言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(新潮2015年5月号掲載)に寄せて

2016年2月7日追記

遅くなりましたが、単行本出てます。電子書籍版もあるようなので、ジミヘンはエレキっしょ!という方はそちらもどうぞ。

 

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス

 

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「それにつけても思い返せば思い返すほど、あまりに捉えどころのなく散漫な風景を、こうしてひと連なりの言葉と言おうか、意識と言おうか、関心の糸みたいなものが、ぐねぐねと曲がりながら、どれだけ嘘やでたらめが混じろうとも、ひとつの軌道を辿れるのだから、人間の想像力というのは、たいしたものと言うか、いい加減なものと言うか。」

   (滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」本文より引用)

 

 間違いなく、この小説の核心はこれだろう。いわゆる「過去の回想」で成り立っている小説、だがしかし、その回想によるシナリオはあくまで不確実、そういう人間の記憶の曖昧さに正面から切り込んだ作品と言えそうだ。

 

「思い出される過去を、今という時間でなく、過去の時間のままに思い出すことはどうしてできないものか。」

「何かを思い出そうとすれば焦点が生まれ、焦点が生まれればどこかがぼやける。」

(いずれも本文より引用)

 

 どれほど筋道だった日記を書いたとしても、それは現在という地点から漠然とした過去の風景を振り返ってみて、覚えているところだけを言葉で再構成したにすぎないのだ。我々は過去をもう二度と経験することはできない。たとえどんなに優れた記録装置が開発されたとしても、それを無意識のうちに編集するのは現在の我々の感覚でしかないのだ。

 この小説は形式がとても面白い。タイトルに「ジミヘン」とあったので思わず買ったのだけれど、この「ジミヘン」の使い方が面白くてしょうがない。ジミ・ヘンドリクスとは奇抜なギターパフォーマンスで世界的に有名なギタリスト。例えば、楽器を叩き付ける、燃やす。溢れんばかりの若い衝動とともに描かれるギターを燃やすというシーンは印象的だ。涙もエフェクター、など小説のところどころにこだわりを感じる。だけれど一番面白いのはフィードバックノイズだ。「アンプから発された音にギターが共振して起こるフィードバックノイズを利用して、アンプに近づいたり、ギター自体を揺らしたりすることで、そのノイズを演奏の一部に取り入れた」このようなジミヘンのギター奏法が小説の形式になっているのだ。ジミヘンのギターの音がする、そんな小説だった。

 主人公の過去の行動が現在の彼を作っている、そして彼は現在の地点から過去を回想して、記憶としての過去を再構成するのだ。再構成された過去が物語として作品に提示される。大学一年の時のバイク旅行だったり、高校生の頃に出会った房子のことだったり。本当はどれも記憶として漠然とあるだけのものなのに、小説である以上はっきりと言葉として書かれる、言葉として書く以上は焦点が生まれ、焦点が生まれればどこかがぼやける……。そういう記憶の性質についてかなり意識的に描かれていた。

 ラストで雨が降っているにも関わらず焚火をするという男が登場するんだけれど、それについて「雨が降っているというのにちょっとおかしいのではないか。」という文章で作品が閉じられる。始めは何だろうと思ったが、これこそ記憶の糸が絡まりあった間違った過去の再構成なのではないだろうか?このシーンは大学一年生のバイク旅行のワンカットに、その旅行後の出来事「焚火をする主人公自身」が重なって生まれた想像上の過去ではないだろうか。

 

人間の意識というものに切り込んでいくこの作品、今年新しく読んだ小説の中ではおそらく3本の指に入るくらいに好きだ。

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第153回芥川賞の候補作になっていた滝口悠生「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」。新潮掲載時から「これは芥川賞狙えるかもしれない」と思って、FBにいろいろと書いていたものの一部を今更掲載(苦笑)

今回は話題性のある受賞発表になったので、これを機に本を読もう!という人が増えたら嬉しいですね。