言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

その視線から「永久に」逸れてしまうもの―ル・クレジオ『ロンド その他の三面記事』

今回はル・クレジオの短編小説集『ロンド その他の三面記事』を紹介したいと思う。

 

ロンドその他の三面記事

ロンドその他の三面記事

 

 

収録作品は、
「ロンド」「モロク」「脱走者」「アリアーヌ」「オロール荘」「アンヌの遊び」「気ままな生活」「越境手引人」「泥棒よ、泥棒よ、お前の生活(くらし)はどんなもの?」「オルラモンド」「ダヴィド」の11篇。


私が読んだことのある他の短編集に『海をみたことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』という本がある。こちらの短編集が書かれたのは1978年、今回紹介する『ロンド』は1982年。どちらの作品もル・クレジオにとって「自然」ではなく、意識的に作られ、獲得された極度に平明・単純な文体をしており、著者の初期作品を読みなれているひとの中には、この変貌ぶりに驚くひともいるのだと思う。本書の巻末についている訳者 豊崎光一の解説も「ル・クレジオ変貌?ーー子供、女、外人」と題されている。ル・クレジオの関心は「どう書くか」ということから「何を書くか」という方へ比重を移していったのではないか、という印象を私は単なる一読者として持っている。

好みの問題はあるけれど、私はル・クレジオが意識的に作り出してきたという「平明、単純」な文体が好きだ。光の描写ひとつとっても、様々な表情を持ち、時に貧しく悲惨な状況さえ神話のような輝きがみちあふれる。
『ロンド その他の三面記事』には『海を見たことがなかった少年』と似たモチーフが登場する。たとえば「オロール荘」に登場する神殿のように理想化された美しさは「モンド」で描かれるティ・シンの「金色の光の家」や、また「リュラビー」という作品で描かれる「カリスマ」という文字の書いてある六本柱のあるきれいなギリシャ風の家を思い起こさせる。それから「本来いるべき場所にいない」(たとえば決められた通りに学校に行かない)ことや、きつい生活のさなかに生きつつも、「ふらりとどこかへ行ってしまう」(実際の行動が伴うことも空想によるつかの間の逃避であることもある)ことやそれを予感させるというモチーフも似ている。しかし『ロンド その他の三面記事』と『海を見たことがなかった少年』は対照的な作品だ。後者においてはおそらく意図的に消されていた現実的な問題とそれに付随する悲劇が前者では際立っている。キーワードとして反復されるのは「空虚」や「静寂」であり、「永久に」いなくなってしまうこと(不法移民、子供っぽい失踪の果ての疲弊、死)、失われてしまうこと(例えば子供の頃の美しい記憶の喪失)が繰り返し描かれる。

これらのことは人の視線の届かないところへ消え去ってしまうことだと私は思う。なつかしむことや、先を見据えること、そういったまなざしはどれも自由なのだけれど、消え去ってしまうことは、取り返しのつかないことでどうやってもあらがうことのできない悲しみや苦しみがあるのだと思う。『ロンド その他の三面記事』に描かれる光は、あわい美しさというよりも、鋭さが強調されていて、厳然と存在する悲惨な現実を照らしているようだ。厳しい光が描かれていなけれが「灰色」だ。それは都市の場合もあれば、日の照りつける前の色でもある。冷え冷えとして、あたかもだれもいないよう。
さて、この本に描かれている「三面記事的な」エピソードをいくつか紹介したいと思う。今回取り上げたいのは「オロール荘」「脱走者」の二作品。

 

 

■「オロール荘」

 


本書に収められる作品のなかでこの作品だけが一人称形式で描かれ、そのモノローグ調のタッチが、失われてしまう事柄(場と記憶)の痛ましい残響を感じさせる作品である。
「雲の色をした大きな白亜のパレス」オロール荘と、かつての美しい庭の描写。ここを訪れてた頃の幼い「私」ことジュラール・エステーヴは、「オロール荘」という名も、そこに住んでいる人の名も知らないでいた。オロール荘に行くことを「野良猫の庭に行く」とか「壁の穴をくぐって行く」と表現していた。住んでいるひとのことは「オロール荘の奥方」と呼んでいて、その名のない記憶が神秘的に表現される。

 

 

