言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

黒くぬらぬらしたものが―沼田真佑「影裏」

第122回文學界新人賞受賞作であり、同時に第157回(平成29年上半期)芥川賞受賞作の「影裏」について、ようやく何か書けそうな気がする。非常に技術力の高い描写で話題のこの作品、実は一読目には良さがよくわからなかった。「うまい」のはわかる。だけれど、何が面白いのかよくわからない。そう思いつつ、何も書かないでいたのだけれど先日出た芥川賞選考委員による選評を読んで思うところがあったので、今こうして書いている。

※このブログ記事に記載するページ番号はすべて、文學界2017年5月号掲載時のものである。

 

影裏 第157回芥川賞受賞

影裏 第157回芥川賞受賞

 
文學界2017年5月号

文學界2017年5月号

 

 

そもそもこの作品のタイトル「影裏」とは何なのか? 一読目は作品の後半に出てくる「電光影裏斬春風」という言葉の二文字だろうとわかった気になっていたのだが、なんだか違う気がする。この言葉自体、わかるような、わからないような禅語らしく、手持ちの辞書には載っていないから仕方なくインターネットで検索をするも、やっぱりよくわからない。

「人生は束の間であるが、人生を悟った者は永久に滅びることなく、存在するというたとえ」(電光影裏の意味 - 四字熟語一覧 - goo辞書

 

これが「影裏」という小説作品となんの関係があるのか?

いや、はっきり言って関係ないのである。作中、日浅という人物の実家に飾られていたこの言葉についてこんなふうに書かれている。「不意に蔑むように冷たい白目をこちらに向ける端正な楷書の七文字が、何か非常に狭量な、生臭いものに感じられた。」(前掲書、36頁)わかったようなわからないような禅語のたとえ「永久に滅びることなく存在する」という不動の価値観についての拒絶だろうか。しかし、それならば何故、わざわざタイトルに「影裏」の二文字を持ってきたのだろう?

この素朴な疑問になんらかの答えを求めて、馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、大真面目に漢和辞典を引いてみたりした。そうしたら「影」と「裏」の二文字から、どうも「外側から見えないもの」という意味が浮かび上がってきて、あるいは作者はこの二文字にこのようなものを仮託したのではないか、と思えてきた。

そして、この「外側から見えないもの」を見ようとして小説の中で表現した場合、それは「黒くぬらぬらしたもの」として立ち現われるのではないだろうか

たとえば、電光影裏斬春風という文字は「滴るような墨汁」(33頁)と書かれる。「さて、と立ちあがった氏の影が、それをつまんだわたしの指を冷たく浸した。」(37頁)、「黒々と濡らして消える波の弱音」(31頁)、「背からたっぷり黒漆をそそいだような」(16頁)という表現が見つかる。私はこれらの表現にどうしても「黒くぬらぬらしたもの」を感じてしまう、というか、そう言葉を与えてみたくなった。ぬらぬらしているかどうかを別にするなら「黒」のイメージは作中にいくらでも見つかる。だからこの作品を貫くカラーは間違いなく「黒」だ。その色が「影」と結びつきもして、「外側から見えないもの」この得体の知れないものは黒いような気がしてくる。

「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」(11~12頁)日浅、「ある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向」(12頁)をもつ日浅という登場人物の目には見えない内側(心の中)を支えるものは、得体の知れない黒くぬらぬらしたものではないだろうか。この人物に対して主人公の「わたし」や読者が抱いたイメージは後半になって少しずつ崩れていく(その崩壊が震災と結びついているのでちょっと都合よく出来過ぎているような気がしてはいるのだが)。たとえば日浅の生活の頽廃ぶりであったり、学歴詐称が判明してしまうと、それ以前には泰然としていた日浅の印象も変わってしまう。とにかく、日浅のイメージの崩壊のあとで、それまで外側から見えないものであった「黒くぬらぬらしたもの」が浮かび上がってきて、読者はそれに直面しなければいけなくなる。面白いのは、そういう秘匿されていたものが露わになったあとも「わたし」は日浅に対して「頼もしく感じた」(37頁)という前向きな感慨を持っているところだ。「わたし」にとって、たぶん日浅は崩壊しておらず相変わらず不動のものとしてイメージされ続ける。それは後半に出てくる「逃げまどうバッタ」と「動じない縞蛇の子供」の描写からも明らかだ。そんな「不動」が「電光影裏斬春風」から導かれる永久の存在と通じるならば、やっぱり少し胡散臭くもある。

崩壊したことで見えてきた黒いぬらぬらした得体の知れなさ、みたいなものは単に崩壊以前は外側から見えなかっただけで、始めから存在していたものではないだろうか。ここで高樹のぶ子氏の選評を思い出す、引用しておこう。

 

言葉を掴んでくる視力とセンスの良さに感服し、引きこまれて読むうち、この美しい岩手の地中深くに内包された、不気味な振動が徐々に表面化してくる。それは釣り仲間の友人の異変として顕れる。何かをきっかけに表層の覆いが剝ぎ取られて邪悪な内面が剥き出しになるのは、大自然も人間も同じで、東北大震災はこのように、人間内部の崩壊と呼応させて書かれる運命にあった。」

文藝春秋掲載の、第157回芥川賞高樹のぶ子氏の選評より抜粋)

 

また吉田修一氏の選評にはこうある。

 

作者の筆は核心から離れよう離れようとするごとく、岩手の美しい自然を描写していく。そして自然を精緻に描写すればするほど、離れたはずの核心がなぜか近づいてくる。遠景としての核心が近景に、近景としての自然が遠景となるような混乱が起こる。では、その核心とはなんなんだ? というのが選考会での議論になった。

文藝春秋掲載の、第157回芥川賞吉田修一氏の選評より抜粋

 

この小説の核心がなんであるのか、私にはいまだわからないが、それに近いものとして黒いぬらぬらとしたものが存在しているように私には思えた。

また「影裏」というタイトルが気になったから自然と目がいってしまうのだが、作中に二度出てくる結婚式場のパンフレットに一度ずつ「影」と「裏」の文字があらわれている。これは単なる偶然なのか、それとも描写のうちにさりげなくイメージを挿入してくる作者が仕込んだものなのか。パンフレットの新郎新婦の姿は「過剰に覆い焼きを施した写真」であり、その不自然に影をなくした写真はみるものの手が作り出す影に暗む。