言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

意識の宛先―滝口悠生『茄子の輝き』

こんなちっぽけなブログを、ひとりでちまちまと書いている自分を、いつか別の自分が思い出すかもしれない。そのいつかの自分のために、こうして「意識の宛先」みたいなものを残しておいてやろうと思うのも、この小説のたのしみかたのひとつかもしれない。いや、待てよ。そもそもこの本を巡る記憶だったり、それを「素敵!」と思ったりした自分のことは、いつどこからどんなふうに思い出されるのだろうか? そもそも思い出されるのだろうか? みんな忘れてしまっているんじゃないだろうか? と思ったらたとえば何気なしにスーパーで手に取った茄子が蛍光灯の光を全力で反射しているのを見て思い出してしまうかもしれない。「忘れる」とは「思い出す」とはいったいどういうことなんだろうか? 今回紹介する本は、「覚えていることと忘れてしまったことをめぐる6篇の連作に、ある秋の休日の街と人々を鮮やかに切りとる「文化」を併録した素敵な一冊だ。

 

滝口悠生『茄子の輝き』(新潮社、2017年)

茄子の輝き

茄子の輝き

 

 

悲しみに暮れた日々も、思い出せない笑顔も、記憶も中で輝きを放ち続ける。
かけがえのない時間をめぐる連作短篇集。
(書籍の帯より引用)

 

妻、伊知子と離婚した2008年正月、3月の地震、カルタ企画という会社に入社して千絵ちゃんという存在が風景の中心にあった日々、2011年8月にカルタ企画を退社、それからカルタ企画の倒産。ひとりの男がかつて自分が書いた「日記」や「写真」を経由して過去のいろいろなことを思いだそうとしたり、思い出す過程で歪む空間など明瞭さとは反対のカオスを漂ってしまうような小説だ。妻と結婚前2006年2月に会津若松に行ったことと、会津若松が千絵ちゃんの実家の所在地であることが時を越えてオーバーラップする感覚も楽しい。主人公の風景の中心にいたはずの千絵ちゃんもやがて彼氏と出雲に行ってしまう、そんなことどもを思い出している「私」の記憶の時間や空間もどんどん不思議な広がり方をしていく。

 

これから婚姻届を出す、あるいは今出してきた彼らにとって、今日は人生のなかの特別な日であり、今まさにその特別さの只中にいて、今日の日付が来年以降も、ロビーの真ん中で立ち止まってさっき住民票と一緒にもらった領収証をポケットから取り出して日付を確認している冴えない私も、特別な日の背景となる。彼らのもとには、たしかに今とその先に続く幸福がある。私にとって今日は、このまま予定通り行けば、記載上、十五年ほどの運転歴がきれいさっぱりなくなったまっさらな免許の取得日になる。
(前掲書収録「今日の記念」168頁より引用)

 

長い人生の途中にいくつか「記念日」と呼べるようなものができあがっていくことがある。なんとなくそういう「日記」に書いてしまえそうなことを中心に、わたしたちの「思い出す」「忘れる」は繰り広げられているのではないだろうか。というか、「記念日」があるからこそ、そこを中心にして「思い出す」ことや「忘れる」ということが営まれていると言えるのではないだろうか。しかしその「記念日」は単なる中心ではなくて、その周辺にあったちょっとしたことを思い出すことで、どうとでもぶれてしまうようなものなのだ。固定されたものではないから、その時の前にも後ろにも影響されて変質してしまう。だからどんな些細なことがらであっても、それが記憶の営みに参与してしまえば、ふいにかけがえのない輝きを発してしまうかもしれないのだ。そうしたらそれは途端に「忘れたくないもの」になりもする。

 

そう言われて思い出す、橋のたもとで欄干にしがみついて何事か駄々をこねる自分の姿や、黄色いアロハの千絵ちゃんが笑顔で手を振って駅の方へ歩いて去っていく様子が、自分の記憶なのか、小麦谷の話からつくりあげた映像なのかわからない。天ぷらだの、茄子だの、餃子だのを、本当に食べたのかもわからない。しかし小麦谷の話では、私は欄干の隙間から川を見下ろして、大きな茄子が流れているぞ!と何度も言っていたというから、茄子を食べたのはたぶん間違いないし、あの茄子の輝きや、茄子を食べていた千絵ちゃんも幻ではなく私のたしかな記憶だと思う。
(前掲書収録「茄子の輝き」122頁より引用)

 

思い出される過去の馬鹿馬鹿しさ、その瞬間のひとつひとつ、そんな些細な日常のすべてをこの本は、いとおしいものとしていつくしんでくれるような気がする。写真や文字という記録も、記憶も、そのあてにならなさというか、いい加減さというか、心許なさも含めて全部がいとおしいのだ。なんて優しい語り方をする作品なんだろう、と読みながら思った日々の感慨を、私はまたいつか別の自分として思い出してしまうのだろう。