だが私(ジュラール・エステーヴ)が彼女について持っている記憶は不正確で、とりとめがなく、辛うじて知覚できるようなものであり、彼女を現実に見たことがあると完全には確信が持てず、ときおり、むしろ空想で考え出した存在ではないのかといぶかられるほどだった。
(前掲書96頁ー97頁)

 

オロール荘の庭にある一種円環状の神殿に書かれていた言葉「Ουρανός」、「私」は長いあいだこの言葉を意味もわからず眺めていた。
「私」がオロール荘をオロール荘として、つまりその名をはっきりと認識する時にはもうそこへ行くことはなくなっていたし、そのころにはこの魔術的な言葉も消え失せていた。そのうちに開発は進み、思い出の奥底にあったオロール荘の姿は失われつつあった。

 

私は今しも理解したのだ、遠ざかることによって、私の世界から眼を離さずにいるのをやめることによって、その世界を裏切り、それをこうした変異に委ねてしまったのは私であると。私は他処を眺めていた、他処にいた、そしてそのあいだに、物事はすっかり変わってしまい得たのだ。

(前掲書105頁より引用)

 

「私」が再びオロール荘を訪ねた時、オロール荘の奥方の名前がマリー・ドゥーセであることを知るし、彼女に会うことにもなるのだけれど、そうしたことで「私」はもう何もかも失われていくことを悟るにいたる。「何ものも、今やここに領している傷痕、苦痛、不安を隠すことはできなかったから。」(118頁)
あとに残されるものは沈黙、もうオロール荘には誰も訪ねてこないだろうという大きな沈黙、それから都市によって暴力的に破壊されていくことを予感させる「野蛮な叫び」で物語は閉じられる。
物事には、はっきりしないが故にその存在が担保されるという側面もあるだろう。白黒はっきりさせてしまうと、ぼやけて消えるものの存在だ。この作品ではそういうものが回想の形式を用いて巧みに表現されている。「オロール荘」「マリー・ドゥーセ」とその名が明かされ、さらに実際にその場へ踏み込み、その眼でみることによってかえって失われてしまうものがある。ここで私は神話のリアリティということを考えてしまう。つまりそれは証明され得ないからこそ、確固たるものとして存在している(たとえその存在が人々の意識の中に限られたものだとしても)。なんでもかんでも証明して明示しようとすることが(こういう姿勢が科学の姿勢で、これはこれでとても重要なことなのだけれど)「近代化」であうとしたら、そういうことによって失われてしまったものなんていくらでもあるのだろうと思う。神話的輝きにあふれていたオロール荘や、幼少期のあわい記憶がそういう種類のものなのだろう。

 


■「脱走者」

 

 

何をしでかしたのかは知れないが、どこかの牢屋から「脱走」してきたタヤールが過去をなつかしみ、そこへの回帰を目指しているかのように山の中をさまよう。

 

兄といっしょにいて、二人で羊の群れの番をしていたとき、ここを歩いた、まさにここを。彼はそれをよく覚えている。
(前掲書51頁より引用)

 

山の中で眠るための「避難場所」を探すタヤール。過去の記憶を回想しつつ、追体験しているような書き方はまさに「避難」的であるが、空腹と渇きと疲労という現実の苦痛は容赦なくタヤールにおそいかかる。
そしてやがて「回想」すら悲劇的な様相を呈する。昔シェリア山の斜面でひとり兵士から隠れていたこと。ティムガードの遺跡(アルジェリア北東部)を通り抜けてランベサまで行き、食べ物と金と自分に残されている伝言を知ろうと行ってしまったライスおじさんは戻らない(おそらく死んでしまっただろう)。
そんな中、タヤールの前にひとりの小さな少年が現れる。「タヤールは彼をよく知っている、彼だとわかる。その子は彼に似ていて、まったく彼自身の影のようだ。」(69頁)
たしかに、この少年によってタヤールは一瞬救われた。しかし「彼自身の影」のような存在(過去の回想に登場するような小さかった頃の彼に似た存在)では、もはや現状を打破することはできはい。というより、むしろこの小さな男の子は兵士たちを案内し、タヤールの方へむかってくることを暗示させて作品は閉じられている。まるで過去や記憶にまで裏切られてしまったかのように。