言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

こーりゃ、どうしてってぐらい生い茂っとるたい―古川真人『背高泡立草』

あのひとたちがあんまりよく喋るもんだから……と、草茫々の納屋の前に立って溜息のひとつでもついてみることを想像する。それで、この溜息の意味はなんだろう?うんざりなのか、次々と移り変わる話題の広さや語られる過去の深さへの期待なのか、それとも埋もれたものをみつけた安堵なのか、はたまた幸福なのか、自分でもわからないままに読んでしまった本の話。

言葉が繁茂するよろこびと、それによって埋もれ忘却されてしまう記憶と、その忘却にあらがうかのようなひとびとの営みを「草刈り」の一日に込めた素晴らしい作品。

今回は第162回芥川賞受賞作である『背高泡立草』の感想を書いていこうと思う。

 

【第162回 芥川賞受賞作】背高泡立草【第162回 芥川賞受賞作】背高泡立草

 

 古川真人『背高泡立草』(集英社、2020年)

「草は刈らねばならない。そこに埋もれているのは、納屋だけではないから。」

(帯文より引用)

 

 

作中を流れる時間はたったの一日。

その時間の移り変わりの合間に吉川家の〈古か家〉にまつわる過去の出来事が語られていく。戦中に島を出て満洲へ渡った者の話、戦後に釜山に行こうとしていた船が転覆して島に流れついた者の話、捕鯨の際の鯨にとどめを刺す役である刃刺の青年が松前に行って再び帰ってくる話、カヌーに乗って島に漂着した少年の話。いずれも吉川の〈古か家〉とともにあった時間によってのみ繋がるエピソードだ。出て行くものと入ってくるものの話が語られるのは「島」という場の地理的特性を表しているように思えた。さらに「セイタカアワダチソウ」という植物をネットで検索してみたら、どうやら、明治時代末期に日本国内へ持ち込まれた帰化植物外来種)らしく、お前も入って来たものかと笑った。

 

けれどそれよりなによりも、「言葉が生えてる!!」と感じた時、私はこの本に埋もれた深い感動を掘り出したのかもしれない、と思った。

 

それは、「島」で草刈りをする一日。

草の茫々に生えた場所に埋もれるようにして立つ吉川家の納屋はもう使われなくなって二十年以上は経つようだが、それでも当たり前のように草を刈ろうということになって美穂、加代子姉妹とその兄哲雄、姉妹のそれぞれの娘である奈美と知香が島にやってくる。だけれど奈美にはどうしてもわかならい、何故、誰も使う者のない納屋の回りの草を刈らねばならないのか……。

葛、魚腥草、芝、虎杖、背高泡立草、蝦蔓、野薔薇、紫陽花、秋茱萸、方喰、大葉子、菜切菅、引蓬、浜菅、蟹釣草、薄、蠅毒草、常盤爆、癇取草、藪虱、刺草、蚊帳吊草……。

おお、生えてる生えてる草茫々だ、と最後のほうを読んで思う。まるで言葉によって草が生えて来るかのように次から次へと、ルビがなければ読めそうにない植物の名前が出てくる出てくる。

というのも、ここに登場する人物たちが喋る様子がまさに草茫々を彷彿とさせるのだ。

 

 

そして、食卓の側のテレビの音(それは耳が少し遠くなっていた敬子に合わせた大きな音量をスピーカーから出していた)、椅子を引く音、食材が焼ける音や蛇口から水が出る音、箸はあるか、余った取り皿はないか、お茶葉冷たいのが良いか、醤油はどこか、とそれぞれおが勝手に口から出す言葉や、スモークサーモンをサラダに入れるのを忘れたようだ、冷凍庫に入っていたこれはいつの魚だろう、いまお客さんの声がしたのではないか、いや、どうやらテレビの声だ、といった誰に問いかけるでもない独り言めいた言葉が合間に挿し挟まれる通常の会話が主に美穂と加代子によってなされ、騒がしさも彼らが食べているあいだ中、食卓の周りを巡り続けるのだった。

(前掲書、36頁引用)

 

よく喋るひとびとの、この食卓の描写を私は「草茫々みたい」と形容したい。「二人(加代子、美穂)は口から出る言葉を辺り一面にどこまでも、ほしいまま繁茂させなければ気が済まなかった。」(前掲書、13頁より引用)だとか、「年老いた敬子は、孫たちの話している内容というより、口の良く動くことに見惚れるように黙っていた。」(前掲書、67頁より引用)だとか。

 

こんなに喋って言葉を茫々にしてしまうから埋もれて(忘れて)しまうものもきっとある。日常の当たり前のようにしている会話が積み重なっていく時間の底にやがて埋もれてしまう記憶もあるのだ。たとえば挿話として挟まれる土地にまつわる過去の物語……。

 

声と草を重ねた読み方をして面白がり、あんまり喧(かまびす)しく生えすぎて記憶が埋もれてしまうということに気がつき、いつかはだれも草なんか刈らなくなって埋もれてしまった納屋が忘れられぽつねんとあるようになるんだろうかとさみしくなり、だが「生えたら、また刈りに来るとよ」(72頁)という加代子の言葉と、たぶん賑やかなひとびとだから言葉と同じく草もあっという間に繁茂するだろうけれど「これから草刈りに向かう夢を見てたから、びっくりした」という知香の台詞のあるラストに、そうかまだ生えるし刈るし、そういう一族の営みは続くのだな、埋もれないし忘れないのだな? という思いがして救われたような気持ちにもなった。

かけがえのないものは案外、どうしてやらなければならないのかわからないような年中行事(?)みたいにしてあるのかもしれない。

 

※デビュー作『縫わんばならん』から応援してきました。

芥川賞受賞、おめでとうございます。今後のご活躍、たのしみにしております。

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