはきっとわかると思う。

今回は、滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』(NUMABOOKS、2019年)についての感想を書く。

 

numabooks.com

 

 

不思議な本だと思った。書かれている出来事から、私がそれを読むまでに生じた遅れがある。その遅れにちょっと感動する。文芸誌で連載されていた時のものを読んで、いやその前に滝口さんが実際にアイオワに行った瞬間があって、「わからない」に抛り込まれた日々があって、それを日記として書いた時間があって(なお日記の前半はアイオワで書かれていたらしく、9月30日の日記の結びが「部屋に戻り、日記。ようやく今日まで追いつく。」この感じが不思議でならない)、連載の載った文芸誌が発売された日があって、そこからだいぶ遅れて手に取った私が読んだ数日があって、それで今単行本化された『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を読んでいる。いや、待てよ。単行本化にあたり大幅に加筆修正した日々もあるんじゃないか……など、その他諸々の日常の暮らしのことも考えたら文字にするのも面倒なくらいの時間の流れを感じてしまう、そんな読書体験をしているのではないか? と読みながら何度も考えてしまった(日記の中に確かに時の流れを感じさせる日本の出来事が書かれていたり。たとえば心斎橋アセンス閉店の報やさくらももこさんの訃報、北海道の地震のニュースなど)。なんか、感慨深いよこの本。そして本のいいところは、いくら遅れても後ろめたい気持ちにならないことかもしれない、などと思う。

 

この本は、作者である滝口悠生さんが参加したアイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)の模様が書かれた日記をまとめたもの。期間は2018年8月19日から10月31日まで。ちなみに過去には柴崎友香さんや藤野可織さんもIWPに参加しているそう(もしかして私がちょっと気になっている韓国のハン・ガンさんも過去のどこかで参加してないだろうか? なにかで読んだような……)。

『新潮』2018年11月号から2019年2月号まで全4回連載された「アイオワ日記」「続アイオワ日記」「続続アイオワ日記」「続続続アイオワ日記」(この〈続〉がどこまで続くのかひそかに楽しみにしていた)を加筆修正したものに、『ちゃぶ台』vol.4に掲載された「チャンドラモハン」、『すばる』2019年1月号に掲載された「アイオワの古本屋」を追加して一冊の本にしたものだ。

27ヶ国28人が参加したライティング・プログラム。文芸誌連載時に読んでいた部分は今回再読のようなことになったので、重要な曖昧さ(confusion)が多少失われるのも覚悟で、ノートに登場するライターたちの名前と出身国名を書き出してみた。それでいくらか明晰になったかといえばそうでもなく、あれ? なんか30人以上いるんだけど? となってよく見返したらヤミラとチャイの名前が二回書いてあったり、プログラムの関係者をライターと取り違えて書いてしまったりしていた。間違えて書いてしまった名前に線を引いて数えたら今度は少なくて、やっぱりよくわからないことになったなぁと思っていたら、あとで「ユウショウ(日本)」を書き忘れていることに気がついた。

 

約10週間の滞在はとにかく「わからない」の渦中に抛り込まれたような日々で、その「わからない」に翻弄されつつも時々わかったような気がして、けれどもやっぱりよくわからない。そしてやがて「わからない」ことに慣れて気にならなくなる(列車のエピソードがとても印象的だった。窓から鉄道のレールが見えるのに、ついに列車を見なかったとか、130頁-131頁)。

英語が不得手らしい著者は正確に相手の話をききとることができないから印象に頼って理解しようとするけれど、それもまた合ってるのかよくわからない。わからないままに日々が成立し、過ぎていく。第二次世界大戦ミュージアムへ行ったエピソードでは、戦勝国アメリカと敗戦国日本では戦争の語り方が違う、ということに気付き、そのクリアさがこの博物館の印象になってしまいそうになるが、ふいに話しかけてきた中年の男性とのやりとりでそうはならずに済んだ、そのことを著者は「重要な曖昧さだった」と結ぶ。印象というのは本来曖昧さを含むもののはずで、それをクリアにしてしまうのはなんか違う、だから「Images of America」というテーマでスピーチしろと言われると腹が立つ。著者にとっても(他のライターたちにとっても)アメリカというかアイオワは具体の集積なのだと思う。それは今まで国名しか知らなかった場所にその時々で関わり合った人々の人柄や来歴が重なり合ってできていったもので、そういう具体の集積から改めてアメリカの「イメージ」なんてクリアな言葉を語ることはできないのではないか? 無理にクリアにしたものは印象(イメージ)ではなくなってしまうような気がする。

読みながらいろいろと心に残るエピソードはあったけれど、中でも特に気に入ったのは、トルコの詩人べジャンが話した牢屋の暗闇と子どもの頃に育った土地の美しい景色の話。そこにイラン映画の色彩を重ね、さらにべジャンの原色のビビットな色の服を重ねてきいていた著者の、べジャンに抱いた印象がとても美しく書かれていた。思わず笑ったのは「芥川賞」について他の国のライターに説明をしたエピソード。その話題の途中でだれかが「ユウショウは日本で有名なのかどうか」と挟んでしまったものだから話が混線してしまい、だから「very famous but not so important」という宙に浮いた言葉が結局なんだったのかよくわからなくなる。そういう笑い。

 

As you know, My English is very poor, During this program, I will get many moment of confusion. It is…まで話してあとが続かなくなったので、以上、みたいな雰囲気を出して終わりにした。

(前掲書、16頁より引用)

 

と、いうのが滝口さんの自己紹介として書かれているが、まさにたくさんの混乱または曖昧な瞬間からできあがった滞在だったなぁ、と一冊の本になった日記を読みながら思った。重要な曖昧さ。「あとがき」にあった「ある一日を、ある出来事を、日記に書いてしまったら、もうそのことは小説のようには書けないような気がする。」(283頁)という言葉が私の中にはいつまでも残りそうだ。

 

あなたが小説で伝えようとしているメッセージはなにか、と訊かれたので、メッセージとかは別になくて、と言うと、メッセージがない? と彼女は文字通り目を丸くして驚いた。読んでるひとが読んでるときにたとえばなにか関係ないことを思い出したり考えついたりするのがおもしろいし、それは結構すごいことなのではないかと思うんですよね、メッセージのやりとりというよりコミュニケーション? あとに残らない読むあいだだけの経験みたいな?

(前掲書、204頁より引用)

 

と、やたら勝手にいろいろなことを思い出したり考えついたりしながら書いた読書感想文を終わりにしたい、以上、みたいな雰囲気を出して(続かなくなったわけではないけど、これ以上書くと収拾がつかなくなる)。

 

やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)

やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)

  • 作者:滝口 悠生
  • 出版社/メーカー: NUMABOOKS
  • 発売日: 2019/12/26
  • メディア: 単行本
 

 

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